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父がこの世を去って、今月で丸3年が経った。桜満開の季節、終末医療の病院で最後の花見をして、あれよという間に逝ってしまった。その父が、亡くなって数ヶ月した頃、夢に現れた。姿はなく、声だけだった。電話を掛けてきたのだ。
「もしもし、そっちはどう?」と私。何か父が答える。よく聞き取れない。「何なんなの?」・・・すると、声がゆっくりになり、「ああー、つまらん」と、聞いたことがないほどの落胆した声だった。目が覚めてからも、この声がはっきり耳に残っていた。その「つまらん」という言葉にすべてが込められていた。
仏教で教えるところの、涅槃の手前に父はいるようだった。キリスト教では「煉獄」と呼ぶところか。そこは、人生回顧の部屋とでもしておこう。たった今まで生きていた前世を振り返り、自己審判をくだすのだという。
身体を持って生きていた時が、どんなに豊かな時間だったか。暑いも寒いも涼しいも、苦いも辛いも旨いも、感じることの出来る面白さ。身体を離れれば、純粋に思考のみとなり、感覚器官の醍醐味は消え去っている。私は何度か幽体離脱の経験があるから、それが理解できる。
生きているということは、まさしく身体の中に居て味わえる事々のすべてだ。魂は、この身体ごとの期間に成長が出来るといわれる。だから、人間として生まれてくるのだが、望んだとて簡単に生まれられるわけではない。あの世の諸々の約束事があって、それにパスして、やっとこさ人間になれるという。人間になりたい魂はごまんといるらしい。生まれて来られたことの貴重さ。有り難さ。その期間限定の人生を味わい尽くさなければ、勿体ない。生きていることが、あんなにも面白かったのか・・・
父のメッセージは、それを云っていた。
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