二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


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面白い。正直か

2015年11月30日 04時02分11秒 | ニ言瓦版
週刊大衆は、面白い。
最近、買ってなかった。
古い歴史と、比較すると、そうだ。
これは、歴史の教訓。



「大阪維新の党、山口組、製菓メーカー『ロッテ』、家具販売会社『大塚家具』など、盛んに分裂やお家騒動が巷を賑わせる2015年。

人間誰しも、いずれかの組織に属しており、孤独ではない安堵を得る一方で、うまくいかない不満を抱えている。現代社会は、不満を表に出せる時代ではないが、世が混沌としていた戦国時代は、それが比較的オープンな時代だった。だからこそ、裏切りを伴うドラマをいくつも生み、今なお人々を魅了する。

一方で、"裏切り後"がどうなったかは、一部を除き、あまり知られていない。

そもそも、裏切りという言葉は敗者に使われるもので、たとえ何かに背いたとしても、勝者になりさえすれば、その行為は正当化されて悪名は消え去る。

たとえば、戦乱の世を終わらせた徳川家康も、本来は裏切り戦国武将の一人と言っていい。教科書的にいえば、家康は東軍の大将として、石田光成、毛利輝元ら西軍を関ヶ原で打ち破り、その後260年続く平穏な江戸幕府を開いた、となる。

しかし、当時、死去していた豊臣秀吉の遺児・秀頼を担いで豊臣政権の維持を狙ったのが西軍だった。世襲制が第一だった当時においては、天下人だった秀吉の子は、当然、次の天下人と認識されるから、家康はいわば"政権与党"を転覆させようとした裏切り者と言っていいのである。

ところが、家康が戦に勝利し、新たな政権を作ったため、彼こそが歴史となり、正義となったのだ。もし、関ヶ原で西軍が勝利し、豊臣政権が存続していたとしたら、家康は反逆に失敗した裏切り者のレッテルを張られ、三成や輝元は幼い秀頼を体を張って守った"忠義の臣"ということになっただろう。

一方、この時代に最も裏切られた人物は、織田信長。短気かつ、冷酷だった彼の性格を人は恐れ、耐えきれなかったのだろう。家臣が裏切り、同盟者に裏切られ、そして、家族に裏切られ――。信長が生涯で裏切られた回数は、50回を超えるといわれている。

松永久秀には2回も裏切られ、荒木村重には1年間も籠城して徹底抗戦され、真面目な弟から暗殺されかけてもいる。そして、その死さえも、家臣の裏切りによるものだった。

一方、下剋上の世には相応しくない(?)兄弟喧嘩の延長のような、かわいい裏切り劇もあった。奥羽の独眼竜・伊達政宗と、その家臣で従兄弟の伊達成実が、その一例だ。

成実は伊達家随一の猛将として政宗の躍進を支え、同時に、年齢も1つしか違わない2人は、幼少時からお互いを知っていた幼なじみの関係でもあった。しかし、1590年代に成実は突如、出奔してしまうのだ。理由は分かっていないが、想定外だったこの裏切りは、伊達家中に衝撃を与えた。成実の領地を没収する際には、小規模ながら戦闘が起こり、数十人が死亡する事態にもなった。出奔後の成実には、その勇猛さを知る上杉景勝や徳川家康が、大名級の領地を与えるから家臣にならないかと誘ったが、すべて拒絶した。出奔したとはいえ、政宗以外に仕える気はなかったのだといわれている。

1600年、成実は政宗に頭を下げて復帰を要望すると、これを許され、伊達家への帰参を果たしている。その後、成実は伊達家で家臣団のトップに出世する他、政宗から「用はないけど、手紙を出します」との書状を受け取ったりと、主君への裏切りなどなかったかのような生涯を送ることになる。

主殺しから政権転覆、あるいは、兄弟喧嘩のようなものまで、さまざまな形がある裏切り。"決断"し男たちの、その後の末路にも、ぜひ注目してほしい。」




事件、行為の話は、ドラマ、いろいろある。
歴史は、自分の判断と、学んでことで、どうするかである。
知らないと、同じことを繰り返する。
考えてみると、反省しないから、起きるのか。
怖いから、裏切るのか、信長の50回は、信用しないのか、なぜ、本能寺で、警護を怠慢だったか。
秀吉も惨めな最後、一族も。


いろいろの一族の骨肉の争い。
今と、変わらないのが、人の所業。

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