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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(110)
鶯の花の木にて鳴くをよめる 躬恒
しるしなきねをも鳴くかなうぐひすの ことしのみちる花ならなくに
(鶯が花の木にて鳴くのを詠んだと思われる……女がおとこ花の気に泣くのを詠んだらしい)・歌 みつね
(効きめない声あげて鳴くのだなあ、鶯が、今年のみ散る花ではないのに・どうしょうもなく毎年散る……役立たぬ、根をも、嘆き泣くかな、憂くひすの女、こ疾しだけの、早く果てるおとこ端ではないのに・毎度のことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「しるしなき…効果無き…効きめ無き…役立たぬ」「ねをもなく…音をも鳴く…声あげて鳴く…声だして泣く…根おも泣く」「ね…音…声…根…おとこ」「を…対象を示す…お…おとこ」「も…意味を強める…追加する意を表す(他にも嘆くことがある)」「鳴く…泣く」「かな…感動・感嘆を表す」「うぐひす…鶯…鳥の言の心は女…憂く干す…いやだ干からびる」「の…主語を示す…修飾語をつくる」「ことし…今年…こ疾し…此の早過ぎ」「のみ…限定…の見…の身」「散る…果てる…尽きる」「花…木の花…男花…おとこ端」「ならなくに…ではないのに」。
無駄な声あげて鳴く鶯だなあ、毎年散る花なのに。――歌の清げな姿。
歌の清げな姿を一見する限り、「散る花を止める効果もないのに、いたずらに鶯が鳴くのを詠んだ歌」で、これ以上の意味はないと思える。「歌の様を知り、言の心を心得る」平安時代の人々は、歌の清げな姿を一見するだけでは想像できない、心におかしきエロスが顕れるのを享受していたのである。
役立たぬ根をも、嘆き泣くなあ、憂くひすの女、こ疾しのみ、すぐ散り果てるおとこ花ではないのに、弱い根も今に始まったことはないし。――心におかしきところ。
早過ぎは、おとこの本性の恒常的疾患、ときには、弱々しい根もある、憂くひすの女よ。――これが、歌の深い心らしい。
貫之は、このような歌を愛でて「玄之又玄」という。「躬恒を侮るなかれ」、躬恒と貫之の歌は、優劣つけ難いというのが、平安時代の人々の結論のようである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)