礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

青木茂雄「記憶をさかのぼる」その3

2017-11-26 01:03:05 | コラムと名言

◎青木茂雄「記憶をさかのぼる」その3

 本日は、青木茂雄氏の「自伝」の続きを紹介する。「わたしの幼少期(3)」と題する文章で、「群れて遊んだ」という見出しがある。
 
記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(3)

群れて遊んだ
 私の最初の移住地水戸市の「新屋敷」(町名は梅小路)は、旧上級藩士の居住地でありながら、移り住んだ当時にはすでに新住人で蚕食されていたが、ところどころに旧藩士の子孫たちも居住していた。そこはうっそうとした屋敷森で覆われ、中にはたいてい畑地があった。いくつか残されていた屋敷地も次第に消えうせて、その最後の屋敷森も2000年代にはいると、ただの貸しアパートになって消えうせた。
 独文学者で名うての右派論客の西尾幹二も戦争末期には東京池袋から縁故疎開で、この新屋敷の花小路(はなのこうじ)に一時家族で居住していた。また、私の母校である新荘(しんそう)小学校の前身新荘国民学校にも短期間在学していた、という。(西尾幹二『わたしの昭和史 少年編』1)これも何かの奇縁ではある。
 私のいたころの新屋敷は、まだ屋敷森も多く残っており、うっそうとした緑に覆われていた。私の移り住んだ梅小路以外は爆撃に逢わなかった箇所も多く、以前の姿がそのまま残っていた。昭和20年代はまだ、全体に自動車もまばらで、この新屋敷の広い道路には自動車などは滅多に通らず、子供たちが群れて遊ぶ格好の場所となっていた。子供たちはさそいあって群れて遊んだ。やや大きくなるに従って私もさそわれていろいろと遊ぶようになったが、まだ幼すぎて私の記憶にはその内容は残っていない。遊びが「遊び」として意識されるのはもう少し大きくなってからのようである。
 私がやがて通学することになる水戸市立新荘小学校は、私の家から200メートルほど離れた場所にあった。その校門の近くに古い焼け残ったトタン屋根の平屋の建物に、ある駄菓子屋が店を開いていた。老婆がひとり店番をしているその駄菓子屋(私の家族はなぜかそこを「鳥羽僧正とばそうじょう」と呼んでいた)に、私も小遣い銭をもらって駄菓子を買いにも出かけた。たいてい1円か2円、お札か硬貨を持って買いに出た(5円は大金だった)。一円札は二宮尊徳の肖像のある粗末な紙幣だったが、五十銭硬貨はそれに比べるとはるかに立派なものだった…。私が最初に自分で物を「買った」のは多分その店でだったと思う。
 その駄菓子屋(「鳥羽僧正」)の中は薄暗く、光線の届かない隅の方の商品は一様に埃を被っていた。、商品のケースには、駄菓子(水あめや「ソース煎餅」が定番だった)の外にメンコ(当時水戸では「パース」と呼んでいた)などの遊戯具が無造作にあふれ、雑然としていた。この駄菓子屋には私が小学校に通学するようになっても、しばしば立ち寄った。べえごま、塗り絵、あぶり出し、紙製のグライダー、印影紙、それに高価なものとして「スタート・カメラ」…、何から何まであった。いつのころか、その店もなくなった。    (つづく)

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