◎集団的紛争を神聖な個人戦に転化させた決闘裁判
昨日の続きである。昨日は、『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、二〇〇〇)で、山内進氏が説いている内容を正確に紹介すべきところ、つい、話が脇道に入ってしまった。
本日は、同書から、その記述を、そのまま、引用してみたいと思う。以下は、同書一七四~一七七ページからの引用である。
決闘裁判は、中世ヨーロッパという広い時空間の中で存在した。時期と地域によつて、その内容や形式はしばしば異なつている。したがって、ここまで書き記してきたことがいつでもどこにでもそのまま当てはまる、とは残念ながらとてもいえない。だが、その基本的なあり方はほぼ理解していただけたことと思う。
ここで明らかになったように、決闘裁判は暴力的ではあるが、紛争を解決するための裁判手続きだった。もともと一般的だったのは宣誓だが、偽誓が多いので重要な案件では避けざるをえなかった。そもそも宣誓では紛争が解決しないことが多かったのかもしれない。たとえば、サン・ジェルマンのエモワンの伝えるところによると、シルペリク一世の治世下で、夫に疑いをかけられた妻が、サン・デニスの聖壇にかけて、無実を固く信じていたその親族の者たちと一緒に雪冤〈セツエン〉宣誓を行ったことがあった。ところが、これに納得できなかった夫は、彼らを偽誓者と非難した。双方の怒りは頂点に、戦いが始まった。その結果、神聖で由緒正しい教会は血で汚されてしまった、という。親族同士の集団的な流血騒ぎよりも、一対一の決闘の方がよほど平和的である。
【中略】
決闘は、神判だが、暴力的世界、そういって悪ければ実力主義の世界における独特の紛争解決法だった。暴力に走りがちな当事者またはその関係者を裁判の場で個別的に戦わせることを通じて、彼らを納得させることを目的とした。それがしばしば神判として意識されたのは、やはり時代の意識、感性のなせる業〈ワザ〉であろう。また、神判とすることで、結果への服従を容易にする効果を持ったにちがいない。神の裁きに異を唱えることは不敬だからである。公権力が未成熟で、裁判と判決の執行を単独でまかないきれない段階にあっては、これは必要な道具立てだった。
決闘裁判は、紛争を自力で解決するための神聖で公的な、一対一の戦いであった。矛盾といえば矛盾だが、明快といえば明快である。武力と暴力が跋扈【ばつこ】し、これを抑えきる公権力はいまだに生成途上であった。皇帝の権力も国王の権力も、武力で諸侯や騎士、市民を支配できなかった。紛争は自力で解決されがちであった。自力救済としての集団的実力行使のための私戦をフェーデという。大規模なフェーデが戦争であり、騎士たちはフェーデと戦争に明け暮れていた。
この集団的争いを裁判の中に閉じ込め、神聖で公的な個人戦に転化させ、自力救済を復讐の連鎖から断ちきろうとするのが決闘裁判だった。【以下、略】
日本の法制には、中世ヨーロッパの「決闘裁判」に相当するものは、なかったように思う。であれば、すぐに思いつくのは、「喧嘩両成敗」あるいは「敵討」といった日本独自の法制を、中世ヨーロッパの「決闘裁判」と比較してみるということである。そうした日本独自の法制の意味や本質は、中世ヨーロッパの決闘裁判と比較することによって、見えてくるところがあるのではないか。もちろんすでに、そういった問題について考察されている研究者がおられるはずではあるが。【この話、続く】