帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 あとがき

2014-05-03 00:58:00 | 古典

    



                帯とけの小町集



 あとがき


 和歌は鎌倉時代に「古今伝授」と称する秘伝となって埋もれ木となった。そこで、江戸時代の国学者たちは、古今集などの和歌を、客観的に・合理的に解釈しようとした。和歌の言葉は「枕詞」「序詞」「掛詞」「縁語」などと名付けるべき言葉で構成されていると考察し、和歌の修辞法と指摘した。「言の戯れ」を手なずけたつもりになったようである。それは、国文学に継承された。

 その修辞法を承知して、字義通り歌を聞いても感動するほどの意味が伝わらない。
「歌の心」や「おかしさ」は、解釈者の憶測を加えるしかない。客観的で合理的にと始まった解釈は、解釈者の憶見が大きくかかわることになる。同じ文脈に居る人々を説得しえる解釈が優れた解釈となる。この時、その解釈は平安時代の文脈とはかけ離れ、平安時代の人々の解釈とは大きく異なってしまっているが、その驚くべき違いに気付かないままである。心ある学者は国文学の解釈の不在を嘆くことになる。


 江戸時代の国学者の解釈はともかくとして、小町の代表的な歌について、現代の国文学的解釈を見てみよう。


 花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに


 手元にある高校生の用いる二冊の「古語辞典」より、現代語訳を引用する。


 一つは「花の色も(私の美しさも)あせてしまったのだなあ、空しく私が俗事にかかずりあってもの思い沈んでいた間に(長雨で花を賞美するひまもないままに)」


「ふる」に「降る」と「経る」を掛け、「ながめ」に「ながめ」に「長雨」ともの思いに沈む意の「眺め」とを掛ける。


 一つは「桜の花の色は、早くもあせてしまったことだなあ、咲いたかいもなく、長雨が降りつづいて、賞美するひまもなかった間に…、と同時に、私の容色も衰えてしまったなあ。むなしい恋の思いに明け暮れて、ぼんやり物思いにふけっていた間に」


「ふる」は「経る」と「降る」、「ながめ」は「眺め」と「長雨」の掛詞。「降る」と「長雨」は縁語。


 平安時代の人々は、ほんとうに、上のように歌を聞いていただろうか。歌を作っていただろうか。


 われわれは、貫之・公任・俊成の歌論と言語観に従って、次のように聞いた。再掲する。


 「花の色彩は盛り過ぎたようね、無駄に、わが身と世に降る長雨を眺めていた間に……わが花顔は色香衰えたようね、ただ何となく、我が身、世に経る、もの思いに耽っていた間に……おとこ花の色情は衰えたようね、はかなくも、わが身に、夜にふる、淫雨に耽っていた間に」


 言の戯れと言の心

「花…草の花…女花…華やか…花顔(楊貴妃のような美しい顔)…木の花…桜花…男花…おとこ花」「色…色彩…色香…色情…色欲」「うつり…移り…変化…衰え」「な…感動・感嘆・詠嘆の意を表す」「いたづら…徒…無駄…なんとなく…無価値…つまらない」「よ…世…男女の仲…夜」「ふる…経る…古る…降る…振る」「ながめ…眺め…ぼんやりもの思う…思いに耽る…長雨…淫雨」。


 秘伝となって埋もれたのは、好色な「心におかしきところ」で、秘伝になりそうな内容である。貫之・公任・俊成の歌論と言語観に回帰すれば、公任の言う「心におかしきところ」が伝わるように、歌を聞くことができるのである。