桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2018年六月の薬師詣で・市川市

2018年06月08日 23時59分04秒 | 薬師詣で

 七年前の一月八日から毎月八日に始めた薬師詣では、今月で九十か月目(十二日の縁日にも詣でた月が二度あるので、回数にすると九十二回目)となり、参詣したお寺や御堂は延べ二一七か所となりました。

 一昨日六日、関東地方は梅雨入りしたばかりだというのに、翌七日は午前中から晴れ上がって、明日九日は曇。雨とはしばらくご無沙汰のようです。

 意外に近いところに薬師如来をお祀りするお寺があったのに、見落としていたところがありました。市川市の国府台というところにある天台宗の泉養寺です。

 見落とし、というのは、私にとってもう一つの意味があります。
 それは20011年十一月のことですから、薬師詣でを始めた年のことです。
 この十一月の八日は、薬師詣でで同じ市川市内にある下総国分寺と宝珠院に参拝したあと、周辺をグルリと巡り、帰りのバスに乗る直前、根本寺、即随寺、西棲院、中原寺と拝観しているのですが、すぐそばに薬師如来をお祀りする泉養寺というお寺があるということにはまったく気がつかなかったのです。
 どんな地図を手に歩いていたのか、いまとなっては知るすべはありませんが……。

 北小金の駅が間近になったとき、ちょうど電車がくる時刻になっていたので、慶林寺参拝は帰ってきてからにすることにして、電車に乗ることにしました。



 松戸駅で降りて、西口のバスターミナルに向かいます。
 松戸と市川は隣り合わせ。ともに人口五十万近い都市同士だというのに、中心となる駅を直接結ぶ鉄道はなく、公共交通はバスしかありません。
 ただバスの便はさすがに多く、日中でも六分置きという短い間隔で市川駅行の便がやってきます。



 乗車十五分で栗山バス停に着きました。
 この栗山という土地は松戸市ですが、バス停の時刻表を撮ろうとカメラを構えている私の背中のすぐ後ろは市川市です。バスが走っているのは通称・松戸街道。千葉県道1号線です。



 目指す泉養寺があるのも市川市。バス停のすぐ横に泉養寺の瑠璃殿がありました。
 ここに阿弥陀如来を中心にして、薬師如来など十三佛が祀られています。ただ、木柵で遮られているので、近づけませんし、近づけたとしても、中を窺うことはできないようです。



 バス通りに戻って先に進むと、泉養寺の山門があり、左手奥に本堂がありました。
 創建は慶長年間(1596年-1614年)、開基は深川八郎右衛門という人。創建の地は江戸・深川(現在の森下一丁目あたり)です。
 八郎右衛門は摂津国の人。小名木川北岸の埋め立てに従事した人で、家康から「そのほうの苗字をとって、この地を深川と名づけよ」と許されて、深川という地名が誕生したとされています。



 本堂と向かい合っている深川稲荷。



 本堂右前にある無量殿。阿弥陀如来を祀っています。




 本堂前左手奥=不動堂前にある芭蕉塚。
 寛保三年(1743年)、芭蕉の五十回忌に江戸中期の俳人・田中千梅(せんばい:1686年-1769年)が建立。関東大震災で崩壊。

 この日、薬師詣でで訪れるのは、ここ泉養寺だけです。
 体調と陽気を睨み合わせながら、ともに上々なら、参拝したあとは近くにある総寧寺と弘法寺も訪れてみようと考えていました。
 近く、とはいっても、泉養寺から総寧寺までは歩いて二十分、弘法寺まではさらに二十分かかります。



 泉養寺の隣には回向院市川別院があります。
 境内に入ると、門前を交通量の多い松戸街道が走っているとは思えない、静寂さと空気の瑞々しさです。



 回向院市川別院本堂。
「千葉県浄土宗寺院誌」には、「大正十二年九月一日の関東大震災によって、東京両国回向院の墓地が被害を蒙ったので、墓地新設の特別計画を進行するにあたり、従来墓地を求める檀徒の希望もあり、市川国府台の現在地に、東京都江東区の専受院も合併して、昭和四年(1929年)六月、回向院第二一世住職・本多浄厳上人により創建せられたものである」と記されています。


 
 回向院をあとに松戸街道を南下して、国府台病院前の信号を右折すると、右側に見えてくるのがこの式正織部流茶道の門。



 里見公園につづく参道のような道。

 回向院前から二十分足らずで、總寧寺に着きました。

 

 総寧寺山門。
 このお寺に参詣するのは初めてではありません。九年前の八月三十日に訪れています。その日は途中から雨が本降りになったので、足早に駆け抜けてしまいました。じっくりと拝観させていただくのは初めてです。

 

 総寧寺本堂。
 永徳三年(1383年)、近江国観音寺城城主・佐々木氏頼により、永徳三年(1383年)、通幻禅師を開山として近江国(滋賀県坂田郡近江町)に創建、天正三年(1575年)、現在の千葉県関宿へ移転しました。しかし、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文三年(1663年)、徳川四代将軍・家綱に願って当地に移りました。江戸時代には下野の大中寺、越生・龍穏寺とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹」の一つに任ぜられ、末寺三千余寺を擁していたといいます。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝しましたが、まだ新しそうな卵塔が一基があるだけでした。



 墓所の外に歴住のものと思われる卵塔が並んでいました。



 その一つに近づいてみると、「英山鐵雄上座位」と読めましたが、両隣や後ろの卵塔はどれも摩耗してしまって読めません。
 つぶさに見て廻ることができたら、ほかにも判読可能な卵塔があったのかもしれませんが……。



 こんな掲示があったので、気づかぬふりをしてまで近づくのは遠慮しました。

 総寧寺をあとに弘法寺を訪ねます。
 再び松戸街道に戻って南下をつづけます。里見公園の入口には東京医科歯科大学の教養学部があり、その先には和洋女子大学があるという文教地区です。



 松戸街道はその先を流れる真間川に向かって下りになります。下り始めるあたりで左に折れると、緩いながらも上り坂。



 總寧寺から二十分強歩いて、裏から弘法寺の境内に入りました。赤門と呼ばれています。



 弘法寺本堂。
 略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺が始まりで、その後、平安時代に弘法大師が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後、天台宗に転じたとされています。
 建治元年(1275年)時、住持だった了性が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖・日常と問答の末に敗れて、天台宗から日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人・日頂を初代の貫主としたと伝えられています。
 室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせました。元禄八年(1695年)には水戸光圀も来訪したといわれています。



 鐘楼塔。



 仁王門。
 


 先の仁王門を写そうとカメラを構えている私が背負っている景色はこんな絶景です。真下には山門から数十段の石段があって、高所恐怖症持ちの私にはとても上ることはできません。



 山門前にある小林一茶の句碑。

 真間の継橋と手児奈霊堂は近いのですが、今回はパス。



 松戸街道に戻り、真間山下の停留所から帰りのバスに乗ります。



 地元に戻ってきて、慶林寺に参拝。これで今月の薬師詣でも無事終了しました。

 
 

 慶林寺門前のオタフクアジサイは色がかなり鮮やかになってきました。



 参道入口にもオタフクアジサイがありました。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2018年紫陽花日記(5) | トップ | 蓬(ヨモギ)の種を播く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

薬師詣で」カテゴリの最新記事