帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (五十七) われから身をも砕きつるかな

2016-06-12 18:43:11 | 日記

              


                           帯とけの「伊勢物語」


 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。

 公任は、
歌のさま(歌の表現様式)を捉えた。「新撰髄脳」に示した優れた歌の定義の原文は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、すぐれたりといふべし」。これより、歌の「表現様式」が明らかとなる。歌は複数の意味が、一つの言葉で表現されてある。歌言葉は必ず複数の意味を孕んでいるので複数の意味を表現できるのである。歌言葉の字義以外の意味には、貫之のいう「言の心(この文脈で通用していた意味)」と、俊成のいう「浮言綺語に似た戯れの意味」とがある。


 伊勢物語
(五十七)われから身をも砕きつるかな

 むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、人しれぬ物思ひけり(人に知られず思い悩んだ…女の知らない物のことを思った)。つれない女のもとに(無情な女の許に…連れて逝かない女のもとに)
 恋ひわびぬあまの刈る藻に宿るてふ  われから身をも砕きつるかな

(恋に苦しみ辛かった、海人の刈る藻に宿るという割れ殻虫、自ら心も身をも、うち砕いてしまったよ……乞いに苦しみ果てた、あまのかる藻に宿るという、われからみをも・我絡身おも、貴女は・うち砕いてしまったなあ)


 貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る
 「人しれぬ物思…人に知られない恋…女の知らないおとこの思い…人に知られない男の愛憎」「こひ…恋…乞い…求め」「われから…割れ殻虫…海の虫の名、名は戯れる。我自ら、我殻」「われからみをも…(我殻)身をも…(我絡み)身おも…あなたに絡みついた我が武樫おとこも」「も…追加の意を表す…(心を砕く・ハートブレイクに加えて、絡み身)をも」「くだきつる…砕いてしまった…(心を)砕いてしまった…(身おも)粉砕してしまった」「つる…つ…完了した意を表す」「かな…感動・感嘆・詠嘆を表す」。

 ここ数章は、あひ難き女・連れなくかりける女・思ひ欠けた女・草のいほり女の流れの中で、男の心も身のおも打ち砕いてしまった女の物語である。愛憎の憎悪の部分である。或る女人にたいする愛憎は、その藤原氏一門の強引な所業にたいする怨念でもあると思えたとき、語り手の在原業平の深い心に触れることが出来る。

 数種の国文学的解釈を見てみたけれども、「われから…割れ殻…虫の名…我から…自ら」の戯れは解説されてあり、歌と物語の「清げな姿」は見せてくれるが、「われからみを…我絡み身を…あなたに・絡みついたわが身お…絡み我がおとこを」などという、下劣な戯れを解くものはない。これは、品性が雲泥のように違うためではなく、言語観または言語感覚がそれ程違うのである。紫式部と源氏物語の読者たちは、海の底の泥のような下劣な戯れをも知っていた節が「絵合の巻」の伊勢物語についての論争を読めば窺い知ることができる。

 清少納言は言語観を「枕草子」に記している、原文「おなじことなれども、きゝみゝことなるもの、法師のことば、おとこのこと葉、女のことば。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。―― 同じ言葉であっても、聞き耳により、(意味の)異なるもの、(それが)われわれ言語圏内の衆の言葉である。げす・外衆(言語圏外の衆)の言葉は必ず無駄な文字が余っている。
 
 
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)