阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

私の昭和16年12月8日  -後楽園球場に出現した真珠湾-    半澤健市 (元金融機関勤務)   リベラル21から

2023年12月08日 | SNS・既存メディアからの引用記事

「歳を取ること」とはなにか》

「共有した記憶を語る相手がいない」。

それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった。こんな当然なことを知るのに86年もかかった。

嘗てこのコラムに、敬愛する先人が12月8日に何を感じていたかを私は書いたことがある。

三人の日本人と一人のアメリカ人、即ち伊藤整・高村光太郎・三好達治・フランクキャプラについてであった。

しかしお前(=私)何を感じたのか。この自問に自答したい。

 1941年12月8日(月)に私は国民学校の一年生であった。とても寒い朝だった。

午前7時にラジオの臨時ニュースのチャイムが鳴り、館野守男アナウンサーが緊張した声で開戦のニュースを読んだ。時間にして38秒のテキストは次の通りである


■「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、

西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入(い)れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。」

《私は巨大な真珠湾を後楽園球場で見た》

 私はこの放送をそのとき聞いただろうか。

人の記憶は日々修正され変化する。正直、私はそのニュースを聞いた気もするし、聞かなかった気もする。

月曜日であったが校庭朝礼はあったのか。あったとして朝礼が終わってから私は授業を受けたのか。それとも直ぐに下校したのか。

東京都史のたぐいを一瞥したがその種の記事はなかった。

 当時、日々報道のマスメディアはNHKと日刊紙だけである。この第一声を皮切りにラジオでは終日、開戦・その詔勅・東条首相の演説・緒戦の勝利報告・軍艦マーチが続いた。

日刊紙は8日の夕刊で「開戦と勝利」を大きく伝えた。

夕刊の発行日記載は翌日付(現在もタブロイド夕刊紙は同じ)だったから、「9日付夕刊」、「10日付朝刊」から開戦と勝利の報道が始まった。

人々は開戦勝利の「ユーフォリア(多幸感)」の渦巻きに埋没していった。勿論、私もそうである。

 私の記憶に強く残っているのは、真珠湾の巨大な「ジオラマ(立体模型)」を後楽園球場で見たことである。

私のように「後楽園球場の真珠湾」を見て、今も存命している人間はそう多くないだろう。この70年間、私は真珠湾のジオラマのことを時々思い出して、調べようと思っていた。

コロナ蟄居のなかで調べたことを書いておく。

 真珠湾攻撃から人々は何を連想するか。

私の場合、映画好きだったこと、母校「元町国民学校」が球場に近いこと、が「後楽園球場の真珠湾」は何だったのか、の探索理由となった。

《一億人が見た戦争映画『ハワイマレー沖海戦』》

真珠湾といえば東宝映画・山本嘉次郎監督の『ハワイマレー沖海戦』である。

開戦一周年を記念しての映画公開は「国民的事件」であった。『昭和 二万日の全記録 第6巻・太平洋戦争』(講談社・1990年刊)は、戦争映画の代表作としてこの作品を紹介している。

同記事の要点を次に掲げる。

■『ハワイマレー沖海戦』は1942年12月3日に公開され、大都市から地方へ広がった。大本営海軍報道部の企画で、東宝が七七万円という巨額を投じ半年かけて製作したが封切りわずか八日間で一一五万円の興行成績を記録した。海軍省の後援で全国の学生、軍需工場、婦人会などが動員され、占領地も含めると約一億人の人間が観ており、日本の戦争映画史上、空前のヒット作となった。
予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊した一人の少年が猛訓練に耐え、一人前のパイロットに成長していく様子と、真珠湾攻撃、マレー沖海戦での活躍振りを記録映画風に再現した。映画には現役予科練生も出演し、予科練の人気は上がり、志願者が殺到した。

 この映画が戦争映画の傑作と呼ばれた理由は二つある。
一つは、円谷英二(つぶらや・えいじ)の特殊撮影技術である。観客の誰もが本物と信じた真珠湾攻撃やマレー沖海戦の場面は、真珠湾、戦艦、飛行機の精巧な模型と、動くクレーンからの特殊撮影が生み出したもので、圧倒的な臨場感を示した。
■東京世田谷の東宝第二撮影所につくられた1800坪のオープンセットは、爆弾で上がる水柱が最も効果的に見える大きさに設計された。撮影は飛行機を吊すだけでなく、移動するクレーンから撮ったり、回り舞台のようにバックの背景を動かしたりする特殊技術が駆使された。

 『後楽園の25年』(後楽園スタヂアム・1990年刊)には、東宝第二撮影所のセットはそのまま後楽園へ移設したと書いてある。両者の面積を調べてみたが、それは可能だったと考えられる。戦争映画の傑作と呼ばれた二つ目の理由は、この作品が全国民の「愛国心」を高揚させ、想定外の戦争キャンペーンが実現したからである。
私が見た「真珠湾のジオラマ」はこの移設セットであったろうと思う。

《小林一三と後楽園と元町国民学校》

 私の母校「東京市本郷区立元町国民学校(当時名称)」は、関東大震災の復興計画により昭和初期に東京に出来た52校のコンクリート建造物の一つであった。

元町校は三階建で避難場所を兼ねた公園が併設された。校庭は堅く運動靴で走っても転ぶと、擦りむいた足が痛かった。学校と公園は高台にあった。元町公園は、適度の広さがあり砂場やジャングルジムなどの児童用遊具があった。展望バルコニーからは神田川とその土手が見え手前には路面電車が走っていた。国民学校の直ぐ隣に「桜蔭高等女学校」があった。現在は「桜蔭学園」となり東大女子学生の量産校として知られる。

 それなら私は後楽園球場をしばしば訪れたのか。そうではない。
1937年に発足した後楽園球場の経営変化は面白いエピソードに満ちている。
経営は、阪急電鉄など関西の都市近郊開発に新手法で成功した小林一三が主導した。
37年から戦後の1950年頃まで、後楽園スタジアムは、国家事業を含むさまざまなイベント会場として機能した。その一部を例示すれば、高射砲陣地、食料用野菜栽培畑、兵器集積場、大相撲会場、スキー競技場(雪持ち込み)、サーカスやプロボクシング競技会場、内外著名タレントのエンタメ会場などである。

 上記の1942年12月の行事「大東亜戦争一周年記念映画報国米英撃滅大展示会」はその一つであった。昼は真珠湾ジオラマの展示、夜は大スクリーンで『ハワイマレー沖海戦』の上映が行われたのである。

 重要な余談として、この展示会について追記したいことがある。
真珠湾攻撃で活躍した海軍空母は(赤城、加賀など)主力4隻が、42年6月のミッドウェー海戦で米軍に沈められ、観客が展示会に熱狂した時には既に海底の藻屑だったことである。大本営の戦果発表は次第に透明性を欠き、今様にいえば「フェイクニュース」が多く連合艦隊の壊滅を国民が知ったのは45年の敗戦後である。私は大人から、連合艦隊は秘密基地に隠れており最後の日米決戦で米機動部隊を全滅させるのだという話をよく聞いた。そしてそれを半ば信じていた気がする。

《「それでどうした」では済まない今である》
 ここまで『ハワイマレー沖海戦』の回想を述べてきた。読者は私に「それがどうしたso what?」と問うであろう。
《「共有した記憶を語る相手がいない」。それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった》。こう私は書いた。しかし、これは極私的な懐古趣味の表現に過ぎないのかも知れない。そこで拙稿に対する読者の率直な意見を是非知りたい。誤りがあったら指摘して欲しい。最近、私の出稿は多くないが、老骨に鞭打って書いているつもりである。同人諸兄および読者と意見交換をしたい。反応いただければ有り難い。(2021/11/22)

引用元


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