桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

朝の散歩(2)

2010年07月04日 09時11分33秒 | のんびり散策

 今朝、また鴉どものエールの交換で目を覚ましてしまいました。やはり鴉に起こされた三日前に較べると、さらに寝不足です。
 頭の中はモヤモヤした感じです。今朝は頭の中の蜘蛛の巣がもう少し濃い。宿酔(ふつかよい)と似ています。が、前夜はアルコールを入れていないので、宿酔をするはずがないのに……。
 なかば意識朦朧状態でパソコンの電源を入れ、ぼんやりと眺めているうちに七時になって、ちょっと腹が空いてきました。
 三日前に散歩に出たときは時間が早過ぎたので、まだ開いていなかった焼き立てパンの店が店を開ける時間です。

 偏頭痛や胸焼けのような症状に見舞われ、ほぼ一日中不快な気分で過ごしたことの多かった日々は、まかり間違っても空腹感に襲われるようなことはなかったし、何かを食べたいと思ってパン屋を連想するようなこともありませんでした。
 そういうことを考えると、腹が減ったと感じられるのは喜ばしい兆候だといえるのかもしれませんが、散歩に出ようという気になるのは、足腰の衰えを防ぐためという義務感が強いし、歩いていても頭がどんよりと曇ったような感じが払拭されません。
 まあ、ともかくは出てみましょうということで、カメラとミオをポケットに忍ばせて靴を履きました。



 町会事務所裏の桔梗です。桔梗だけが際立つように撮るアングルがありません。三日前にカメラに収めた花(右下)はすでに萎れていました。



 鐘の下公園には野良の猫殿がいました。仮称・劇団一人です。
 身体を横たえていたのは、なんと公衆トイレの前。人間に較べたら何倍もの嗅覚を持っているはずなのに、猫にとってトイレの臭いは嫌な臭いではないのでしょうか。

 猫は平気でも、私はそんなところでしゃがみ込むのは嫌なので、ポケットからミオを取り出して見せ、袋を振りながら別の場所に誘ったら、遠巻きにしながらついてきました。
 すぐそばまで寄ってくることはありませんが、初日に見せた警戒心は少しだけ薄らいだようです。
 ♂か♀の別がわかれば、名前も付けやすいかと思うのですが、黒猫ともども、どうもいい名前が浮かびません。



 おなかのあたりを見ると、かなり痩せています。
 画像右に三匹目の猫が姿を見せました。黒と焦げ茶の斑(まだら)です。身体が一回りも二回りも小さく、尻尾がありませんでした。

 先輩(?)に遠慮しているいるようだったので、少し離れたところにもミオを置きましたが、近過ぎたようです。近づこうとすると先輩が振り返り、すると足を止めて近づこうとしません。
 いま、私が持っているミオはこれにて終わり。また買い出しに行ってこなくてはなりません。
 今朝は黒猫は姿を現わしませんでした。



 焼き立てパンの店に行ってみたら、開店したばかりだというのに、テラスはこのように満杯の盛況でした。まったくもって暇人が多いとみえる!! とカリカリ。
 仕方がないので、ローソンのサンドイッチで我慢、と思ったのに、この時間になっても配送車がきていないとのことで、棚は空っぽ。
 ……ったく話にならん。
 焼きたてパンの店とは道一本挟んでいるだけなので、最初から勝ち目はないと諦めているのか。

 この先(画像の右手)にはスーパーが一軒あるだけです。七時過ぎという早い時間に開店しているはずはありません。



 そのスーパーの前を通り過ぎて進むと、突き当たりになるT字路です。右に行けば、大勝院や大谷口城址、廣徳寺があります。左に取れば、やがて坂川を渡って流山です。
 いまはなんの変哲もない道路ですが、この道は小金道と呼ばれた古い道です。

 小林一茶は若いころ、馬橋にあった油平という油屋で奉公をしていたことがあります。油平の主人・大川立砂(本名・平右衛門)は商人であると同時に葛飾派の俳人でもありました。一茶が俳句の道に入ったのは立砂の影響大です。
 一茶は俳人として名を成してからも、立砂とその子どもでやはり俳人の斗囿(とゆう)、パトロンでもあり俳人でもあった醸造家・秋元双樹の住む流山を頻繁に訪ねていることが一茶の著「文化句帖」「七番日記」に記されています。馬橋から流山までは恐らくこの道を通ったのだろうと思われます。

 当時はどんな風景が拡がっていたのでしょうか。一茶が往復したのであろう道を私も少しだけ歩いてみます。



 T字路を左に折れると、150メートル足らずのところに真言宗豊山派の正福寺があります。
 恐らく我が庵から一番近いお寺です。連絡は大勝院に、という掲示板があって無住でした。
 江戸川八十八か所巡りの三十八番、同二十一か所巡りの二番札所です。両方とも第一番は流山の東福寺。

 霊場巡りというと、八十八か所がポピュラーですが、先に制定されたのは二十一か所のほうで、文政元年(1818年)のこと。
 流山にある赤城神社の別当であり、東福寺の末寺だった光明院の住職(名は昇慶)が発願したものです。
 弘法大師の亡くなったのが承和二年(835年)三月二十一日だった関係から、真言宗では二十一という数字は特別な意味を持っているのです。



 境内にある石仏群は結構古いようです。これは江戸川二十一か所の一を示す標石です。

 


 庚申塔を除くと、あとは風化していて、彫られた文字を読み取ることができません。



 無住のお寺ゆえに梅の実も収穫されぬままに放置されていました。

 思惑どおりに朝食が摂れなかったので、ぼんやりしていた頭はますますぼんやりしてきました。身体から遊離して、頭だけが雲の中にあるようです。これが体調のせいなのか、折からの蒸し暑さのせいなのか、私にはわかりません。

 このあと新松戸駅まで歩き、今朝の朝食は七時から開いている駅前のスーパーで買った餡パンということで落着しました。



 今朝はこんな団体列車が上野方向からきて、武蔵野貨物線を通過して行きました。


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