今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

凌霄山 常高寺(福井県小浜市小浜浅間)

2022年09月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

凌霄山 常高寺
臨済宗妙心寺派の寺院
浅井三姉妹の次女「初」、京極高次の正室(常高院)の祈願により建立された

山門
戦国時代、絶世の美女といわれたお市の方と近江の小谷城主浅井長政の間には三人の娘がいた
「戦国悲劇の三姉妹」として有名な、淀殿、お初の方、お江の方だ



常高寺は次女 「気遣いの人」お初の方(京極高次の正室、後の常高院)の寺
三姉妹のなかでは地味な存在ではあるが、以前訪れた時に資料を読み感動し再訪した



本堂
旧本堂は大正年間に焼失
現本堂は平成13年(2001年)に落慶した



歴史ある建築物が好きなので、最初観た時にはがっかりしたことを思い出した









屋内に入る



常高院
系図によると京極高次の母と三姉妹の父の浅井長政は姉と弟で、いとこの関係



京極高次
京極高次の妹 京極竜子が秀吉の側室になったことで高次も取り立てられた
お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、没落した名門佐々木京極家の嫡男の京極高次のもとに嫁いだ
徳川家と京極家の絆を強固にするという意味もあったようだ



三女「お江」からの手紙
お初には子供がなく、お江の四女を養女(京極忠高の正室)とした



遺言状「かきおきのこと」
常高院が亡くなる1ヶ月程前、寛永10年7月21日の日付のある「かきおきのこと」という文章が残っている
内容は9ケ条にわたっている
はじめの3ケ条は「常高寺」のことについて
万一国替えがあっても寺は続くように、常高寺住職に今後とも目をかけてやってほしいと頼んでいる

次の3ケ条は、自分の身の回りの世話をしてくれた侍女方や侍、小姓たちの身の振り方について述べている
具体的に名前をあげ、小少将、たき、しん太夫、しも、ちゃほは年もいっているので
尼にして常高寺の下に町家のごとく家を建てて住まわしてほしいとのこと……
若いそせん、ようりんという侍女も出家を望んでいるがよくよく気持ちを確かめてからにしてほしい



7条目は、「古奈姫(こなひめ)」という常高院の幼女のことにふれている
関ヶ原の戦いまで桑名城主であった氏家行弘と、その正室で松雲院(京極高次の妹)の子供
氏家行弘は大坂の陣で最後まで大阪城にとどまり淀君とともに自害、その娘を常高院が引き取った
京都の公家に嫁がせたが、自分が亡くなったあとは他にたよることがないだろうからたのむと述べている

8条目は、「浅井作庵」という人物について
三姉妹の父長政には男の子が二人または三人いたようだ。長男の万福丸は殺されたが、ほかに喜八郎という子がいた
この喜八郎は後に、大阪方の増田長盛に仕え淀君のもとで戦った
行き場を失った喜八郎を常高院がかくまい、出家の形をとって浅井作庵として客分待遇とした
今後とも過分の知行を与えて目をかけてやってほしいと低姿勢で頼み込んでいる

母お市の方の三姉妹への遺言は「浅井の血であることを忘れるではない」ということで
常高院としては、浅井の姓を存続したかったのだろう

最後の条は常高院の身の回りの警護にあたっていた侍の名をあげ、今後とも目をかけてやってほしいとしている



常高院の次女



京極家縁の城






NHK 2011年 大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』
この頃はまだ浅井三姉妹に関心がなかったので視聴していない(残念)



主人公の次姉・初役を演じたのが「水川あさみ」



本堂内






本尊:釈迦如来






吹き抜け、トップライトと32本の上り梁が特徴






彫刻



常高院肖像画よりの復元小袖「紫地唐草花文銀欄小袖」









常高院位牌



鐘楼



常高院墓所(小浜市指定史跡)
晩年、江戸に滞在していた常高院は、夫高次の菩提を弔い、さらには父母である浅井長政とお市の方らの供養の為、
寛永7年(1630年)嫡男である忠高が領する小浜の地に一ヵ寺建立を発願し、幸いにも槐堂和尚との知遇を得て開山として迎えた



その3年後の寛永10年(1633年)8月27日、病のため京極家の江戸屋敷にて波乱に富む人生を閉じた



遺骸ははるばると木曽路を越えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われた
城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したといわれている



常高院の墓を囲むように侍女たちの墓石が並んでいる



4m余りの宝篋印塔



大坂冬の陣では徳川家康が大阪城を力ずくで攻め落とすことは困難とみて和議の交渉に持ち込んだ
大坂方の使者として選ばれたのが常高院で徳川方からは阿茶の局だった
和議は成立したが結果は歴史が物語っている



豊臣秀頼には2人の子供がいた。国松は徳川に捕らえられ殺されてしまう
女の子は常高院が保護し、徳川方にかけあい、命乞いして、尼として生きる道をとらせることにした
後に、鎌倉の縁切り寺として有名な東慶寺の第20世住職「天秀尼」となった
さだまさしの「縁切寺」が好きで「東慶寺」を訪れたことがあるが、このような歴史的背景があるとは知らなかった



少し距離がある墓所から戻る



常高寺の境内の一角で花菖蒲が約40種2,000株咲く
若狭地方では唯一の花菖蒲の名所で多くの人が鑑賞に訪れるという



撮影日 令和4年6月5日

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