『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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ドリーマー20XX年 3章

2011年05月05日 09時51分15秒 | 近未来長編小説『ドリーマー20XX年』
【あらすじ】
新宿で働く安サラリーマン、山田一雄45歳。将来の希望などさしたるものもない独身暮らし。楽しみといえば給料日に歌舞伎町のキャパクラへ行くことぐらいだった。この男がある日、奇妙な夢を見始める。白髭の老人との対話の末に、夢旅行へ誘われ、時空を超えた旅が始まる。やがて辿り着いた世界は、20XX年の新宿だった。

(右下の欄のカテゴリーで、1章から順にお読みください)
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第一部
ドリーマー導入編

~~3~~


 わたしはまた、真っ白なゼロの間にいた。
 いつものようにM師がにんまりしながら話しかけてきた。
「あのビジネスマンは、タイ国でリゾートホテルの大口の契約を交して帰国するところじゃったが、ちょっとした気のゆるみから鞄をなくしたんじゃ」
「嫌な奴だったよ」
「ほう、そうかな。あの村ではおまえさん、ほとんど同調しとったんじゃないかな」
「いや、まあ、おれも日本に帰りたい一心で」
「あの時代は日本のひとつのピークじゃった」
「あの時代?」
「一九八八年じゃよ。バブル経済真っただ中の」
「エッ、ということは過去に行ったということに?」
「過去だろうが未来だろうが関係ない。思えば、思いとなり、そこへ赴くといっただろう。肉体を離れればどこへでも行ける。お望みならばもっとちがう世界へも行けるぞ」
「どんな?」
「それはおまえさんが、思えば、思いとなり、そこへ赴く」
「すぐに?」
「そうじゃよ。さっきも自分で、あそこへ行ったんじゃからな」
「なら、行ってみたいところがあるんだけど」
「ほう、そうくるか。もちろん行けるぞ」
「あれ? まだ言ってないけど」
「おまえさんの考えることは分かる。では、行ってみるかな」

             ○○○

 少年がひとりで部屋の中にいた。畳の上で怪獣の本を読んでいた。わたしは天井あたりから様子を伺っていた。
ーー母ちゃん、遅いなあ、おやつは缶の中にあるかな、カルピス飲もうっと。
 少年が頭に思い浮かべた言葉が、わたしに伝わった。
 と、同時にわたしは少年の中にすべり込んでいた。

 怪獣の本をぱたんと畳み、台所へ行って、冷蔵庫からカルピスの瓶を出した。コップにどぼどぼと注ぎ、そのまま飲むとあまりにも甘く、ごほごほと咳込んだにもかかわらず、また、ひと口飲んでから、水道の水を注ぎ足した。今度はコップに並々と水を入れたから、とたんにカルピスが薄まった。水っぽいカルピスに我慢できず、半分ほど飲んでから液を足してやっと満足できるものになった。棚の戸を開けて菓子の缶を探すと、いつもあるはずの場所に缶がなかった。棚の中をあちこち探したが、缶は見つからなかった。

「母ちゃんが隠したんだ、ちぇケチ」
 少年(わたし)は、また冷蔵庫を開けて、今度は練乳の缶を取り出して、缶切で開けた穴に口をつけて中身をずるずるとすすった。とろりと甘い練乳が口の中いっぱいになり、魅惑的な甘さにうっとりした。
 練乳をごくりと飲み、また缶を吸った。もう、やめとこうと思いながら、またすすった。練乳が缶の底に少しだけ残った。

ーーおい、おい、そんなに甘いものばかり口にしてたら、デブになっちゃうぜ!
 と、わたしは少年をたしなめたかったが、例の約束「ぜったい口を開いてはいけません」があるから黙っていた。

 少年は可なりの肥満児だった。だが、自分では少し太っているくらいの自覚しかなかった。昼に大きなおにぎりを三個も食べてまだ二時間しかたっていないのに、もう腹が空いているのである。完ぺきな胃拡張だ。

 一気に糖分を摂取したせいで、空腹はおさまったが、今度はとたんに眠くなってきた。少年は押入に行って上の段にのった布団を半分下ろして踏台にし、空いた隙間にもぐり込んだ。アナグマ的性質とでも言えばいいのか、母親が留守のあいだ、少年はよくそうやって押入で眠った。もっと小さい頃は、シミーズか何か、母親の匂いの残った服を抱いて眠ったものだが、最近はその癖がなくなっていた。
ーー寂しいんだ。
 わたしは少年から離れ、胸のあたりがぐっと締め付けられる感じになり、黙って少年の寝顔を見ていた。

 ふっと、少年がどんな夢を見ているのか気になったが、突然わたしの耳にM師の声が届いた。わたしはM師と意識の中で会話した。
「夢に入ってはいかん」
「どうして?」
「出られなくなるからじゃ」
「するとどうなるの?」
「少年の夢の中にずっと住むことになる」
「夢に入ったままか」
「そうなると、この子は夢の中でいつもおまえさんと会いつづけるんじゃよ」
「じゃあ、おれは夢の主に?」
「二重の夢じゃ」
「夢?」
「おまえさんが後で思い出す夢と、少年の中の夢の二重じゃよ」
「ややこしいな」
「単純な話だがな」
「おれって意識が、何ていうのか、とても曖昧になって薄ぼんやりしたものになる。今はそれほどでもないけど」
「相手と同化すればそうなるんじゃ」
 もっとちがう場所へ行ってみたくなった。そう思ったとたん、わたしはパチンと弾ける音といっしょにどこかへ飛んでいた。

               ○○○

 女が夕暮れの路地を歩いていた。電柱の裸電球に明りが灯っている。朝から缶詰工場で立ち働き、両肩がぱんぱんに張っているが、女にとってそれは日常のことである。家に戻り、息子の顔を見ると疲れなどもうどこかへ消えてしまう。風呂から上がって息子に肩を叩いてもらうのが楽しみだ。亭主はどうせ今夜も酒に入り浸たり、飲み屋の女にうつつを抜かして帰ってくるかどうかも知れたものではない。日曜になれば、パチンコに出かけてしまう。

 女の憂鬱な足取りを見ていると、そういう事ごとがひと固まりとなってわたしの感情の中に侵入してきた。
 働いても、働いても、借金がかさんでちっとも楽にならない。別れないのは子どもがかわいそうだから。
 女が口に出したわけではないが、確かにそう言ったのがわたしにはよく分かった。
 ーー母ちゃん。
 声に出そうになるのをぐっと堪え、心の中でつぶやいた。
 女が電柱のほうを振り向いたが、そこには誰もいない。だが、女は何かを感じたように足早になり、家路を急いだ。

 アパートの階段を上がり、部屋の明りをつけると、息子の姿がなかった。
「一雄、どこ?」
 返事がない。
 女はふと思い立ち、押入を開け、布団にくるまって眠っている息子を見つけた。


「また、この子はこんなところで寝て」
 抱きかかえようとして女は溜息をついた。子どもをそのままにしておき、台所に立ってコップに酒を注ぎ、一気に飲み干した。熱い息を吐いたとたん、その場に崩れ落ち、肩を震わせ、声を殺して泣いた。
 何で、何で・・・
 手に包丁を握っていた。
 わたしは慌てて女の中に入った。手が喉元に伸びそうになるのを必死で堪えていた。

 女(わたし)は、死ぬのが怖いのではなかった。子どもをひとり残して死ぬのが辛いのだ。ならば、息子も殺して自分も死のうと心が動いた。
 駄目だ! と叫びそうになった。
 すると、どこからか声が聞こえた。
「死ぬのは簡単じゃ」
 女(わたし)は天井を仰ぎ見て、目を剥いた。包丁を落とし、わなわな泣いた。
 一雄が台所の戸口に立っていた。
「母ちゃん、どうしたの?」
「何でもないよ。今すぐごはんにするからね」
 
 わたしは女から離れ、天井に浮かんでいた。
 そうだった・・・
 わたしはあのとき、母が、死のうとしたことを知っていたのだ。だが、どんな思いからなのか分からなかった。ただ、母は死にたいのだろうとだけ思った。それが悲しかった。でも、わたしは母が死なないことを知っていた。この自分を残して死んでしまうことがあるはずがないと。

               ○○○

 ゼロの間で、わたしはしばらく放心状態でいた。
 あの日がターニング・ポイントだったのだ。あの日を境にわたしは変わった。まず押入で眠ることをやめた。甘い物はさらに食べ続け、六年生で体重が六十キロにもなった。勉強はクラスでビリだったのが、真ん中くらいにはなった。母親を少しでも安心させたかったのだ。そのぶん、父親には反抗的になった。中学で柔道部に入ったのも、父親を投げ飛ばしてやろうと思ったからだった。母に苦労ばかりかける父が許せなかった。母に手を上げようとする父の腕を掴み、投げかかったが、腰から砕け、投げることができなかった。父は怒り狂い、出て行けと怒鳴りつけた。わたしは友達たちの家をしばらく泊まり歩き、学校へは行かず、繁華街をうろついた。ゲームセンターで不良たちに絡まれ、殴られっぱなしで柔道技も出せなかったうえに、なけなしの金を喝上げされて家に戻った。不良にもなれない意気地なしのガキだった。
 それから三年後、両親は離婚し、わたしは高校を卒業して片田舎の町を去り、東京で一人暮らしを始めた。昼間は機械工場で油まみれになって働き、夜学に通った。

 あれから二十三年だ。
 ついでにその後を話しておけば、二度ほど転職して、今は新宿の小さな会社で営業の仕事に就いている。健康器具を売って歩く商売で、一応は世の中のためになる仕事だと思っているが、一流メーカーとちがい、その効果のほどは売っている自分にも自信がない。パンフレットには、ご不満の点があれば返品たまわりますと謳ってあるが、口のうまい苦情係が対応するので実際の返品はほとんどない。もっともメーカーものとちがって値段も安いから、背骨でも痛めたのなら話は別だが、苦情の数は月に五、六件といったところだ。

 給料は、一部上場会社の半分もないだろう。結婚はしていない。したくないわけではないが相手もいないし、独りなら気楽なものである。第一、結婚などして幸せな家庭を築く自信などない。趣味といえば、パチンコくらいのものか。それと、給料日の後に盛り場に出向く。アイドルのS嬢にちょっとばかり似た子がいるキャパクラがあるからだ。でも、デブのわたしがもてるはずもなく、まあ、一万円程度を使ってくれる月に一度の客でしかない。

 わたしの話は、もう、これくらいでいいだろう。
 いい人生だとか、悪い人生だとか、だからどうしたというのだ。この世に生まれたのだ。産んでくれと頼んだわけではないが、生まれてきたのだ。母は田舎で元気に暮らしている。あの父も元気なようだがもう何年も会っていない。

「まいったな、嫌なこと忘れていたのにな」
「だが、おまえさんは自分であの時代に行ったんじゃ」
「けど」
「何じゃね」
「もっと楽しいところへ行きたい」
「今夜は、もうこれくらいにしておいたほうがいい」
「疲れたよ」
「一言だけ話がある」
「何?」
「両親に感謝することじゃ。産んでくれと頼んだのは、おまえさんなのだからな。生まれてくるのは簡単なことじゃないのだよ」
「産道を通る、その前のことか」
「そのうち、そこへ行く。おまえさんが思えばな」
「思えば思いとなり赴くんだろ」
「そうじゃ」
「何か怖いな」
「人生、艱難辛苦。善きことも悪しきことも、すべてがすべて歓喜なり」
「何だか眠くなってきた」
「ならば、あちらで起きるということじゃよ」
「起きる?」
「後で思い出すことじゃ」
「はあ」
「では、また明日」
               ○○○

 一雄は押入の中で奇妙な夢を見ていた。
 どこか遠く見知らぬ外国の街で、美しい女と過ごしているというものだった。三か月ほど前、やはり押入で眠っていたとき、銀色に輝くジェット戦闘機に乗ってアイドル歌手の南リカと大空に舞い上がったことがあり、そのとき一雄は初めて夢精し、パンツの中に出た白くねばねばした精液を見て病気になったと思い込んだことがあった。始めての性感が、病気と思わせたのだが、たった今の夢は比べものにならないくらいのエクスタシーだった。

 うすぼんやりと今しがたの夢を思い起こしていると、台所で人の気配があった。母親が帰っているのだと思い、押入を出ようとしたが、まだ夢の鮮烈さの虜になったまま体が動こうとしなかった。夢の意味はまったく理解できなかったが、エネルギーの渦に吸い寄せられ、高く押し上げられた、あの感覚が、今も全身に残っていた。

 わたしは、一雄の情動をすべて感じ取り、この日を思い出した。
 ーーわたしは一雄として生まれて、母はあの日、一瞬だったが死のうとしたんだ。
 山田一雄という人間は、つまりこのわたしは、わたしがわたしと思っている以上に、大きな何かの一部であると感じた。それが何の一部であるのかは分からなかった。
 そこまで思ったところで、わたしは、「ぱん!」という音とともにゼロの間に戻っていた。
 M師がいつもの笑みを湛え、朗々と詩を吟じた。

 忘却の川をわたるとき
 ひとすくいの水を飲みなさい
 きれいさっぱり
 あの世とこの世が入れ替わり
 うれしうれしの旅はじまり
 親が子を受け入れて
 おつとめ果たし
 めぐりのめぐりの大歓喜
 
「人間の精神が牢獄なんだ!」
「ほう、哲学するか」
「そんなこと考えてもみたことがなかった」
「原因と結果の法則。因果応報か。めぐりめぐってな。星の数ほどの。考えて考えられるものじゃない」
「こうしてほんの一部でも覗けば、微かでも」
「それがこの旅の目的じゃよ」
「でも、どうしておれが、こんな旅を?」
「おまえさんは分からんだろうが、時期が来たからじゃ」
「時期って?」
「生まれる前に約束したことじゃよ」
「こんなおれが約束って、どんな?」
「この日本を救う使命とだけ言っておこうか」
「まさか、おれにそんなこと」
「おまえさんが気づいておらんだけじゃよ」
「あんた誰なんだ?」
「さあて、誰じゃろう?」
「はぐらかさないでよ」
「はぐらかしてはおらん」
「じゃあ、教えて」
「その時が来たら」
「その時って?」
「間もなくじゃよ」

 わたしは万年床からむっくっと起きあがり、今しがたの夢の中の会話はもう遠いどこか彼方へ消えかかっている。何か大事な話をしたという感触だけが残っていた。いつもどおり会社に出かける支度をのそのそと始め、歯を磨く洗面所の鏡に写った顔は、どこからどう見ても、団子鼻の不細工な山田一雄そのものである。


(ドリーマー導入編 おわり)


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