『48歳の原点』(ブログ開設当時48歳⇒現在64歳になりました!!♡

兄の亡くなった年齢62歳もとっくに通過( ᐛ ) ナイスゥ64歳ですꉂꉂ(ᵔᗜᵔ*)

『ママのおにぎり』(^^ゞ

2012-09-06 09:40:45 | その他
ARちゃんと付き合ってる頃に筑波山に行きました

何かに憑りつかれたかのように
毎週一回、毎月ちょっと遠出、数ヵ月に一度旅行
全国制覇を目指し出掛けていました

筑波山は・・・と言うよりmaiは出掛けるのは嫌い
どこに出るのも億劫、旅行も嫌い
ARちゃんと逢いたい、一緒に居たい一心で
行きたくもない山登りにも頑張って行きました

第一に朝早く起きるのが苦手、
そのDNAを三女が見事に受け継いでる

筑波山に行こう!
その前に鳩の町ににも行こう!
東向島?鐘ヶ淵?待ち合わせ~

山登りの恰好も無いと言うとARちゃんが
シャツとパーカーベストを買って来てくれました

鳩の町散策&撮影が終わってつくばに乗り換え
洋服も車内で着替え、いざ筑波山へ!

山なんて登ったのは(山と呼べるか?ですが)
小学校の高尾山以来40年振り
それでも(その頃はJEXER三昧)日頃の運動がものを言い
難無く登頂!

帰りのロープウエイ乗り場のベンチで食べた
おにぎり
たらこのおにぎりは
ママのおにぎりだったんです
ARちゃんは知りません
母も自分が作ったおにぎりをARちゃんが食べたことを知りません

ARちゃんと山登りが決まった時に
mai「何々日、朝、おにぎり作ってよ!たらこのおにぎり!」
母「何個?おにぎりだけで良いの?うん、解った、取りに来るんでしょう」
おにぎりだけで良いの?ってあんた他に何か作れるのかい?
そう思いましたよ(笑)
そうだ、沢庵くれたかも?

ARちゃんが「大きいおにぎりだね」ってパクパク
3個食べてくれたかも?
ARちゃんはママの作った物を食べてるんですよ(笑)
最初で最後のママの手作り

ARちゃん、黙ってたけどあのおにぎりは
ママが作ってくれたおにぎりなんだよ!
美味しかったね、筑波山で食べたおにぎり美味しかった
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『こども葬式』(^_^;)

2012-09-06 06:40:09 | その他
母の晩年は(特にここ2年)色々書いて来ました

最初から今のように貧しい訳ではなく
一通り世間並みのことはやってきたつもりです

昭和4年生まれ
10人兄弟の一番末っ子
女(母の養親24歳上)、
女(17歳上)、
女、
男(三人女の後の長男・・・これがまたろくでもない)、
男(母の上の兄、銀座でトランペット吹きをやってた60前に亡くなった)、
女=母
多分母だけが大学に行った
10人の内の4人は子供の頃に亡くなったのでしょうね
母は存在も知らない、聞いてないそうです

わたしのおじいちゃん=母の父は、母が7歳の頃に
「起こして来て」と言われ起こしに行くと起きない
亡くなっていたそうです
わたしのおばあちゃん=母の母は、わたしが3~4歳頃?亡くなりました
かすかな記憶があります(写真での記憶かも?)

母の兄弟は長男が数年前に亡くなって
母一人が残っていました

家系的にはその長男が80歳を超えたくらいで
他は全員長生きでも70歳そこそこで亡くなってます
父は64歳、高血圧⇒脳溢血⇒中気

家で介護に時代でしたので
一緒に住んでた8人の内の4人の介護を母一人でしていました
いっぺんに4人ではなく
一人具合が悪くなり、入退院、自宅療養、亡くなる
その繰り返しの20年くらいでした

父が亡くなり、その時57歳だった母は
家、マンション、全てを売りスナックを開業
この頃が母の一番楽しかった時期だと思います

羽振りも良く、皆にママママって呼ばれ
競馬場でも班長で、皆を自分のお店で遊ばせて
3000円で飲み放題食べ放題・・・
5年くらいで大赤字の末閉めました(無理もない)

わたしは、長女二女のため、朝~晩、土日も働きました
その時兄は無職・・・子供の面倒をみててくれました
三姉妹とも保育園と母と兄が育ててくれたようなものです

大嫌いな母と同じ道を歩んでいたんですね
三姉妹も
学校に来てくれない、家に居ない、何もしてくれない
淋しい思いをしたことでしょう
特に長女二女は鍵っ子で二人でお留守番
今も仲良し、これ以上仲良しは居ないってくらい仲の良い姉妹です

苦労した、わたしは死ぬほど働いた
長女二女は淋しい思いをした
それなのに、母思いの良い子です

母は死んでも誰にも知らせるな
病気で入院の時でも姿を見られたくない
誰にも会いたくない
これは母の遺言と思い
兄、わたし、三姉妹、二女の彼、ARちゃん、お義母さん、
たった8人、たった8人でのお見送りです
たった8人ですが、母が心を許した見送られたい8人です

霊安室で(病院の方が一応決まりでお呼びするのでしょう)
葬儀屋さんを呼んでくださって
その方のお話しだと、大半は
「葬儀社が決まっておりますのでお引き取りを・・・」
ただ、浅○寺病院が福祉に篤く、経済的に困ってるご家庭
身寄りのない方、家の無い方、看てくれる病院なので
中にはお任せされる場合があるそうで・・・
家も経済的にお困りだし、身内も少ないので密葬と言う形で
兄が
「お金があれば、幾らでもかけてやりたいんですよ」
本当です
お金があれば、兄と私の二人の葬式だとしても
盛大な告別式をしてやりたいですよ
幾らかかったって良いですよ
でも、如何せんお金が無い
母が10年頑張って、借金の返済、過払い分請求での還付金
少ない年金で貯めておいたお金で
兄としては出来る限りの葬儀を執り行いました
火葬だけですが立派な葬儀です

わたしが20歳~の葬儀は家で行い
隣近所、親戚一同、それはそれは盛大な告別式でした
それそれの働いてる所から弔問に来てくださり
マイクロバスで町屋火葬場に行き、沢山振舞ってました
葬儀社の方のお話しでは
今、火葬斎場での通夜告別式が多いそうで
倹約しても120万円、普通では150~160万円
上の見ればきりがありませんが・・・
亡くなった故人の希望と残された者の気持ちですよね

今は結婚式同様、質素な、またはやらない方が結構いらっしゃるそうで
火葬だけ、密葬、質素、決して恥ずかしいことではないようです
そうですよね、見栄を張ってたって仕方がない
母が晩年心を開いた8人で最後のお別れです

実際、火葬だけでもこの後告別式もやるし
密葬と言う形?家族葬かな?
それでもかなりのお金が掛かります
(具体的には癒えませんがネットでの相場ご覧ください)
あってはならないこと、悲しいことですが
順繰りです、いつか皆様もその時が来る
その時のための少しでも参考になれば(言い方が変ですが)
そう思いこれを書いています

いざと言う時と言うのは、病気、事故、嬉しい行事は良いですけどね
それでも冠婚葬祭、いずれにしてもお金が掛かることは確かです

母が最期に残してくれたお金で&兄のお金で賄えます
人数こそ少ないけど立派な、心温まる葬儀でした

ここ数年、世間を知ってる、一端に大人の気でいましたが
知らないことが多いこと多いこと
近いところだと、職安の手続き、マンション売買、家の購入、
離婚、結婚、各手続、庭の雑草(笑)、会計事務所の仕事・・・
何にも知らないんだなぁー
知らなくても生きては行けるんだなぁー

母は死なないものだと思ってたので
また、死んでも仕方ない、死んじゃうんだろうなぁー
居るからこその感覚ですね
今、お母様がご健在、ご病気でも生きてらっしゃる方
一緒に住んでる方、離れて住んでる方、要介護のお母様
色々で・・・中には介護が大変で「もういや」
そんな大変な方も(介護、費用)いらっしゃるとは思いますが
どんな形でも生きてるのは有り難いと思います

母ほどではないけど、わたしも20歳頃は介護経験ありです
おしめ、おまる、尿瓶、身体を拭く、起こす、寝かせる
運ぶ、食べさせる、ご飯を作って持って行く
イヤでした、本当にイヤでした
ビニール手袋して尿瓶やおまるを持ってました

可哀相なことをしたと思うのは、父が
「はっちゃん、おしっこ捨ててくれるかな」って言ったけど
面倒だし、イヤだし、しばらくほっといて
それでも流石にマズイなと思い捨ててあげると
「ありがとう」って・・・ごめんね、父への思いも重なります
それに比べれば、母は浅○寺病院でそれはそれは手厚く看護されました

医師、看護士、介護福祉士、とても良くやってくれました
感謝致します

納骨の8人です
ご住職様が七七日に告別式と納骨式をしましょう
と言ってくださったので執り行い
その後は昔法要で使ってたお店に行き皆で会食致します

今、わたしの周りにも年代的に、
母の介護で大変、
介護のために仕事を辞めて看てる、
父の介護に週一回実家に行ってる、
自分の母親の実家に行き、ご主人のお母様の介護施設に行く
両母親の面倒をみている方もいらっしゃいます

昨日はARちゃんの会社=maiも居た、
Sさんの(43歳くらい男性)お母様が(63歳!)お亡くなりになったそうです
Sさんは今、家を建ててる最中なんですデザイン家屋で洒落てるお家
お家の完成を見せたかったことでしょう
無念だと思います

母の火葬の日の夜に二女から
「地震とか津波でいきなり何も出来ないで亡くなったんじゃなくて
最後はみんなで会えたしちゃんとお見送り出来たんだから、元気だしてね」
続けて
「お兄ちゃんが一人で寂しくなると思うから気にかけてあげてね」
「お兄ちゃんふざけてたけど寂しいだろうからね」
メールが来ました

わたしはロクでもない母親だけど
娘3人は優しい良い子に育ってくれました
おばあちゃん子な三姉妹
ママ育ててくれてありがとう!

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『母から・・・』

2012-09-06 00:52:54 | その他
後から後から哀しみがこみ上げてきま
一つも哀しみは癒えません

好き嫌いが多く、そのくせグルメで・・・
あれが食べたい、これが食べたい
注文が多かったです

ここ2年くらいは食べられない
食欲が無い
でも、これなら食べられるかも?って言う物を
片っ端から買って、作って、持って行きました

あずきキャラメルが食べたいと言えば町中を探し
スーパーのあずきキャラメルを買占め
更に取り寄せてもらうように頼んで

佐久間のいちごミルクが食べたいと言えば探し歩き
飴と言う飴、固さ、味、様々取り揃え
この2年の間に何度持って行ったことか
何度、郵便局のゆうパックで送ったことか

兄も母が食べたいって言う物を買って来てくれて
病院の帰りに一緒にご飯を食べたり
これ以上出来ないくらい母のお世話をしていました

さきいかやレモンヨーグレット?
浪花屋の柿ピー
食べたいって言う限り持って行きました

松屋では日山のハンバーグ弁当、船橋屋のくずもち
米八のお赤飯、アサリ飯、卵焼き、モダン焼き
味噌漬け、梅干し、大黒屋の天ぷらと天つゆ

梅むらの心太
あろーむのレーズンサンド
徳太郎のきんつば
千葉屋の大学芋
こごめ大福
桃太郎の豆もち

引っ越して2年は家に居たので
母の所へ何度も行くことが出来ました
能登屋で食べた天丼、カレーうどん
華春楼のかた焼きそば、海老ラーメン
ほとんど食べないからわたしが1.8人前くらい食べて
それでも、「あー沢山食べた」って
小さい頃、夜も働いていたので
一緒にご飯を食べたことがありませんでした

毎日毎日店屋物でした
中華、洋食、日本蕎麦屋、飽き飽きするくらい
店屋物で育ち、大きくなってからはお金をもらってて
母の味も母親らしいことも何も無かった母ですが
最後は一緒に色々な所に行き一緒にご飯を食べました

父兄参観も運動会も何も来てくれなかったけど
来られなかったんだよね
働いてて・・・
淋しかった
わたしだけ母親が来ない、生きてるのに来ない
今は解る
それに、ちゃんと言った
怒られたこともなかったし
何でもやってくれたよね、ありがとうって言った
言って良かった

世の中にはお母さんをもっと早くに亡くした人
離婚して母親が居ないで育った人
色々な境遇の人が居ると思う
今現在、闘病中のお母さんが居る人
介護が必要なお母さんが居る人
何に比べることは出来ないけど
母親と言うものの存在がこれほど偉大だとは
母が居なくなるということがこれほど辛いと言うことが
生きてる内は全く想像出来なかったです

でぶさんって呼んでた祖母(母が養子縁組した実の姉)
その連れ合いのおじいさん(可愛がってもらった)
ばあちゃんって呼んでた伯母
婿養子の父
二十歳頃~二女が産まれた頃に続けて亡くしましたが
泣いたかな・・・泣いたと思うけど
これほど辛くは無かった

なんで死んじゃったのかなぁ・・・
お金の心配も何にもしないで良くて楽が出来るのに
ようやくゆっくり出来るのに

居ないんだな、もう、居ないんだ

迷惑掛けずに亡くなった
本当に母らしい、生き方
母らしい死に方でした

家に来てもらったし
お墓参りもしたし
二女の彼氏にもあったし
最後に豆もちも食べてもらったし
後悔はないんだけど、納得いかない
人の死は辛い

母が・・・仕事頑張りなさい
この人に傍に居てもらうよ・・・
お前を助けてくれる人だよ・・・
わたしからの最後のお前に出来ることだよ
そんな人が職場に入ってくれました
今日は二人勤務でお話ししましたが
その人のお蔭で仕事頑張れそうです!

人に恵まれてる
これは母が与えてくれたものかもしれません
沢山の人に支えられてるんだな・・・感謝します
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