礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高麗神社の御神体は○○様(坂口安吾)

2017-11-25 04:34:25 | コラムと名言

◎高麗神社の御神体は○○様(坂口安吾)

 坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。
 タイトルにもあらわれているように、高麗神社に赴いた安吾が、最も強く惹かれたのは、「祭の笛」であった。
 本日は、この文章の最後の節を紹介する。そこには、祭の笛の「譜」についての詳細な紹介があり、それに関する安吾の饒舌な解説がある。しかし、あまりに長いので、以下では、その部分を割愛した。
 前回、紹介した部分のあと、「*」の区切りがあって、次のように続く。

     *

 川越にも、ここと同じような獅子舞いが残っているそうだし、若光の上陸地点と伝えられる大磯にも似た神事があるそうだが、それらについては私は知らない。とにかく、この獅子舞いも笛の音も、現代の日本とツナガリの少いものだ。古いコマ人のものであろう。
 もうコマ村の建物にも言葉にも、風習にも古いコマを見ることはできないが、笛の音と獅子舞いのほかに、一ツ残っているのがコマの顔だ。
 中折〈ナカオレ〉のニコニコジイサンはただ一人の祭りの歌を唄うジイサンだが、彼の口もとに耳をよせ、台本と睨み合せて聞いても、何を唄っているのだか一語もハッキリしない。この顔はコマの顔というよりも練馬の顔というべきかも知れない。武蔵野の農村に最も多く見かける顔なのである。
 私たちがピクニックの弁当をぶらさげて飯能で乗り換えたとき、私たちの何倍もある大弁当をドッコイショと持って乗りこんだ多くの男女があるのに驚いた。カゴに一升ビンをつめこんでいる人々も多い。これがみんなコマ駅で降りた。若い女性が多い。さてさて当代の武蔵野少女は風流であると感に堪えて、やがて我々のみ遠くおくれ道に迷いようやくコマ神社に辿りつく仕儀と相成ったが、彼女らも特に風流女学生ではなかったのである。みんなコマ村出身の父兄であり、子弟であった。彼らは実家や親類の家でゴチソウを並べて祭りの日をたのしむらしく、お祭りの境内に一年一度の獅子舞いを見に来ている人は多い数ではなかった。よその村祭りと同じように舞台を造っていたが、夜になると浪花節でもやるのだろう。そして、その時こそは全村老若こぞって参集するのかも知れない。
【中略】
 コマ家の始祖らしい若光は長生きして老翁となり、白い髯がたれていた。そこで彼を祀ったコマ神社は白髯サマとあがめられて、諸方に崇敬せられたという。
 しかし白髯サマの総本家は近江にあるとも云われていた。若光をただちに白髯サマその人と見るのはどうであろうか。コマ家の系図にもそのような記事はないのである。白髯サマとはコマ系のもっと始祖的な、あらゆるコマ系の人々に祖神的な誰かを指しているのだろう。若光のように実在的なものではなく、もっと伝説的なものと考えた方がよろしいようだ。
 私は白髯サマの御本体を見せてもらった。いっぱんに白髯サマとか同系統の帝釈サマ聖天サマなどは陽物崇拝とか歓喜仏のようなものを本尊にしているように云われているが、コマ神社の白髯サマはそうでなかった。
 一尺ぐらいの木ぼりの坐像だが、およそ素人づくりのソマツな細工で、アゴに白髯のゴフンが多少のこっている。しかし、まことに素朴で、感じのよいものだ。非常にソマツなこわれたような木の箱に納めてあるのも、その方がむしろピッタリしていて、はるか昔この村に移住した貴族の悲痛な運命や、トボケたような生活などにふさわしく、お宮すらもオソマツなホコラにした方がその人の運命にふさわしく、また我々の身にしむような感もあった。
 この白髯サマの御神体は一見したところ五六百年以前の作品らしいと見うけられたが、あるいはそれ以上にもさかのぼりうるのか私には分らない。あるいは、カットの写真の獅子面の古い方と同じぐらいまでは、さかのぼりうるのであろう。
 社務所の一室で、私たちは持参のお弁当をひらいた。参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ケ谷文士一行が来ておって太宰治の署名もあったが、呆れたことには、参拝者の大部分が政治家で、特に総理大臣級が甚だ多く参拝している。私は妙な気持になって、
「どういうわけで、こう政治家がたくさん来るんだろう?」
 と呟くと、宮司は笑って、
「当社のオ守りは総理大臣になるオ守りだそうで、いつから誰が言いだしたのか知りませんが、たまたま当社に参拝された方々から都合よく二三の総理大臣が現れて、政界に信心が起ったのかも知れませんな。この春は当時大臣の黒川〔武雄〕さんと泉山三六さんが見えましたよ」
 さては泉山大先生も総理大臣を志しているかと見うけられる。
 私もオ守りを十枚買った。これを友人に配給してみんな総理大臣にするツモリであって、私自身が総理大臣になるコンタンではなかったのである。
 私たちはオミキをいただき、赤飯を御婦人連へのオミヤゲにぶらさげて、とっぷりくれた武蔵野を石神井の檀〔一雄〕邸へ帰る。
 檀君の長子太郎にも総理大臣のオ守りを配給したが、翌朝太郎はカバンをひッかきまわしながら、
「モウ、オ守りをなくしたよ。それでも、大丈夫? 大丈夫だねえ」
 なにが大丈夫なのか知らないが、総理大臣になるコンタンでもなさそうに見えた。

 最初の方に、「中折のニコニコジイサン」とあるが、おそらく、「中折帽〈ナカオレボウ〉をかぶったニコニコジイサン」の意味であろう。
 明日は、話題を変える。

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