昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。
1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。
月に一度か二度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。気が重くなるのはそのことではなかった。
行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって
「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と甲高い声で叫ぶのだった。
その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。
子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。
そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。
その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年もこうしているが、
駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。
2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、
大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。
買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。
こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、母の買物が済むともう帰る時間だった。
出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。
若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。
行きたくない若松も、あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。
3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。
大人の声もして県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。
あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。
朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。
先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。
「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。
もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。
赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。
その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。
それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。
芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、
そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。
そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。
当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。
町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。
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福岡県 若松~飯塚:若松駅~藤ノ木駅~シャボン玉石けん~デンソー九州~北九州学術研究都市~本城駅~折尾駅【空から公式】
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北九州市から小学校2年生当時の写真を入れた手紙が2019年9月に届いた。
封書が届いた。差出人の住所は北九州市八幡西区となっており、お名前には心当たりがない。
封筒を開いてみると手紙と共に写真が一葉同封されていた。
お手紙によると送ってくださった方は、小学校(二島にあった当時若松市立島郷第2小学校)の一、二年時に同じクラスでしたと書かれていた。
遠足で行った撮影場所は今の北九州市の折尾公園だと思うと書いてある。
先生や前列の方の名前が書いてあり、前列右端の阿智胡地亭の隣に座っている方がその方だった。
昭和26年撮影の写真を目の前にして遠い昔の小学校生活が目に浮かんだ。
家から2㎞の通学路は田圃と山道の連続で、入学早々の身には遠かったが学校生活は楽しかった。
幼稚園という団体生活の経験がなく、生まれて初めて集団社会への参加だったが何とか毎日遠い小学校に集団通学で通った。
そのうちに北九州弁にも慣れてみんなと喋りよったですもん。
当時まだテレビもなく、九州弁以外の日本語を聞くのは先生も含めて周囲の全員がNHKラジオだけだった。
当然彼らが喋るのは北九州弁だけだったから、小学校に上がる一年前までは三重県四日市にいて、
そこから引っ越してきた自分は嫌も応もなく、周囲の誰もが喋りよる北九州言葉ば覚えんと学校におれんかったとよ。
Oさんわざわざ68年前の写真を送って頂きありがとうございました。
2019年9月23日記
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