帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(94)三輪山をしかも隠すか春霞

2016-12-09 19:23:35 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下94

 

春の歌とてよめる           貫之

三輪山をしかも隠すか春霞 人にしられぬはなやさくらむ

春の歌ということで詠んだと思われる……春の情の歌といって詠んだらしい  つらゆき

三輪山を、そのようにも隠すか春霞、人に知られない・珍しい花でも咲いているのかい……三つの和合の山ばを、そのように隠すか、張るが済み、女に知られないおとこ花でも咲いたのだろうか)

 


  歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「三輪山…大和にある山の名…名は戯れる…三和の山ば…三度重ねる和合の山ば」「しかも…然かも…それほども…そうまでして」「かくすか…隠すのか…消えるのか…無しにするのか」「春霞…春が済み…張るがすみ」「人…人々…女」「はな…花…木の花…男花…おとこ花」「らむ…それでだろうか…どうしてだろうか」

 

春霞よ三輪山を、どうしてそれほど隠すのか、人に知られたくない花でも咲いているのだろうか。――歌の清げな姿。

張るが澄み、三和の山ばを、そうしてなぜ無くすのか、女性に知られたくない、おとこ花でも咲いたのか。――心におかしきところ。

 

本歌は万葉集 巻第一にある、額田王(ぬかだのおほきみ)は、万葉集の最初を代表する女流歌人である。和歌は、この当時から、古今集の歌と同じ歌の様(表現様式)であり、言の心も歌言葉の戯れぶりも変わりはない。主旨は何だろう、聞いてみよう。

 

額田王、近江の国に下りし時作る歌

三輪山をしかも隠すか雲だにも 情ありなも隠さふべしや

額田王が、天智天皇と大友皇子に従って、遷都した近江の国に下った時に作る歌

(三輪山を、そうして隠すか、雲だけれども こころがあって欲しいわ、隠すべきかしらね・別れを惜しんでいるものを……三つの和合の山ばを、そのように無くすか、心の雲だけでも情が有って欲しい、無くすべきかしらね・ものの山ばの峰の別れは辛いのに)

「雲…空の雲…煩わしくも心に湧き立つもの…心雲…色情・情欲など…広くは煩悩」。

 

近江の国に遷都された時に、「どうして大いなる和らぎの山ばを去らなければならないのよ」と、心に思う事を歌で述べた。此の遷都に乗り気ではなさそうな心模様が歌に顕れている。「雲に覆われた三輪山の景色」「名残り惜しい心情」と「心におかしきところ」に包まれて、歌の旨(主旨・趣旨・旨味)が有る。これが、古来より変わらない歌の様(歌の表現様式)である

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)