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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(113)
(題しらず) 小野小町
花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに
(草花の色香は・わが容色は、衰えてしまったようね、することもなく、わが身、世に過ごし、長雨・眺めていた間に……木の花の色は・貴身の色情とかたちは、衰えてしまったようね、むなしく、わが身、夜に降る淫雨ながめ・物思いに耽っていた間に)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「色…色や形ある物…色香・容色…色情」「うつりにけり…移ってしまった…衰えてしまった…色あせてしまった」「けり…気付き・詠嘆」「な…確認・念押し」「いたづら…徒ら…無駄だ…役立たない…することがない…むなしい」「世…女と男の世の中…おんなとおとこの夜の仲」「ふる…経る…過ごす…古る…年老いる…振る」「ながめ…長雨…淫雨…眺め…見つめて物思いに耽る…長め…延長」「見…媾…まぐあい」「雨…おとこ雨」。
草木の花の色彩は褪せてしまったようね、徒らに、わが身、世に過ごし、長雨していた間に。――歌の清げな姿。
おとこ端の色情は、衰えてしまったようね、空しく、わが身、夜に、振るを、見つつ、もの思いに耽っていた間に。――心におかしきところ。
わが花顔の色香は、衰えてしまったようね・男どもの見せる色情も、無気力に、わが身、この世に過ごし古び、長らえている間に。老いは全てを変えた。あゝ無常。――これが歌の深き心か。
このように聞けば、この歌一首から、若き頃の好き美女、小町の妖艶な姿さえ彷彿される。
仮名序「小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。哀れなる様にて、強からず、言はば、よき女の、悩めるところあるに、似たり、強からぬは、女の歌なればなるべし」や、真名序「小野小町之歌、古衣通姫之流也、然艶而無気力、如病婦之著花粉」の批評の主旨も理解しやすくなる。
藤原定家が「百人一首」に、数ある小町の歌からこの歌を撰んだのも納得できる。
平安時代の和歌の文脈に入ったのである。今や常識と化した国文学的解釈は、この時点から見れば、ほんとうに奇妙な解釈である。(有名なこの歌の現在の解釈は、どの教科書や参考書にも、小さな古語辞典にも載っているので、ここには掲げない)。その潤いと艶のない、誰もが正当と思いたくなる理性的解釈方法の砂漠を抜け出たのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)