今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

新発田城(新潟県新発田市大手町)

2021年09月02日 | 
訪問日 令和3年6月5日

新発田城
新発田市は、学生時代に寮生活で同室だった朋友の出身地でもあり往時を思い出す
別名、菖蒲城(あやめじょう)
初代新発田藩主溝口秀勝が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直のときに完成した

旧二の丸隅櫓(重要文化財)
駐車場から歩いてくると最初に目に入ってくるのが「旧二の丸隅櫓」



石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる技法
白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている



新発田城は山城と違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城



堀部安兵衛武庸(たけつね)像
高田馬場の決闘で名を馳せた、赤穂浪士四十七士の一人が何故と思った
調べてみると、寛文10年(1670年)越後国新発田藩 溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生している
武庸が13歳の時、父は溝口家を追われて浪人となる
浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという



19歳になった武庸は、江戸へ出て、堀内正春の道場に入門
天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれた
その後、あの有名な高田馬場の決闘後、赤穂藩へ仕官することとなった



本丸表門(重要文化財)



享保17年(1732年)に再建された現存の櫓門
城内に入る



橋からの眺め



初代藩主・溝口秀勝の銅像
尾張国の出身で慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命により加賀国大聖寺から新発田に入封した
入封当時の藩領は未開墾地だったが、治水と新田開発に努めた結果、美田広がる蒲原平野へと生まれ変わった



上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に築城を開始
入封から56年後の承應3年(1654年)3代宣直の時に完成した






表門の内部に入る






2階に格子窓を設けている



門の真上の床を外して石落しとする構造になっている






櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、白と黒が美しい海鼠壁(なまこかべ)で仕上げられている






旧二の丸隅櫓(重要文化財)
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓
二の丸北部にあったのを本丸鉄砲櫓の跡に移築されたため旧二の丸隅櫓という名称になった



1階



階段



2階



旧本丸跡






辰巳櫓
かつて、堀部安兵衛の父(中山弥次右衛門)が辰巳櫓の管理責任者
櫓の失火責任を負って浪人となった






礎石が展示されていた



城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている



自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていない



辰巳櫓






この日、新発田市では東京五輪の聖火ランナーの準備に追われていた
数台の警察車両のために主要な駐車場が閉鎖されている
新発田城近くの駐車場が使用できなくなり困っていたら地元の女性に空いている駐車場を案内していただいた
とても親切な女性のおかげでいったん諦めかけていた城を目指すことができた(感謝)



撮影 令和3年6月5日

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 福地山 種月寺(新潟県新潟市... | トップ | 如意山 乙宝寺(新潟県胎内市... »

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事