帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二〕三月・四月

2011-02-19 06:53:18 | 古典

 

                   帯とけの枕草子
〔二〕三月・四月 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 枕草子〔二〕三月・四月  

 三月、三日(節句)は、うららかでのどかに日が照っていた。桃の花(百の花)が今咲き始める。柳(し垂れ木)など、趣があるのはなおさらでのこと、それもまだ葉がまゆにこもっているのはいい、広がっているのは気にいらない。花も散った後は、気にいらない感じに見える。
 
 立派に咲いた桜(男花)を長く折って、大きな瓶(うつわもの)に挿したのは趣があることよ。桜(表白裏赤)の直衣に、いだし衣(内衣の色を見せる着こなし)して、客人であれ、ご兄弟の君たちでも、そこ近くに居て、ものなど言っていたこと、とっても趣がある。

   「花…木の花…男花」「柳…男木…しだれ木…し垂れ木」「桜…木の花…男花」「木…男」「かめ…瓶…うつわもの…女」。
  言葉は、このように字義を大きくはみ出て多様に戯れる、そこに艶なる余情が顕われる。


 四月、祭りの頃、とっても風情がある。上達部、殿上人も、袍(正装の上着)、濃いか薄いかだけの違いで白の内衣など同じ様で涼しげでいい。
 
 木々の木の葉、まだひどく茂ってはいないで、若やいで青みがかっているので、霞みも霧も同じく白くて、空の景色(女の気色)、なんとなく心ひかれておかしいときに、夜など、忍んでいる郭公(忍びたる且つ乞う女)の、遠くそら耳かと思えるばかりにたどたどしいのを聞きつけたならば、なに心地がするだろうか。
 
 祭り近くなって、青朽葉、二藍の布をしっかり巻いて、紙などにほんの少し押し包んで持って行き交っているのは、風情があることよ。すそ濃染め、むら濃染め、巻染めなども、常よりは趣があるように見える。
 子供たちが、頭ばかりを洗い繕って、身なりはみなほころび絶え、乱れかかったのもあるが、高げた、くつなどに、「緒をすげてよ、裏を付けてよ」などと騒ぎまわって、いつしかその日になるのだろうと祭りの用意するのも、とってもかわいいことよ。 
 あやしく踊りまわる者たちが、装束を新しく仕立てて、たいそうに定者とか言う先導の法師のように練り歩きさまよう。子供たちがどれほど心配なことか、ことあるごとに、親、叔母の女、姉などが供について、衣や髪の乱れを繕いながら連れて歩くのも趣きがある。
 蔵人になりたいと思い込んでいる人が、たやすくはなれないで、この祭りの日に青色(蔵人の衣色)着たのは、やがて脱がないでいられないものかなあと思える。綾織物でないのはわるい。  

  「そら…空…天…あめ…女」「気色…景色…気分」「郭公…ほととぎす…鳥…女…カッコウ…且つ乞う」。


 言の戯れを知り言の心を心得た大人であれば、文の清げな姿と共に艶なるところを感じることが出来るでしょう。
 
 大内裏のうららかな風物の記録も、四月で敢えて終わっている。実は、宮の内のうららかだったのは、長徳元年(995年)四月に、殿(藤原道隆)が亡くなられるまでのこと。殿亡き後は、中宮におかれては、つらい月日となった。中宮の兄弟は道長によって京を追い払われ、里の家は焼け落ち、中宮の立場にもひしひしと道長の圧力がかかってきた。 

 宮の内に、華やぎや大人の女たちの笑い声が、消える状況となった。誰の所為か。この章には言外にこのような心が表されてある。それは、そのように「聞く耳」のある者にだけ聞こえるでしょう。
 枕草子の「清げな姿」や「心におかしきところ」はともかく、「深い心」は何かと、もしも聞く人があれば、道長とその周辺に対する秘かな諷刺の心であると答え給え。


 伝授 清原のおうな

 聞書   かき人しらず