神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

牧野富太郎

2013年10月30日 10時33分38秒 | 読書
山本一力氏の『あかね空』より先に読みかけていた『牧野富太郎自叙伝』を昨夜読了。

一力氏も富太郎博士も、ともに高知県出身だが、2人とも根っから明るいことに感心する。これはやはり土佐の風土によるものだろうか?

実は、私も、自分自身では暗い人間と思っているのだが、意外なことに、他人にはよく明るい人といわれる。

土佐は台風銀座で、ひとたび嵐が襲来すると何もかも根こそぎ壊されてしまう風土である。それが何かわれわれを「明日は明日の風か吹く」というような諦観を生ましめる土壌になっているのかもしれないと思ったりした。

この『牧野富太郎』も『あかね空』も、今日が丁度返却日なので、昼食のあと図書館に行って返してくる予定だ。返却する前に『牧野富太郎』の中から博士の言葉を一部抜粋しておきたいと思う。

 我等人間はまず我が生命を全うするのが社会に生存する第一義で、即ち生命あってこそ人間に生れ来し意義を全うし得るのである。生命なければ全く意義がなく、つまり石ころと何の択ぶところがない。
 其生命を繋いで、天命を終わるまで続かすにはまず第一に食物が必要だが、古来からそれを人間が必然的に要求する為めに植物から種々様々な食物が用意せられている。チョット街を歩いても分り又山野を歩いても分るように、街には米屋、雑穀屋、八百屋、果物屋、漬物屋、乾物屋などが直ぐ見付かる。山野に出れば山と畑が続き続いていろいろな食用植物が実に見渡す限り作られて地面を埋めている。その耕作地外では尚食用となる野草があり、菌類があり木の実もあれば草の実もある。眼を転ずれば海には海草があり淡水には水草があって皆我が生命を繋ぐ食物を供給している。