女性も、女も、いろいろいる。
でも、ドラマのように、女優が、ドクターXになるといいな。
本当の医者に。
いや、女優より、世の中のためになる。
「中学受験で超難関私立校に入学。内部進学した女子校から、系列大学の医学部に進めるのはわずか5人。優秀な生徒が集まるなか、その狭き門をくぐったのだという。「3年生になったばかりの今の時期に進学先の学部が決まるのは早すぎる」との声も出ているが、これまでの報道などで漏れ伝わってくる芦田の“超優秀ぶり”を鑑みると、合格していてもおかしな話ではない。
「元より知的なイメージのあった愛菜ちゃんですが、ここ数年、制作発表会見などで繰り出す物事の本質をついた発言が“名言すぎる”と話題になることが多い。日本文学研究者のロバート・キャンベル氏も彼女のことを天才だと称賛していました。今回の医学部内定の報道を受けて、ネット上では育てた“両親”についての検索がかなり増えているといいます」(ウェブメディア編集者)
両親が施してきた教育の中身
2010年、6歳のときにテレビドラマ『Mother』(日本テレビ系)でネグレクトを受ける少女を好演。凄まじい演技力をみせつけた。翌2011年、『マルモのおきて』(フジテレビ系)でゴールデンタイム連ドラ史上、最年少の7歳で主演に抜擢。共演した鈴木福とともに『マル・マル・モリ・モリ!』で歌手デビューも果たし、国民的天才子役として名をはせた。女優業と学業ともにトップクラスの成績で両立させた芦田愛菜はどのように育てられたのか。両親が施してきた“教育”の中身とは──。
「3歳のころに現在も所属する子役事務所に入りました。当時住んでいた兵庫から仕事のたびに上京していたそうです。お父さんはメガバンクに勤めるエリート。お母さんは同僚だったそうです。
両親は芦田さんが小さいころから本をたくさん読み聞かせ、買ってあげていたみたいです。常に近くに本がある生活だったとか。小学6年生のときに谷崎潤一郎の『細雪』を読破したと聞いて驚きましたよ」(芦田の知人)
小学生のときからジャンル問わずに読書に勤しみ、年間300冊を超える読書量だったという。2019年には好きな本との出会いを語る『まなの本棚』を上梓した。
「本をたくさん読んでいるのもあってか、語彙が豊富な印象です。小学生のころから敬語も完璧でしたね。撮影の合間もずっと本を読んでいましたよ」(情報番組ディレクター)
中学受験の勉強は“小6の夏”から
勉強熱心だけでなく、礼儀も正しかったと評判は高い。その根底にあったのは、母からの教えのようで、
「芦田さんが7歳のころに情報番組で教育方針を特集したことがあったのですが、そのときに紹介されたのが、当時お母様が彼女に徹底して教え込んでいた、“7つの言葉”。『おはよう』『さようなら』『ありがとう』『ごめんなさい』『わかりません』『お願いします』『知りません』──この7つをしっかり言えるような子になってほしいとの願いがあったといいます。
ほかにも、『子どもの「なんで?」に徹底して付き合う』『子どもの興味あることにとことん本気で向き合い応援する』といった姿勢を崩さないこともモットーだったそう。芦田さんの知的で謙虚な一面はお母様の教育の賜物だと思います」(同・情報番組ディレクター)
名門私立中を受験、無事合格したことで今に至るが、本格的に勉強を開始したのは小学6年生の夏ごろだったという。短期間の勉強で超難関校に受かったのだから驚きだ。それまでも地元の学習塾に籍を置いていたが、連ドラなどの仕事に追われ、満足に通うことができなかった。
「それまでの仕事をセーブし、塾の夏期講習でみっちり基礎から叩き込んだそうです。そのころは1日に12時間も勉強に費やしていたとか。すごい集中力ですよ。お母様からよく『時間を有効活用するように』と言われていたといいますが、ここまで集中力を切らさずに頑張れる小学生はなかなかいないですよね」
今年5月に、高校生を対象に行われた『高校生の将来就きたい職業に関するトレンド調査』という調査(アイ・エヌ・ジー調べ)で、『同世代で憧れる人』ランキングで1位を獲得している。
「かつてインタビューで“病理医”に興味があると明かしてから、さまざまなメディアでその発言が取り上げられています。今後医学部に進学するとなると、実習なども多いことから、さらに学業中心になるのではないか、ということが懸念されています。ですが、彼女の所属事務所は芦田さん本人の決断を尊重する方針のようです」(芸能プロ関係者)
我々は“二刀流”を期待してしまうけれど──。全世代が彼女のこれからに注目している。」
いいことだ。
女優と、医者。
あの医者団はすごい。
ドクターX超える、医者団。
国境なき医師団に、入ると
医者になると、凄い医者だ。
外科医でも、なるといい。いや、精神科医か。
女性、女は、医療のトップになるといい。
それでなくでも、医大に女性の受からない事件が、あった。
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「国境なき医師団(こっきょうなきいしだん、フランス語: Médecins Sans Frontières[9]、略称: MSF[1][2])は、1971年にフランスの医師とジャーナリストのグループによって作られた非政府組織(NGO)で、世界最大の国際的緊急医療団体である[7]。国際援助分野における功績によって、1999年にノーベル平和賞を受賞した。
国境なき医師団は、1968年から1970年にかけて赤十字の医療支援活動のために、ナイジェリア内戦中のビアフラに派遣されたフランス人医師たちを中心に設立された。
ビアフラでの活動から戻った彼らは、各国政府の中立的態度や、沈黙を守る赤十字国際委員会の活動に限界を感じ、人道援助およびメディアや政府に対して、議論の喚起を行う組織を作る必要があると考えた。そして全ての人が医療を受ける権利があり、また医療の必要性は、国境よりも重要だという信念に基づき、1971年12月20日「国境なき医師団」を創設した。
1975年、エチオピアの大干魃と政府の失策による飢餓で、100万人以上が死亡したが、栄養治療を大規模に展開した。
1979年の「ベトナムの船」の活動では、創設者の1人ベルナール・クシュネルがチャーターした船「光の島」号に医師たちだけでなくジャーナリストたちも同乗させ、同国での人権侵害を告発した。この活動があまりに宣伝的ではないかとの論争に発展、クシュネルは国境なき医師団を離れ、新たに「世界の医療団」(Médecins du Monde)を1980年にフランスで設立した。彼はその後同団の活動も離れフランス政界へ転進、2007年5月から2010年11月までフランス外務大臣を務め上げた。なお、「国境なき記者団」のロベール・メナール代表によると、「―記者団」は国境なき医師団関係者がメディアで「第三世界の人々の窮状に関する報道が少ない」と訴え、これを受けたフランスのジャーナリストらに設立されたもの[要出典]であり、クシュネルとメナールは互いに親交を保っている。
1991年、湾岸戦争と内乱で難民となったイラクのクルド人への援助活動を開始した。トルコ、イラン、ヨルダンで物資2000トン、スタッフ150人と、過去最大規模の活動を展開した。
1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナの国際連合保護地域がセルビア人勢力の攻撃を受け、多くの人が殺され、強制的に移住させられた。その現場にいた唯一の証言者となった。
1999年、28年間の人道援助活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。授賞式で、ロシア軍によるチェチェン市民への無差別爆撃の停止を訴えた。
2003年、イラクのバグダッドが米英軍の攻撃を受ける間も現地にとどまり、病院や診療所の支援活動をおこなった。米英政府に対してイラク国民の医療を保証する義務を遂行するよう要求した。
2010年、ハイチの大地震直後から緊急医療活動を開始し、35万人以上を治療した。その後コレラの流行のため50カ所にコレラ治療施設を開設し、1年間で17万人以上を治療した。
2011年、東日本大震災の翌日から、医療の届いていない地域で緊急医療援助を開始した。医療、心理ケア、物資や通院用バスの提供・仮設住宅、医療施設の建設支援をおこなった。
2012年~2015年、シリア、アフガニスタン、イエメンなどで続く内戦に国内外で援助を展開するとともに、民間人や医療施設が攻撃を受ける事態に国際人道法の遵守を呼びかけた。また、ギニア、リベリア、シエラレオネを中心とする7か国で未曾有の感染拡大が起きたエボラ出血熱に対して取り組みを続けた。
2015年10月3日には、アフガニスタン北部のクンドゥズで運営していた病院が、アメリカ空軍による空爆を受け、医師と患者の合計22人が死亡した。国境なき医師団の公式発表によると、すべての紛争当事者に定期的に病院の位置をGPSで伝えていた。また、爆撃が始まった直後に電話で中止を要請したが、それでもなお誤爆が続いた。医療施設への攻撃は戦時国際法に反し、国際人道法の侵害であるとアメリカ合衆国連邦政府とアフガニスタン政府に抗議。独立した国際機関による真相究明を求めている。さらに、各事務局を通じて全世界で54万通以上の署名を集め、2015年12月9日ホワイトハウスに持参した。クンドゥーズ病院爆撃事件の調査に同意するようにとアメリカのバラク・オバマ元大統領に改めて求めた[10]。
10の原則[編集]
国境なき医師団はその活動において、10の原則を掲げている。
- 第一に医療援助活動
- 証言活動
- 医療倫理の遵守
- 人権の擁護
- 独立性への配慮
- 基本原則:公平性
- 中立性の精神
- 義務と透明性
- ボランティアからなる組織
- メンバー一人一人が参加し動かす組織
」
凄い医者たち。
日本の医者は、どのくらい、いるのか。