大樹寺(だいじゅじ)
松平親忠は応仁元年(1467)井田野の合戦で勝利したが多くの戦死者を出した
文明7年(1475年)、松平氏宗家当主の松平親忠が戦死者供養のため、勢誉愚底を開山として創建した
山門(愛知県指定文化財)
寛永18年(1641)三代将軍徳川家光が建立した
後奈良天皇の勅額「大樹寺」
本堂からは山門、総門を通して一直線上に岡崎城を望む事が出来る
多宝塔(重要文化財)
大樹寺には創建当時の建物はなく、最古の建物がこの多宝塔
天文4年(1535)松平清康が建立した。室町末期の様式を示している
この多宝塔の存在は知っていて楽しみにしていたが、撮影できる場所が限定され、しかも日差しが強く難儀した
本堂
永禄3年(1560年) 桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まった
木造阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)
平安末期、寄木造、彫目、像高140cm、安政の火災後、京都泉湧寺から迎えられた
大阪の陣で豊臣を滅ぼして徳川幕府を確立したが次の年発病し、病状が悪化する中、家康の死後の処置について遺言した
「遺体は駿河久能山に葬る事、葬礼は江戸増上寺で行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること
本堂奥に歴代将軍の位牌が安置されている
春日局の念持佛
松平八代墓
元和元年(1615)徳川家康は先祖松平八代廟所を寺内に建立
元和三年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされている
昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立した
鐘楼(愛知県指定文化財)
寛永18年(1641)三大将軍徳川家光が建立した
鐘楼周辺に車が駐められており、全体を撮すことができなかった
大樹寺熊野権現社
帰り際にもう一度、多宝塔のある場所に行ってみる
名残惜しいが多宝塔を後にして山門に向かう
台風19号避難場所として藤川宿を選び、道の駅で入手したパンフにより徳川家康と関わりの深い法蔵寺・六所神社・岡崎城・伊賀八幡宮そして大樹寺を丸一日かけて廻った
日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つとされる滝山東照宮も近くにあったが、次の旅の宿題として残しておくことにする
撮影 平成26年10月14日
松平親忠は応仁元年(1467)井田野の合戦で勝利したが多くの戦死者を出した
文明7年(1475年)、松平氏宗家当主の松平親忠が戦死者供養のため、勢誉愚底を開山として創建した
山門(愛知県指定文化財)
寛永18年(1641)三代将軍徳川家光が建立した
後奈良天皇の勅額「大樹寺」
本堂からは山門、総門を通して一直線上に岡崎城を望む事が出来る
多宝塔(重要文化財)
大樹寺には創建当時の建物はなく、最古の建物がこの多宝塔
天文4年(1535)松平清康が建立した。室町末期の様式を示している
この多宝塔の存在は知っていて楽しみにしていたが、撮影できる場所が限定され、しかも日差しが強く難儀した
本堂
永禄3年(1560年) 桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まった
木造阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)
平安末期、寄木造、彫目、像高140cm、安政の火災後、京都泉湧寺から迎えられた
大阪の陣で豊臣を滅ぼして徳川幕府を確立したが次の年発病し、病状が悪化する中、家康の死後の処置について遺言した
「遺体は駿河久能山に葬る事、葬礼は江戸増上寺で行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること
本堂奥に歴代将軍の位牌が安置されている
春日局の念持佛
松平八代墓
元和元年(1615)徳川家康は先祖松平八代廟所を寺内に建立
元和三年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされている
昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立した
鐘楼(愛知県指定文化財)
寛永18年(1641)三大将軍徳川家光が建立した
鐘楼周辺に車が駐められており、全体を撮すことができなかった
大樹寺熊野権現社
帰り際にもう一度、多宝塔のある場所に行ってみる
名残惜しいが多宝塔を後にして山門に向かう
台風19号避難場所として藤川宿を選び、道の駅で入手したパンフにより徳川家康と関わりの深い法蔵寺・六所神社・岡崎城・伊賀八幡宮そして大樹寺を丸一日かけて廻った
日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つとされる滝山東照宮も近くにあったが、次の旅の宿題として残しておくことにする
撮影 平成26年10月14日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます