阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

池谷薫監督作品4本 神戸で4月に上映会。

2017年02月11日 | 音楽・絵画・映画・文芸


「蟻の兵隊」阿智胡地亭の映画レビュー:
帝国陸軍の正規軍だったが日本の官僚にいなかったことにされた兵隊たち
昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受け入れ国際連盟に属する連合国に降伏した帝国陸軍。しかしそれ以降も中国に残り、
昭和24年まで共産軍と戦った日本軍がいた・・。
奥村和一さんはその日本軍の兵の一人だった。
中国山西省で澄田第一軍司令官(元日銀総裁 澄田 智 氏の御尊父)の軍命により2600人の将兵が残留し戦闘を4年間続けた。
その間550人が戦死した。
そしてその残った将兵たちは、彼らを山西省に置いて偽名で中国を脱出した澄田中将の国会証言(彼らは命令でなく各自が自ら希望して
中国に残ったのです)により軍籍離脱の扱いを受け、今も軍人恩給を受けることはない。
 残留将兵は昭和24年に中国の捕虜となり、抑留され昭和30年にようやく帰国した。そして自分たちが自分の意思で中国に残ったと扱われて
いることを知った。その時奥村さんは30歳になっていた。
奥村和一を含む彼らは、国家に対し「軍の命令」により残留したことを認めるように訴訟を起したが、長い長い裁判の末、最高裁は上告を棄却した。
その判決書には当該裁判長は転勤と言う物理的な理由で署名していないが、そんなことが認められていることもこの映画で初めて知った。
 彼らはこれで日本国から、自由意志で中国に残った民間人だと公に認定された。(この裁判の経過を辿ると、国策捜査があるくらいなら、
国策判決も充分ありえるように思えてしまう。
抽象用語の「国」ではなく、そういう判断をし、司法にそういう指示をする人間たちがいるのかもしれない、おそらく彼らが国なのだろう)
 この映画は80歳の奥村和一の、事実認定を求める日常行動と中国での調査活動を撮影したドキュメンタリー映画である。
帰国して50年間、奥さんにも話さなかった初年兵教育の仕上げ課程での中国人銃剣刺殺の場に立つ奥村和一。
誰がどうという事でなく、普通の人間が人を殺す事で自分が生き延び、それを国がシステムとしてやらせる状況があったと・・・思う。

黒澤映画の「七人の侍」の宮口精二にどこか雰囲気が似ている奥村和一さん、貴方の昭和20年8月15日以降の行動は日本国としてはなかった
ことに認定されました。国家としてポツダム宣言を受諾しているにもかかわらず、それ以降も帝国陸軍の軍命が存続したとは認める事は
出来ないと言う事のようです。
しかしこの映画を見る限りは、陸大出の職業軍人である一人の軍司令官の戦犯容疑を国がかばう為に、2600人の一般将兵の人生と彼らへの
国家補償を平然と消したように見える。

靖国神社の社頭でスピーチして参詣客からタレントのような拍手を浴びた「残置諜者・小野田元少尉」と貴方の短いやりとり。
その中で奥村さんの言葉に激昂して思わず出てしまった小野田さんの醜悪な顔つきと、貴方の涼しげな眼の対比で人間の裸の姿が見えました。
 これを語らずには昭和23年に「天皇陛下万歳」と中国山西省で戦死した戦友に申し訳なくて死ぬに死ねないと言う奥村和一さん、
こんな持続力のある信念を持つ日本人が、自分の同時代に生きているのかと思いましたよ。
余談ですが、奥村和一さんと共に行動している80歳を越える元将兵のなかに、40数年前に階段教室で講義を聞いたことがあることがある
「百々 和」先生がおられて、スクリーンに登場されたのには驚きました。教室で講義を受けただけなので百々先生がそんな体験をされた人
だとは全く知りませんでした。
2006年09月11日(月)記

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ある日の昼は豚肉と野菜たっ... | トップ | 江戸川区小岩の商店街をぶら... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

音楽・絵画・映画・文芸」カテゴリの最新記事