先月、教会学校の中高生担当をしている方から、
月に一回でも、このクラスを担当してもらえないか?と頼まれまして
何でも、サマーキャンプの時、アタシが中高生にした話を
一緒に聞いてくださっていて思いついた、とのことでした
(どんなハナシをしたのか、興味がある方は、
どうぞ、アルバム、続アルバム、続々アルバムへ~)
で
この間の日曜日に初めて、その日の出席者である男子三名相手に
(みんな、そんな怖い顔してアタシを睨まないでよぉ~)
と内心思いながらも、一人でしゃべくってたんですけど
ともかく。
ちゃんと最後まで話を聞いてくれた三人に感謝です
内容はね
その日の聖書朗読の
『ある人に息子が二人いた。
まず兄のところへ行き「今日、ぶどう園へいって働きなさい」
と言うと、兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って同じことを言うと、弟は「承知しました」と
答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか?』
っというたとえ話から、(当時の社会の指導者や長老たちよりも)
『(罪びととみなされていた)徴税人や娼婦たちのほうが、
先に神の国に入るだろう』とイエス様は仰った(マタイ21:28-32)
という箇所から‥。
◆今のこの世でのことは、
神さまからの問いかけに対して「いやです」と拒絶するか
「承知しました」と答えるか‥、まだその段階であるとも言える。
◆自分の身の回りにいる、明らかに間違ったことをしている
(と思われる)人たちに向かって、
「あなたは罪びとであり、自分は救われている」などと言うことは、
決してできない。
◆そう思うと、まわりの人たちが自分に対してしたことが、
どんなことであっても、許すことができるのではないか。
◆自分では「間違ったことをしていない」つもりであっても、
「自分は、これでいいんだ」と、
日々自分を振り返り反省し、
より善いほうへと変わろうとする努力をすることを、
決してやめてはいけない。
◆かといって、自分を振り返ってみた時、自分を必要以上に卑下したり、
してしまったことにいつまでもくよくよしたりする必要もない。
アナタたちみんな一人一人、神さまから望まれたから、
ココに存在しているのだから。
善くなる力も、しっかり頂いているのだから。
‥といった話をしました。
ミサ中に思いついたことを、だだだだっと喋っちゃったんだけど
無口な(さらに、目つきのするどい)中高生男子三人に、
どれだけ響いたのかな~
ま
そんなこんな、ちょっとした時間も一つの「出会い」であり、一期一会。
また次回以降も、おつきあいくださいと話を終わったのでした
思えば。
先週の箇所も、確か、「一見」とても『理不尽』なハナシでした。
あるぶどう園の主が、働き手を捜していた。
朝、「私のぶどう園で働いてください」と、ある人に声をかけた。
昼にも同じように、別の人に声をかけた。
夕方近くなった時にも、また、別の人に声をかけた。
そして、日が暮れてから、
その日の賃金を夕方に来たひとから配り始めた。
朝から働いていたひとは、当然、後から来た人よりも
たくさんの賃金をもらえるだろうと思っていたが、
賃金は同じ額だった。
‥っといった話だったと思います
朝からずっと働いていたって、
夕方から1時間だけ働いたって、
『賃金(=神の国へ入ること・救い)』は皆同じ‥
なんですって
神さまは、皆を同じように救いたい、のですって
つまり
神さまは、人間とは違ったところから物事を見ておられるので、
一見、『理不尽!?』としか思えないようなことを、なさる訳です
これは‥。
世の中から一向に、病気や争い、天災といったものが
なくならない。
人々は、苦しめられている。
神もホトケもあったものか!?という、
よくある問いに答えるものなんじゃないかな??
なんて思いましたの
世の中は一見すると、不平等だし理不尽なもんなんですよ、きっと
2千年前から伝わる書物にハッキリ著されているようにね
でも。それでも!!
皆、救われるんですよ救われたいと望むならば
‥その「とき」は、この世にいる間には来ないかもしれないけど。
‥エラいことを、考え始めてしまいました
つづくかも~
月に一回でも、このクラスを担当してもらえないか?と頼まれまして
何でも、サマーキャンプの時、アタシが中高生にした話を
一緒に聞いてくださっていて思いついた、とのことでした
(どんなハナシをしたのか、興味がある方は、
どうぞ、アルバム、続アルバム、続々アルバムへ~)
で
この間の日曜日に初めて、その日の出席者である男子三名相手に
(みんな、そんな怖い顔してアタシを睨まないでよぉ~)
と内心思いながらも、一人でしゃべくってたんですけど
ともかく。
ちゃんと最後まで話を聞いてくれた三人に感謝です
内容はね
その日の聖書朗読の
『ある人に息子が二人いた。
まず兄のところへ行き「今日、ぶどう園へいって働きなさい」
と言うと、兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って同じことを言うと、弟は「承知しました」と
答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか?』
っというたとえ話から、(当時の社会の指導者や長老たちよりも)
『(罪びととみなされていた)徴税人や娼婦たちのほうが、
先に神の国に入るだろう』とイエス様は仰った(マタイ21:28-32)
という箇所から‥。
◆今のこの世でのことは、
神さまからの問いかけに対して「いやです」と拒絶するか
「承知しました」と答えるか‥、まだその段階であるとも言える。
◆自分の身の回りにいる、明らかに間違ったことをしている
(と思われる)人たちに向かって、
「あなたは罪びとであり、自分は救われている」などと言うことは、
決してできない。
◆そう思うと、まわりの人たちが自分に対してしたことが、
どんなことであっても、許すことができるのではないか。
◆自分では「間違ったことをしていない」つもりであっても、
「自分は、これでいいんだ」と、
日々自分を振り返り反省し、
より善いほうへと変わろうとする努力をすることを、
決してやめてはいけない。
◆かといって、自分を振り返ってみた時、自分を必要以上に卑下したり、
してしまったことにいつまでもくよくよしたりする必要もない。
アナタたちみんな一人一人、神さまから望まれたから、
ココに存在しているのだから。
善くなる力も、しっかり頂いているのだから。
‥といった話をしました。
ミサ中に思いついたことを、だだだだっと喋っちゃったんだけど
無口な(さらに、目つきのするどい)中高生男子三人に、
どれだけ響いたのかな~
ま
そんなこんな、ちょっとした時間も一つの「出会い」であり、一期一会。
また次回以降も、おつきあいくださいと話を終わったのでした
思えば。
先週の箇所も、確か、「一見」とても『理不尽』なハナシでした。
あるぶどう園の主が、働き手を捜していた。
朝、「私のぶどう園で働いてください」と、ある人に声をかけた。
昼にも同じように、別の人に声をかけた。
夕方近くなった時にも、また、別の人に声をかけた。
そして、日が暮れてから、
その日の賃金を夕方に来たひとから配り始めた。
朝から働いていたひとは、当然、後から来た人よりも
たくさんの賃金をもらえるだろうと思っていたが、
賃金は同じ額だった。
‥っといった話だったと思います
朝からずっと働いていたって、
夕方から1時間だけ働いたって、
『賃金(=神の国へ入ること・救い)』は皆同じ‥
なんですって
神さまは、皆を同じように救いたい、のですって
つまり
神さまは、人間とは違ったところから物事を見ておられるので、
一見、『理不尽!?』としか思えないようなことを、なさる訳です
これは‥。
世の中から一向に、病気や争い、天災といったものが
なくならない。
人々は、苦しめられている。
神もホトケもあったものか!?という、
よくある問いに答えるものなんじゃないかな??
なんて思いましたの
世の中は一見すると、不平等だし理不尽なもんなんですよ、きっと
2千年前から伝わる書物にハッキリ著されているようにね
でも。それでも!!
皆、救われるんですよ救われたいと望むならば
‥その「とき」は、この世にいる間には来ないかもしれないけど。
‥エラいことを、考え始めてしまいました
つづくかも~