魂生神社の家内安全や子孫繁栄のお札とアメ。さて飴はなめてもいいものやら(笑)。
昨年マレーシアの学生を二人、K家が自宅にホームステイさせたときに彼らがお土産に持ってきたインスタントラーメン。「Penang White Curry」。世界のインスタントラーメンの旨さのランキングを載せる海外サイトで一位をとったことがあるそうだ。食べたら本当に旨かったとのこと。日本では品薄でなかなか手に入らない貴重な一品を頂いた。楽しみに食べようと思う。
魂生神社の家内安全や子孫繁栄のお札とアメ。さて飴はなめてもいいものやら(笑)。
魂生神社の家内安全や子孫繁栄のお札とアメ。さて飴はなめてもいいものやら(笑)。
今回、栄町に行って帰るのに、中央総武線→山手線→常磐線→成田線→総武本線→中央総武線という一筆書きのルートを使った。
往きは秋葉原で総武線から山手線に乗り換えて、日暮里駅で成田行き快速に乗り換えた。👆
以前に13年間通勤で利用した地下鉄千代田線は北千住駅までは常磐線と並行して走るから北千住という地名は懐かしい。
松戸を通り
我孫子から成田線に乗り入れる
栄町の下車駅は安食だ。あじきと読む。安んじて食料が手に入る地という意味らしい。(諸説あり)
帰りは安食駅から二駅目の成田に出て
総武線快速の久里浜行で千葉、船橋、新小岩経由で帰った。安食駅までどちらから行っても約1時間半のショートトリップだ。
往きは秋葉原で総武線から山手線に乗り換えて、日暮里駅で成田行き快速に乗り換えた。👆
以前に13年間通勤で利用した地下鉄千代田線は北千住駅までは常磐線と並行して走るから北千住という地名は懐かしい。
松戸を通り
我孫子から成田線に乗り入れる
栄町の下車駅は安食だ。あじきと読む。安んじて食料が手に入る地という意味らしい。(諸説あり)
帰りは安食駅から二駅目の成田に出て
総武線快速の久里浜行で千葉、船橋、新小岩経由で帰った。安食駅までどちらから行っても約1時間半のショートトリップだ。
成田線の沿線にある千葉県印旛郡栄町を訪ねた。印旛沼がある町だ。金蘭。👆
JR安食駅を出ると車ですぐに印旛沼のある栄町の住人Kさんと同じく栄町に住む昔の職場の仲間のHさんが、野生ランがいま咲いていると千葉県印旛郡栄町龍角寺の「房総のむら」へ連れて行ってくれた。
金蘭👆銀欄👇
キンラン、ギンランは日本の野生蘭のひとつで、同じキンラン属に属し、雑木林の林下や、里山の林下見られる。この花は 「菌根菌」 と呼ばれる菌類と共生する特殊な生育形態にあり、特に菌に対する依存度が強くて花だけを根もろとも盗掘して移植しても生き延びることはないそうだ。
筆竜胆
栄町に住む会社同期入社のKさんの家は江戸時代から代々この地に住んできた豪農だったようです。
今回も庭で採れる食材を中心に奥さんのおいしい料理でもてなしてもらった。いつもありがとうございます。
庭のお花畑も見せて頂いた。
Kさん撮影のキンラン、ギンラン、フデリンドウ
JR安食駅を出ると車ですぐに印旛沼のある栄町の住人Kさんと同じく栄町に住む昔の職場の仲間のHさんが、野生ランがいま咲いていると千葉県印旛郡栄町龍角寺の「房総のむら」へ連れて行ってくれた。
金蘭👆銀欄👇
キンラン、ギンランは日本の野生蘭のひとつで、同じキンラン属に属し、雑木林の林下や、里山の林下見られる。この花は 「菌根菌」 と呼ばれる菌類と共生する特殊な生育形態にあり、特に菌に対する依存度が強くて花だけを根もろとも盗掘して移植しても生き延びることはないそうだ。
筆竜胆
栄町に住む会社同期入社のKさんの家は江戸時代から代々この地に住んできた豪農だったようです。
今回も庭で採れる食材を中心に奥さんのおいしい料理でもてなしてもらった。いつもありがとうございます。
庭のお花畑も見せて頂いた。
Kさん撮影のキンラン、ギンラン、フデリンドウ
船橋社中札幌支社のCKKさんから送って頂いたフキノトウの残りは今年も「焼き味噌」になった。酒肴にもご飯の上にでもこの上なくおいしい(笑)。CKKさん今年もありがとうございました。
新タマネギと蕗の薹の卵とじも本当に美味しかった。
新タマネギと蕗の薹の卵とじも本当に美味しかった。
同じ日に卵を採って水槽にいれた。二軒の孫の家の片方はもうカエルになり自然にカエサれた。但し卵から孵ったのは3匹だけだった。こちらの家の孫の水槽の卵は全部孵って今もこの状態だ。生物の成長は条件次第でこんなに違うことに驚く。
2018.04.15 〜 2018.04.21
閲覧記事数 30626 PV、訪問者数 3053 IP、順位 1605 位 / 2819259ブログ
2018.04.15 〜 2018.04.21
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昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。
1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。月に一度か2度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。気が重くなるのはそのことではなかった。
行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と高い声で叫ぶのだった。
きれいに見えた着物も近づくと薄汚れていて髪の毛も殆ど梳かした様子がなかった。その人の手前でつい足が遅くなった僕に「早くおいで」と母から声が飛び、慌ててその人の横を通り抜ける。その人を見るのがつらいのだった。
その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。
そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。
その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年もこうしているが、駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。
2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。
こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、母の買物が済むともう帰る時間だった。
出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。
若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。行きたくない若松も、あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。
3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。大人の声もして県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。
あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。
「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。
赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。
その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。
それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。 そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。
当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。
町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。それでもジープで移動する連中が子供に面白半分に投げるチューインガムやチョコレートは皆のあこがれの品物だった。 残念ながら口に入った記憶はない。
原宿の画廊「Gallary Concept 21」の富田まりさんの個展に先輩のⅯさんから先日飲んでいるとき誘われました。もう一人Tさんにも声をかけて3人で原宿駅で落ち合って個展に行きました。暖かい絵でした。そして何となく英国風のひそやかなユーモアも感じて楽しかった。お出かけをお勧めします。
この絵はwebから引用しました。
原宿駅の表参道口で待ち合わせした。表参道の大群衆には面喰らった。日本中からと世界各地から若い人が集まっているのを実感した。
富田まりさんとはご主人が阿智胡地亭が元勤務していた会社時代からの知人というご縁がある。
ギャラリーを出た後3人は渋谷まで歩いて阿吽の呼吸で飲み会に消えていった(笑)。行動を共にしたお二人は九州の出身だが、阿智胡地亭も小学校入学が当時の若松市二島(現北九州市若松区二島)で4年ほど九州に住んでいた。その後は父親の転勤で尼崎市に引越した。阿智胡地亭が勝手に名付けた今回の「九州倶楽部」もこれから時々開催されるかも知れない。
この絵はwebから引用しました。
原宿駅の表参道口で待ち合わせした。表参道の大群衆には面喰らった。日本中からと世界各地から若い人が集まっているのを実感した。
富田まりさんとはご主人が阿智胡地亭が元勤務していた会社時代からの知人というご縁がある。
ギャラリーを出た後3人は渋谷まで歩いて阿吽の呼吸で飲み会に消えていった(笑)。行動を共にしたお二人は九州の出身だが、阿智胡地亭も小学校入学が当時の若松市二島(現北九州市若松区二島)で4年ほど九州に住んでいた。その後は父親の転勤で尼崎市に引越した。阿智胡地亭が勝手に名付けた今回の「九州倶楽部」もこれから時々開催されるかも知れない。
同じ会社に勤務していたM山さんが国分寺から勝どきに引越したと前に連絡を貰っていた。会って飲むことになった。彼は地下鉄の大江戸線で両国まで一本で来れる。阿智胡地亭は最寄り駅から8分乗車すると両国駅だ。二人は両国駅の東口で会うことにした。👆
まずは西口を出たところにある「えどNOREN」の立飲みの「東京商店」からスタート。テーブル席でゆっくり飲めた
最後までお互い全く違う営業部門で来た彼は東京から大阪に転勤になった時に大阪支社で阿智胡地亭と知り合った。後で知ったのだが彼はその当時の神戸の借り上げ社宅が阿智胡地亭の家の町内にあった。次は両国の蕎麦屋として有名な「ほそ川」へ。ランチタイムは外に人が並ぶがこの夜は誰もいなかった。
お互いに近況を話し合っているうちに、ある建築家にお互いに縁があることがわかって二人とものけぞるほどに驚いた。こんな体験は二度とないだろうと思う。
元の勤務先の知り合いでおそらく一番近いところに住むことになったM山さんとは今後月に一回飲むことになりそうだ。
ミシュランでも星が付いた店らしく蕎麦は普通においしかった。一回くらいそういう店を経験しておいてもいいかと二人で入ってみることにした店だ(笑)。
蕎麦屋の一合の酒では飲み足らず、もう一合は高過ぎるのでもう一軒ぶらぶら両国の街を歩いて探すことになった。
ホルモン焼の赤提灯が見えたので入ってみた。
大根の漬物が珍しかった。
煮込みも旨かった。
結果的においしくてコスパのいい店で芋焼酎のお湯割りも2杯楽しんで店を出た。
二人にはいろんな縁や共通点があることも今回初めて分かった。そんな人ともすぐ近くで飲み会の例会が持てるようでありがたいことだ。
まずは西口を出たところにある「えどNOREN」の立飲みの「東京商店」からスタート。テーブル席でゆっくり飲めた
最後までお互い全く違う営業部門で来た彼は東京から大阪に転勤になった時に大阪支社で阿智胡地亭と知り合った。後で知ったのだが彼はその当時の神戸の借り上げ社宅が阿智胡地亭の家の町内にあった。次は両国の蕎麦屋として有名な「ほそ川」へ。ランチタイムは外に人が並ぶがこの夜は誰もいなかった。
お互いに近況を話し合っているうちに、ある建築家にお互いに縁があることがわかって二人とものけぞるほどに驚いた。こんな体験は二度とないだろうと思う。
元の勤務先の知り合いでおそらく一番近いところに住むことになったM山さんとは今後月に一回飲むことになりそうだ。
ミシュランでも星が付いた店らしく蕎麦は普通においしかった。一回くらいそういう店を経験しておいてもいいかと二人で入ってみることにした店だ(笑)。
蕎麦屋の一合の酒では飲み足らず、もう一合は高過ぎるのでもう一軒ぶらぶら両国の街を歩いて探すことになった。
ホルモン焼の赤提灯が見えたので入ってみた。
大根の漬物が珍しかった。
煮込みも旨かった。
結果的においしくてコスパのいい店で芋焼酎のお湯割りも2杯楽しんで店を出た。
二人にはいろんな縁や共通点があることも今回初めて分かった。そんな人ともすぐ近くで飲み会の例会が持てるようでありがたいことだ。
こんな路線があるのは知らなかった。どんなルートを走るのか好奇心に駆られて乗ってみた。
ずっと窓の外を観ていた。新来者にはどこと言ってそれぞれの特徴があるように見えない街並みをバスは走る。まさにこの路線のどこかに73年前、5歳だった友人は家族とすんでいた。一晩で10万人の一般町民の虐殺を焼夷弾絨毯爆撃(クリック)という戦法を編み出したアメリカ軍が実行した場所だ。彼らはアメリカの砂漠で日本の下町の家屋のモデルタウンを作り効率の良い焼夷弾の落とし方を何度も実験してから日本各地で実行に及んだという。友人は縁故疎開していて命は助かったが、大きな履物屋をやっていた両親はついに焼死体も見つからなかった。彼は戦後、妹さんと二人、戦災孤児として生きるしかなかった。
こういうルートを走る。時間表を見ると43分乗ることになる、
錦糸町についてバス停から駅前まで歩くと「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫が経営していた牧舎の記念碑があった。
墨東病院は駅の南口から歩くのでこれまで北口には随分前にきたことがあるだけだった。北口と南口では別の駅かとみまがう街並みだ。
ずっと窓の外を観ていた。新来者にはどこと言ってそれぞれの特徴があるように見えない街並みをバスは走る。まさにこの路線のどこかに73年前、5歳だった友人は家族とすんでいた。一晩で10万人の一般町民の虐殺を焼夷弾絨毯爆撃(クリック)という戦法を編み出したアメリカ軍が実行した場所だ。彼らはアメリカの砂漠で日本の下町の家屋のモデルタウンを作り効率の良い焼夷弾の落とし方を何度も実験してから日本各地で実行に及んだという。友人は縁故疎開していて命は助かったが、大きな履物屋をやっていた両親はついに焼死体も見つからなかった。彼は戦後、妹さんと二人、戦災孤児として生きるしかなかった。
こういうルートを走る。時間表を見ると43分乗ることになる、
錦糸町についてバス停から駅前まで歩くと「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫が経営していた牧舎の記念碑があった。
墨東病院は駅の南口から歩くのでこれまで北口には随分前にきたことがあるだけだった。北口と南口では別の駅かとみまがう街並みだ。
尾道の銭湯で体を洗っていたら、浴槽に浸かっている外国の人が少したどたどしい日本語で「そうです、わたしはトーマスといいます。さいきん結婚したのですが、そしたらみなさんから "既婚者トーマス" とよばれるのです」と言っているのが耳に入って少し笑った。
— U-zhaan(ユザーン) (@u_zhaan) 2018年4月14日