阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

広島長崎の アメリカによる「人間への原子爆弾投下」に アメリカ国内でもこれまでの定説に別の説が出始めた

2022年08月09日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2020-08-06 付 東京新聞夕刊  上の記事

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歪められた原爆報道─占領期における連合国側記者の活動を中心に─

一部引用・・

報道に対する米政府の対応

さて、京都で捕虜収容所を訪問し(59)、東京に戻ったバーチェットを迎えたものは、GHQ による彼の報道の否定だった(60)。

東京帝国ホテルで 1945 年 9 月 12 日開催された連合国の海外特派員向け記者会見で(61)マンハッタン計画の副責任者のトマス・ファーレル准将は

「原爆の影響でこれ以上死ぬ者が出ることはないだろう」と述べた(62)。


 会場に遅れて姿を現したバーチェットが、放射能の影響で被爆地では今でも多くの人が苦しみ、亡くなっていることを指摘すると、

ファーレルは「広島に原子放射能があり得たということは不可能だ。爆弾は空中の高いところで爆発するように仕組まれてあった。

もし、いま現に死んでいるものがあるとすれば、それはそのとき受けた被害のため以外にない」と答えた。

バーチェットがなお食い下がると、ファーレルは「君は日本の宣伝の犠牲になったのではないかね」と言って腰をおろし、

質問には答えないまま記者会見を終了した(63)。

New York Times のローレンス記者は、この記者会見の様子を次のように記している。「ファーレル准将は、秘密兵器の爆発力は発明者が予見するよりも大きかったとしながら、

それが廃墟となった町に危険な残留放射能を生み出したり、爆発時に毒ガスを作り出したりしたことは断固として否定した」(64)。

公にするには問題があり過ぎると考えられた原爆の秘密の側面の中でも、放射能はおそらく最も問題となるものだった(65)。

1943 年 5 月 12 日に発足した「放射能毒性小委員会」は、放射性物質を「毒(poisons)」として認識しており、

ごく少量の放射能でも人体に深刻な影響を及ぼすことを把握していた(66)。

1917 年には、時計の文字盤に塗るラジウム入り夜光塗料に被曝したニュージャージー州の女工の話が米国内の新聞で大きく報道され、

賠償金の請求問題に発展していた(67)。

ビヴァリー・アン・ディープ・キーヴァーは、これら「ラジウム・ガールズ」の話をマンハッタン計画の責任者たちも知っていたと指摘する。

というのも、この事件がマンハッタン計画とその後の原子力産業従事者の健康基準を設定するための医学研究の必要性を呼び起こしたからだという(68)。

当時同盟通信は原爆投下を「野蛮な政府だけが為しうる行為」としてアメリカを非難する海外放送を行っていた。

また、日本政府はヨーロッパの公館を通じて、原爆投下を国際法違反の非人道犯罪として海外に喧伝し、少しでも有利な占領政策を引き出すカードにしようとしていた(69)。

こうした訴えを退けるためには、放射能の影響は否定されなくてはならなかった(70)。

ファーレルの記者会見の内容は世界中に打電され、被爆者はいないことになり、放置される結果を招いた(71)。


 ところで、ローレンスが「ファーレル会見」について書いた原稿には編集側の手が加えられていた。

「現地ではクレーターや建物の燃焼以外の理由による土壌の過熱は起きていない。

低空爆破だったニューメキシコの実験で起こったような土壌や器材の溶解もない」という AP 通信の配信からの一段落が挿入されたのである(72)。関連記事1   関係記事2

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貴重な宝物「虫干し」 諏訪の八剱神社                長野日報

2022年08月09日 | 諏訪便り

 2022年8月7日 6時00分    宝物を虫干しして状態を確認する八剱神社の関係者ら

諏訪市小和田の八剱神社は6日、同神社で所蔵している宝物の虫干しを行った。

同神社の総代33人が宝物庫から約200点を丁寧に取り出し、斎館大広間に陳列。台帳と1点ずつ照らし合わせて状態を確認し、改めて神社の歴史に触れた。

宝物の虫干しは、毎年この時期に実施。大広間には諏訪湖の御神渡りを記録した「御渡帳」や古文書のほか、武将から寄進された刀剣類、甲冑、種子島銃なども並んだ。

お舟祭りの行列の先頭に飾られたとの記録がある木像の「相撲人形」や徳川家康の六男で、諏訪で没した松平忠輝公ゆかりの刀掛けなど貴重な品もあった。

総代らは白手袋をはめ、貴重な品々を壊さないように、丁寧な作業を続けた。大久保一大総代(72)は「貴重な品々に接して、総代としての責任を感じる」と緊張気味。

宮坂清宮司は「氏神の歴史に触れる機会は少ない。総代の皆さんに歴史を感じるとともに、神社への親しみも感じてほしい」と話していた。

2016年01月01日 |本ブログ「 身辺あれこれ」に掲載

八剱神社(クリック)は阿智胡地亭の本貫の地の産土神(うぶすなかみ)です。つまり一族が先祖代々 暮らしてきた小和田地区の氏神さまです。

八剱神社は諏訪大社の摂社ですが、今年は諏訪大社は7年に一度の御柱祭の年に当たります。

八剣神社は諏訪市小和田(こわた)にあります。諏訪が豊臣軍に占領されていたとき、秀吉の命を受けて配下の武将「日根野高吉」が

諏訪湖の中にあった「高島」という島に城を築きました。その城が高島城です。八剣神社は高島の島内にあった島民の氏神ですが、

島民が高島から現在の小和田の地に移された時、神社もともに移設されました。 この立ち退きのとき、島民は日根野氏と巧みな交渉を行い、

諏訪湖全域の漁業権と、新たに広大な農地を獲得しました。我が家の先祖はこの半農半漁の島民の一人だと聞きます。八剣神社はまた、

古来より諏訪大社の摂社(筆頭子社)で、諏訪湖の冬の自然現象“御神渡”を検定し、諏訪大社に出来を報告する役割を担ってきました。

小和田に移った住民は、移住以来、藩主(日根野氏が他に移ったあと、諏訪氏が戻り、明治のはじめまで諏訪氏が殿様だった)の支配を受けず、

行政は住民の自治によって行われました。諏訪湖から湧く温泉を引いた共同浴場で、裸の住人たちが侃々諤々論議を戦わせ、祭の拠出金や

揉め事など自分たちで全てを決めていったそうです。

 私も小学生のころ、夏休みに諏訪に行ったとき、まだ使われていた大きな共同風呂にイトコたちと入った楽しい思い出があります。

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8月8日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年08月09日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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