帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (341)昨日といひけふとくらしてあすか河

2017-11-28 19:17:32 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。歌の「心におかしきところ」に、人の本音が顕れる。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌341

 

年のはてによめる             春道列樹

昨日といひけふとくらしてあすか河 ながれてはやき月日なりけり

(年の果てに詠んだと思われる・歌……疾しの果てに詠んだらしい・歌) はるみちのつらき(文章生・壱岐守)

(昨日と言い、今日と暮らして、明日かかは、時は・流れて早い月日だことよ……きの夫といい、京よ・山ばの絶頂よというけ婦と暮らし果てて、飛ぶ鳥のあすか,かは?、け婦に泣かれて、早き、尽き、引だったなあ)。

 

「年…疾し…早過ぎ…おとこのさが」。

「昨日…きのふ…貴の夫…奇の夫…わが夫」「けふ…今日…家婦…怪婦…わが妻…京…山ばの絶頂」「くらして…暮らして…果てて」「あすか河…川の名…名は戯れる。飛鳥かは、飛ぶ鳥かは?、明日か、かは?」「かは…川…言の心は女…かは?…疑問を表す」「はやき…早き…速き…疾き」「月日…時…突き・尽き・引・避」「なりけり…気付いてみると何々だったなあ…詠嘆」。

清少納言曰く「聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」、聞く耳によって意味の異なるもの、それが我々の用いる言葉であるという。少なくとも、歌の言葉(女の言葉)は、意味が多様であると知るべきである。

 

昨日今日明日と言って、時は飛ぶ鳥のあすか川かは、流れて早き月日だったことよ――歌の清げな姿。

貴の夫・奇の夫と言い、家婦・怪婦と言い、京を暮らし果てて、明日か、かは?、け婦に・泣かれて、早き、尽き、引だったなあ――心におかしきところ。


 おとこのさがの、早き果てを嘆いた歌のようである。
 

江戸の国学者本居宣長は、この歌を「古今和歌集 遠鏡」で、次のように訳す。

「昨日今日明日ト云テ、一日一日トクラシテ、ツイモウ年ノクレニナッタヂャ、アスカ川ノ水ノ早ウ流レテユクヤウニ、アゝサテサテ早ウ経ツた月日ヂャワイ」。

明治の国文学者金子元臣は、一首の意を次のように訳す。

「過去りし日を昨日といひ、さし當たれる日を今日といひて暮らして、すぐ明日を迎ふるといふやうに、何の間も無いうちに、早もう、年の暮れになッたを、如何した事ぞと思うて見れば、明日香川の水の早う流れて行くやうに、早う経ッた月日であッたワイとなり」。

現代の国文学的解釈も上と大きく変わる所はない。


 平安時代の歌論と言語観に帰リ聞き直せば、次元が違ってしまった事に気づくだろう。間が違ったまま次世代に継承されていく。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)