感染の歴史。
「ミヒャエル・ヴォルゲムート(ドイツ語版)『死の舞踏』1493年、版画
「生」に対して圧倒的勝利をかちとった「死」が踊っているすがた — 14世紀の「黒死病」の流行は全ヨーロッパに死の恐怖を引き起こした。
感染症の歴史(かんせんしょうのれきし)では、世界の歴史において、特に後世に社会的、経済的、文化的に甚大な影響を与えた感染症について記述する。
病原微生物ないし病原体(マイコプラズマやクラミジアといった細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌、原虫、寄生虫)がヒトや動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすと組織を破壊したり、病原体が毒素を出したりしてからだに害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となる。これを感染症という。類義語として伝染病があるが、これは伝染性をもつ感染症をさしている[1]。また、伝染性をもつ感染症の流行を疫病(はやり病)と呼んでいる。
感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきた。感染症や疫病に関する記録は、古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに四災厄のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されている。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されている[2]。そしてまた、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではない。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行してきた。
イブン・スィーナー(アウィケンナ)
感染症の伝染性を発見したのは、イスラーム世界を代表する医学者でサーマーン朝出身のイブン・スィーナーであった。「医学典範(āb al-Qānūn fī al-ṭibb、The Canon of Medicine)」(1020年)において隔離が感染症の拡大を止めること、体液が何らかの天然物によって汚染されることで感染性を獲得することを記述している[3]。ただし、その物質が病気の直接原因になるとは考えていなかった[4] 。
レーウェンフック(1632-1723)
14世紀にナスル朝で活躍したイブン・アル=ハティーブはイベリア半島のアンダルス地方における黒死病(ペスト)の流行において、衣類・食器・イヤリングへの接触が発症の有無を左右していることを発見した。これを受けて、イブン・ハーティマ(Ibn Khatima、1369年 - ?)は「感染症は微生物がヒトの体内に侵入することによって発症する」との仮説を打ち立てた[4]。この考えは、16世紀イタリアの修道士で科学者のジローラモ・フラカストロの著作『梅毒あるいはフランス病』(1530年)や『伝染病について』(1546年)により、ルネサンス期のヨーロッパにも広く受け入れられた[5]。フラカストロは伝染病のコンタギオン説(接触伝染説)を唱え、梅毒(Syphilis)やチフス(typhus)という病名の命名者となった。
病原体(病原微生物)について、それを人類が初めて見たのは、形態的には1684年のオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックの光学顕微鏡による細菌の観察だといわれる[6]。レーウェンフックの顕微鏡の改良により、細菌を肉眼で容易に観察できるようになった。
昔の顕微鏡を描いた旧東ドイツの切手。
初期の感染症研究には顕微鏡の発達が不可欠であった。
1838年に細菌を意味するラテン語 "bacterium" が出現しており、病原体が現在のように判明してきたのは19世紀以降のことであって、フランスのルイ・パスツールやドイツのロベルト・コッホに負うところが大きい。パスツールは、病気の中には病原体によって生じるものがあることを証明し、狂犬病のワクチンを開発した。そしてコッホは、1875年、感染力のある病原体としての細菌である炭疽菌を、光学顕微鏡を用いた観察によるものとして初めて発見し[6]、また、感染症の病原体を特定する際の指針として「コッホの原則」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出した。エドワード・ジェンナー、ジョナス・ソーク、アルバート・サビンの3人はそれぞれ、天然痘やポリオに有効なワクチンを開発し、後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するために大きな一歩を踏み出した。日本でも、北里柴三郎が1894年にペスト菌を、志賀潔は1898年に赤痢菌を発見している[1]。なお、主な疫病菌の発見は以下の通りであり、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中している[7]。
ハンセン病
1875年
アルマウェル・ハンセン(ノルウェー)
マラリア
1880年
シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン(フランス)
腸チフス
1880年
カール・エーベルト(ドイツ)
結核
1882年
ロベルト・コッホ(ドイツ)
コレラ
1883年
ロベルト・コッホ(ドイツ)
破傷風
1884年
アルトゥール・ニコライエル(ドイツ語版)(ドイツ)
ブルセラ症
1887年
デビッド・ブルース(イギリス)
ペスト
1894年
アレクサンドル・イェルサン(フランス語版)(フランス)、北里柴三郎(日本)
赤痢
1898年
志賀潔(日本)
梅毒
1905年
フリッツ・シャウディン(ドイツ語版)(ドイツ)
百日咳
1906年
ジュール・ボルデ(フランス)
チフス
1909年
シャルル・ジュール・アンリ・ニコル(フランス) 」
この歴史は、知らないものだ、庶民も、
公務員は、教えないのか、公務員試験には、感染の試験でしないと、バカ官僚が、生まれる。
日本人は、凄い人が歴史にいるのに、
バカ公務員、医者が、いるから、感染の対策もしない。
「ミヒャエル・ヴォルゲムート(ドイツ語版)『死の舞踏』1493年、版画
「生」に対して圧倒的勝利をかちとった「死」が踊っているすがた — 14世紀の「黒死病」の流行は全ヨーロッパに死の恐怖を引き起こした。
感染症の歴史(かんせんしょうのれきし)では、世界の歴史において、特に後世に社会的、経済的、文化的に甚大な影響を与えた感染症について記述する。
病原微生物ないし病原体(マイコプラズマやクラミジアといった細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌、原虫、寄生虫)がヒトや動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすと組織を破壊したり、病原体が毒素を出したりしてからだに害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となる。これを感染症という。類義語として伝染病があるが、これは伝染性をもつ感染症をさしている[1]。また、伝染性をもつ感染症の流行を疫病(はやり病)と呼んでいる。
感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきた。感染症や疫病に関する記録は、古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに四災厄のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されている。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されている[2]。そしてまた、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではない。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行してきた。
イブン・スィーナー(アウィケンナ)
感染症の伝染性を発見したのは、イスラーム世界を代表する医学者でサーマーン朝出身のイブン・スィーナーであった。「医学典範(āb al-Qānūn fī al-ṭibb、The Canon of Medicine)」(1020年)において隔離が感染症の拡大を止めること、体液が何らかの天然物によって汚染されることで感染性を獲得することを記述している[3]。ただし、その物質が病気の直接原因になるとは考えていなかった[4] 。
レーウェンフック(1632-1723)
14世紀にナスル朝で活躍したイブン・アル=ハティーブはイベリア半島のアンダルス地方における黒死病(ペスト)の流行において、衣類・食器・イヤリングへの接触が発症の有無を左右していることを発見した。これを受けて、イブン・ハーティマ(Ibn Khatima、1369年 - ?)は「感染症は微生物がヒトの体内に侵入することによって発症する」との仮説を打ち立てた[4]。この考えは、16世紀イタリアの修道士で科学者のジローラモ・フラカストロの著作『梅毒あるいはフランス病』(1530年)や『伝染病について』(1546年)により、ルネサンス期のヨーロッパにも広く受け入れられた[5]。フラカストロは伝染病のコンタギオン説(接触伝染説)を唱え、梅毒(Syphilis)やチフス(typhus)という病名の命名者となった。
病原体(病原微生物)について、それを人類が初めて見たのは、形態的には1684年のオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックの光学顕微鏡による細菌の観察だといわれる[6]。レーウェンフックの顕微鏡の改良により、細菌を肉眼で容易に観察できるようになった。
昔の顕微鏡を描いた旧東ドイツの切手。
初期の感染症研究には顕微鏡の発達が不可欠であった。
1838年に細菌を意味するラテン語 "bacterium" が出現しており、病原体が現在のように判明してきたのは19世紀以降のことであって、フランスのルイ・パスツールやドイツのロベルト・コッホに負うところが大きい。パスツールは、病気の中には病原体によって生じるものがあることを証明し、狂犬病のワクチンを開発した。そしてコッホは、1875年、感染力のある病原体としての細菌である炭疽菌を、光学顕微鏡を用いた観察によるものとして初めて発見し[6]、また、感染症の病原体を特定する際の指針として「コッホの原則」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出した。エドワード・ジェンナー、ジョナス・ソーク、アルバート・サビンの3人はそれぞれ、天然痘やポリオに有効なワクチンを開発し、後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するために大きな一歩を踏み出した。日本でも、北里柴三郎が1894年にペスト菌を、志賀潔は1898年に赤痢菌を発見している[1]。なお、主な疫病菌の発見は以下の通りであり、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中している[7]。
ハンセン病
1875年
アルマウェル・ハンセン(ノルウェー)
マラリア
1880年
シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン(フランス)
腸チフス
1880年
カール・エーベルト(ドイツ)
結核
1882年
ロベルト・コッホ(ドイツ)
コレラ
1883年
ロベルト・コッホ(ドイツ)
破傷風
1884年
アルトゥール・ニコライエル(ドイツ語版)(ドイツ)
ブルセラ症
1887年
デビッド・ブルース(イギリス)
ペスト
1894年
アレクサンドル・イェルサン(フランス語版)(フランス)、北里柴三郎(日本)
赤痢
1898年
志賀潔(日本)
梅毒
1905年
フリッツ・シャウディン(ドイツ語版)(ドイツ)
百日咳
1906年
ジュール・ボルデ(フランス)
チフス
1909年
シャルル・ジュール・アンリ・ニコル(フランス) 」
この歴史は、知らないものだ、庶民も、
公務員は、教えないのか、公務員試験には、感染の試験でしないと、バカ官僚が、生まれる。
日本人は、凄い人が歴史にいるのに、
バカ公務員、医者が、いるから、感染の対策もしない。