二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

君が代の話

2023年03月13日 06時20分29秒 | ニ言瓦版
しらべた。
君が代は、面白い。歴史。




「「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった[29]。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる[29]。
「君が代」は、江戸城大奥で元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた[30]。
これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて緋毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた盥(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して
「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が
「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの
「浄めの儀式」であった[30]。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた[30][注釈 5]。
礼式曲「君が代」の成立[編集]

ウィキソースに歌詞の原文があります。



「國歌君ヶ代発祥之地」碑薩摩バンドが寄宿していた横浜妙香寺境内に建つ


1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった[31]。

その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、
日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た[1][17][30]。
当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、薩摩琵琶歌の「蓬萊山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した[17][30][32]。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された[30]。ただし澤鑑之丞が当時フェントンの接遇係の一人であった原田宗介から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、静岡藩士の乙骨太郎乙が大奥で行われた正月の儀式
「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる[33]。
同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった[34]。翌年1870年(明治3年)8月12日、
横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される[34]。
同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された[1][5][35]。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった[1][2][3]。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。
国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍省軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の以下の部分でもうかがえる[1][3][20]。
「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[23]。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[23]。
この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された[1][2][5]。翌年1877年に西南戦争が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。

"Japanese National hymn(日本の礼式曲)"譜面の表紙伊勢の夫婦岩をデザイン。作曲者としてエッケルトの名がみえる。クルト・ネットー作(1880年)


1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された[1][2]。採用されたのは林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林広季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる[1][2]。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した[1][17][18][20][32]。
改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日の天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された[1][2][3][18][32]。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった[5]。
海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲による現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる[19]。
1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された[3]。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった[36]。曲も英国人ウェッブ(英語版)が作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた[2][36]。
第二十三 君が代
一君が代は ちよにやちよにさゞれいしの 巌となりてこけのむすまで うごきなく常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ二君が代は 千尋(ちひろ)の底のさゞれいしの 鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなきみよの栄を ほぎたてまつる
また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた[36]。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった[3]。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった[3]。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された[3]。」



学校で、教えないのかもしれない。
君が代の歴史。
江戸時代か。

君が代。あの人の歌、聞きたいな。今年は。どんな高校生が歌うか。


国家「君が代」独唱 野々村彩乃【高音質】
国歌独唱 すごい女子高生 歌詞つき

野々村彩乃氏か、いい。高校時代の歌は。いい。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 君が代 | トップ | 面白いな。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ニ言瓦版」カテゴリの最新記事