阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

東日本大震災が起こった後「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年05月11日(水)のブログ ]

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2011年05月11日(水)
大黒屋光大夫はなぜロシア語をマスターできたか

井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」と吉村昭の「大黒屋光大夫」は共に伊勢国白子の船頭「大黒屋光大夫」を題材に取り上げた小説だ。

彼は江戸へ向かった船が暴風に会い、カムチャッカ半島まで漂流した。

どうしても故郷の伊勢白子まで帰るという執念で生き延び、ロシア語を身につけ、周囲のロシア人のサポートを得て、当時のロシアの首都サンクトペテルブルグへ上る。

そして何回かの挑戦の末、エカテリーナ女帝に面談し、彼女の心を捉え、また苦労の末幕末の日本に戻ってきた。

この男の生涯は、多くのロシア人を人間として自分に惹きつけたこと、自分で運命を切り開いたことを知ると、教科書で習った江戸時代の町人のイメージを根底から変える。

 冬のシベリアを橇で渡る過酷な道中の描写だけでも物凄いものがある。

井上靖が本を書いた当時の史実の発掘の限りでは、日本に辿り着いたあと江戸で幽閉されたままで生涯を終えたように書かれているが、

吉村昭は白子に何度も足を運び、村の旧家に残された古文書の中に、光大夫が密かに江戸から白子を訪ねた記録を見つけ出した。

 吉村昭の小説にはその感激モノの挿話も記されている。


大黒屋光大夫はいかにしてロシア語を身につけたかは2冊の小説にも副テーマとして描写されているが、英語教育の論評にサンプルとして光大夫が引用されていた。

やはり光大夫はいまもこうして生き延びている。

『英語のお勉強 (副題:なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか)』

一部引用・・

日本の英語教育は、学力テストの一環としてイビツな発展をとげたまま放置されている。

それは「コミュニケーション」という言語の根本的存在理由の軽視の上に立脚し、日本の経済と将来の繁栄を内側から立ち枯れさせている。

人生一度きりの貴重な青春時代を、使い物にならない「語学」習得に費やし、周囲にその将来を嘱望され官庁入りした優秀/有為な若者たちが、

だれも聞きに来ない記者会見で、だれも座っていないイスを相手に、英作文を朗読している。

彼ら個人においては悲劇であり、日本にとっては大損失だ。

この小文が、若い読者の英語学習における何らかのヒントになってくれるのであれば、「徒労にあらざりしか」である。

なお、副題、「なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか」であるが、私はこう考えている。

大黒屋光太夫は、1782年から10年あまりの漂流生活で、アリューシャン列島アムチトカ島からハバロフスク、イルクーツクを経てのシベリア横断、

そして女帝エカテリーナとの謁見を果たしたペテルスブルグまで、当時の日本人としては想像を絶する世界体験をした。この10年間、

彼の行動の全ては、伊勢白子の回船「神昌丸」の船頭として、部下の水夫たちと共に、無事ふるさとの日本へ戻ること一点に絞られ、けっしてぶれることが無かった。

光太夫が漂流者のなかで一番ロシア語に習熟した理由は、彼のこの「船頭」としての責任感と使命感にあったのだと思う。

彼には皆を代表して、生き延びるために話を通じさせるーコミュニケーションをとる」をとる必要性があり、その責務を存分に果たしたのだ。

行く先々でその地の名士の歓待を受け、ついには時のロシア宮廷をも感服させたのは、光太夫のそうした「お人柄」とリーダーシップにあったのだろう。

私がおせっかいを承知で、私なりの英語の習得術を皆さんに披露するのは、皆さんが英語というツールを使いこなせるようになり、

光太夫のように「日本人の代表」として世界の人々と「繋がって」いって欲しいからだ。

「英語力」で「就活を有利に進めよう」などと、日本人同士で「人をしのぐ」ことなどを目的にしていない。
2005年8月27日掲載エントリー

「大黒屋光太夫 上下」
吉村昭著
新潮文庫
平成17年6月1日初版発行
定価各514円(税別)

☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。

この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。

大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」を読んでいたので、彼が伊勢の生まれであることは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。

今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見たからかもしれません。

そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかなと想像しました。

江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。

その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、

それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。

もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。

その1 「光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」

彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。

なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する旅に出ることが出来たのか、

そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?

吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。

当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;

「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、

信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に上陸して岡崎に帰城した。

その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。」

光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、

船乗りを生業(なりわい)にした人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。

この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。

彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、自分の思いや考えを述べています。

江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。        続く

2005年8月28日掲載エントリー

 伊勢の国出身のHMさんから「白子は近鉄で降りたことの無い駅、身近にこんな歴史があったのかと・・」と言うメールを頂きましたので、次のように返信しました。

文部省選定の全国共通の歴史教科書もいいのですが、本来それは副本であって各地元の自治体が地元の縄文時代から現代までの土地の歴史をまとめ、

それを教科書(*)にすべきだと思います。三重県では「大黒屋光太夫」は沢山いる土地の誇りのうちの一人だと思うのですが。

日本の各地各様に刮目、瞠目すべき歴史や人物を持っているのですが、教科書出版会社が東京集中であり、教科書を書く連中が、

殆ど田舎出身の成り上がり東京モンなんで、かえって地方を下に見て、日本では、それぞれの土地の固有の歴史を明治開国以来、あまり記述せず、評価しないようになりました。

こんなに自国のそれぞれの土地の歴史を忘れてしまい、大事にしない国はありません。

一回、外国にイクサで負けると、アヘン戦争でイギリスにやられた中国のように、国民の、そして国の志が再生するまで100年はかかると言いますが、

こたびの太平洋のイクサに敗れて60年、また自立するまで、日本があと40年もかかる前に、老いも若きも、まずワガ生まれ育った土地の歴史を知り、

それを出来うれば誇りにしたいもんです。それが自国を大事にする気持ちにつながると思います。

オノレの土地のまっとうなありのままの歴史を知らず、オノレの国を大事にしない人間が住む国を、認めてくれる他国人はマズいません。

そういう意味では、今、日本各地の歴史研究会とか歴史文献研究会とかどんどん盛んになっていて、日本は決して捨てたものではないと思います。

ところで、アメリカと言うかアングロサクソンの長年の世界の植民地支配体験からきた占領政策は、100年先を見据えていて空恐ろしいものがあります。

彼らは「ツボは歴史教育だ」と基本を抑えています。その国「固有の近代史を出来るだけ教えない」と言うのがツボです。占領した国民を、

自ら卑下させるのが人手をかけないですむ、もっとも効率のいい支配方法らしいです。

ただし、この方法は十字軍以来の宗教戦争相手のイスラム教徒には通じていないようですね。

いま歴史教育が右や左に大きく振れること自体が敗戦の大きな負債ですが、まずは自分が生まれ育ち、そして今住んでいる土地の歴史を知ることから始まるような気がします。

*長野県には明治時代から「信濃教育会」と言う教師の組織があり、信州独自の信州歴史読本を作って、児童生徒の副教科書に使ってきたそうです。

この組織は明治以降、中央政府から目をつけられ、多少は迫害されたとも聞きます。

信州人の中には「学校の教科書に書いてあるとか、お上が言ったことだからと言って 丸呑みにせん奴が出来てしまい」信州を離れて就職したとき、

東京や大阪などの他国でかえって苦労させられたそうです。

 
 
よるべない不安の正体は原発問題。

いま「原発鬱」とも呼ぶべき症状が増加している

一部引用・・

大好きか、大嫌いか。熱狂的に支持するか、そっぽを向くか。現代の日本社会は、あまりにも白か黒かをはっきりさせようと急ぎ過ぎて、振れ幅が大きくなっています。

以前なら内閣支持率が3割から4割ぐらいの微妙な水準のまま、国民は不平や不満を言いながらも、白黒つけずにジリジリと見守るという状態がありました。

しかし、いまは支持か不支持か、とちらかの極に振れると、一気にその評価が決まってしまいます。

 こうした傾向が強まっている日本社会は、どちらに転ぶかわからないけれども、待つしかないという状況に耐えられません。

原発事故の問題で言えば、爆発という最悪の事態に陥らない一方で、一気に解決まで進まないという膠着状態が延々と続いています。

しかもいつこの膠着状態が動き出すかすらわからない。これでは不安で仕方がないのです。

「目に見えない」「いつ来るかわからない」「いつ終わるかわからない」不気味な状態の行く末を、冷静に見守る耐性のようなものが弱くなっています。

今回の原発事故は、現代の日本社会にとって最も苦手な部分に突き刺さる問題になっていて、それが日本人のこころに大きなダメージを与えているのです。

・・・

やきもきしながらも、こころを落ちつけて見守る以外に方法はない。

 現在進行中の原発問題は、白か黒かという図式にあてはめることはできません。好転したかと思えば、悪い情報が入ってくる。

「一進一退」「三歩進んで二歩下がる」というジリジリとした状況は、いまの日本人が最も苦手とするところだと思います。

 現代の日本人は、不確定な情況のなかに置かれることに脆弱になっています。やきもきするのが苦手です。

もちろん、やきもきしなくて済むなら、それに越したことはありません。しかし、本来、人生には、自分の思うようにならない情況でひたすら待つしかない情況は山ほどあります。

恋愛はその典型で、自分が好きになっても、相手がその気になってくれるかわからない。想いを伝えることができても「少し考えさせてほしい」と言われたら、

待つしかありません。こういう情況への耐性が、いまの日本社会は脆くなっていることが、今回の原発事故で浮き彫りになりました。

 全文はこちら

 
 
浜岡原発と東京・横浜、名古屋の直線距離
 

「浜岡原発の停止は合理的だろう - wasting time?」から
一部引用・・

その意味で浜岡という場所はどうだろうか?

まず、第一に福島第一原発は東京から250キロの距離であった。浜岡は190キロの距離にある。横浜からは160キロ。

そして南西の風が吹きやすいといわれている。

また、名古屋からは130キロほどだ。今回の原発事故で改めてわかったことは爆発が起こったとき・ベントしたときの風向きの重要性である。

そしてそれはチェルノブイリの事故でも指摘されている。浜岡で問題が起こったときに東京や横浜などの大都市が安全と言い切れるだろうか?

また、これらの地域は人口が多すぎると同時に経済的に日本の心臓であるから何かが起こったときに避難という措置を取ることは不可能である。

とはいえ、さすがに100キロ以上離れた土地は大丈夫だろうと考えるのが普通だろう。


より気がかりなのは、浜岡原発から20キロ圏内に東名高速・東海道新幹線・国道一号線・東海道本線という日本の大動脈がいずれも存在していることである。

そして、45キロの距離に人口70万を超える静岡という都市があることだ。(福島市と福島第一原発の距離は70キロ以上あり、福島市の人口は約30万)

さらに静岡県には全国第一位の144の工場が立地している。(静岡県HPより)また、スズキ・ヤマハの本社もある。

静岡県は県別GDPで10位である。交通の大動脈がすぐ間近を通るだけならず日本の製造業の中心である。

この土地で福島第一と同じような事故が起こった場合の経済的損失は(福島の方々には申し訳ないが)今回の事故とは比べものにならないだろう。

全文はこちら

 
 
弱腰自民党外交力をアメリカが酷評
 

自民政権の北方領土交渉「指導力欠く」 米当局が酷評

2011年5月10日4時2分  朝日新聞
 米外交当局が、自民党政権末期の北方領土問題への取り組みを、「指導力に欠けている」などと、非常に厳しく評価していたことがわかった。

朝日新聞が内部告発サイトのウィキリークスから提供を受けた外交公電を分析した。

 在日米大使館はロシアのプーチン首相の訪日を翌月に控えた2009年4月、日ロ関係全般についての分析を国務省に報告。

「日本には、北方領土返還交渉のための計画も、計画を策定して最後までやり遂げる指導者も欠けている」と、当時の麻生政権を酷評していた。

 同年2月、麻生太郎首相とメドベージェフ大統領は「独創的なアプローチ」で解決を目指すことで合意。日本側では進展への期待が高まっていた。

だが、公電は、麻生首相について複数の情報源の見方として「北方領土問題について信頼できる助言者がほとんどいない。

彼の指導スタイルが他人に耳を傾けることを妨げている」と指摘した。

 野党・民主党についても見方は厳しく、北方領土問題では「政策の真空状態」に置かれていると指摘。新しい発想が出てこない理由として、

「(02年にロシアに柔軟姿勢を示したと批判された)鈴木宗男前衆院議員を巡るスキャンダルの後遺症」を挙げた。

 問題解決への日本の「本気度」を疑う記述もある。「日本は、エネルギー供給を、領土問題の速やかな解決よりもはるかに切実に必要としている」と分析。

経済関係が深まる日ロ双方にとって「現状維持は受け入れ可能。それどころか好都合」と指摘している。

 米側が日本の楽観的な見通しを一貫して冷ややかに見ていた様子は、他の複数の公電からもうかがえる。

たとえば、06年末に石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン2」をめぐってロシア側が三井物産、三菱商事などから権益の過半数の譲渡を受ける妥協案がまとまったが、

07年1月の公電は「日本外務省は、この結果が北方領土交渉を促進すると信じている」と指摘し、「驚くべきことだ」とした。

同年2月には、在モスクワ米大使館発の公電が、前月に始まった外務次官級の「日ロ戦略対話」について、

「ロシア側は領土問題解決のためのチャンネルとは見ていない」のに「日本側は領土問題が『隠れたテーマ』になると主張している」と報告していた。

 09年4月の公電は、日本の外務官僚が、「メドベージェフ大統領にはやる気がある。交渉が進まないのは、

部下が大統領に適切な情報を上げていないからだ」と信じていると指摘した上で、「おそらく、ナイーブ(世間知らず)な評価だ」との見方を示している。

 こうした分析の背景には、米側がロシア側から得ていた情報があったようだ。「ロシア指導部は北方領土について、

第2次大戦でヒトラーを支持した結果日本が払った代償で、対独戦でロシアが失った数百万の命の補償の一部だと考えている」とし、

譲歩は望めないとの見通しを繰り返し伝えている。(文中の肩書は当時)

 
 
 
日本の震災へのボストンからの思い

一部引用・・

●海外からの援助を断る日本

こうしたボストンでの動きをみると、日本人もアメリカ人も、みんなが今回の悲劇に心を痛め、専門家として自分に何ができるかを真剣に考え、

日本のために行動を起こそうとしていることがうかがわれ、温かい気持ちになります。しかし、その中で気になることもありました。


それは、これまで日本の側が海外からの医療援助を要請しなかったり、時には断ったりしてきたことです。確かに海外からの援助には言葉の壁があります。

ハーバード公衆衛生大学院の3月16日の会議で登壇した日本医師会の災害担当者に海外からの医療援助の必要性について質問したところ、

混乱を生むことになるから海外からの医療援助は来ない方がいいという答えを頂きました。・・


●「グローバル・シチズンシップ」にむけて

海外からの援助を断る理由は、言葉が違うから、文化が違うから、処方や治療が違うからということが挙げられていて、確かにそうなのでしょうが、

私たちがそのように信じているだけということはないでしょうか。

日本人が「世界市民Global Citizen」の一員としての心構えを持ったら、言葉や文化や制度の違いは知った上で、共通の言語を習得したり、異文化を理解したり、

異なる制度についての知識を高めたりすることができるようになるでしょう。そうしたら、海外からの善意を喜んで受け入れることができるようになるでしょう。

「贈り物」を上手に受け取ったら、お返しをすることもできます。それは、与えてくれた相手に直接返礼することでもありますし、

「世界共同体」の一員として、もっと困っている他の国々の人たちに対して援助してゆくことでもあるでしょう。このような行為の中で、

国際社会における日本に対する信頼が築いてゆけるのでしょう。

講演の後、サンデル氏にご挨拶にいって、上記のようなことを話しました。彼は、握手の手をずっと握ったまま、

真っ直ぐに目を見つめて真剣に聞いて下さいました。そして、「どんな協力も惜しまない。ハーバードは日本と共にあるHarvard with Japan」、とおっしゃって下さいました。

日本は長い復興の道のりを歩み始めたばかりで、今後、国際社会からのたくさんの協力も必要でしょう。

世界の一員であるという意識Global Citizenship」を持って進んでいけるよう、どんな協力も惜しまないという気持ちで、共に歩んでいきたいと思います。

全文はこちら

 
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