癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


人を、そして自分を癒し真なる喜びをもたらす
   
        人生の生き方を学ぶ 癒しの森湯布院

スワミ:法の種

2011-08-28 | 聖者

法の種とは、法力を得る為に、その種となるエネルギーを入れ、それが入りやすくする通路を作る事です。)

種についての私の助言は以下の通りです。師(マスター)は、法の種を与えてくれます。師は地上に種を投げます。雨は神のなす業、そして日の出は貴方達のものです。この事を良く考えて見て下さい。

種は師のものです。水は神のものです。日の出は貴方のもの。それで木は育ちます。師は、いつ貴方が自分の木を手に入れるか決して語ろうとしません。この過程を行じている間に、あなたは、花を咲かせる事もできるし、果実をならせる事も出来ます。全ては神のご加護にかかっているのです。

しかし、一つだけ事実があります。それは全ての人が、それを成せるということです。皆、手にする事が出来るということです。ヒーリングを行う為の力を得る事が、できます。最も高度なヒーリングをする事ができます。その力を神に与えられ、強力なヒーラーになることが出来るのです。

私が、それをして上げましょう。私の師はババです。私のアシュラム(修行場)には、ダイヤモンドの王冠を被った6フィートもある大理石のババの像があります。彼はビッグボスです。本当ですよ。彼は師の中の師であり、超自然の魂の存在なのです。



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スワミ:空のマントラ

2011-08-28 | 聖者

オーム リンガスタカン ニダウン プンニャン(Om Lingastakam Needum Punyam)
ヤハ パテ シヴァ サンニダーウ     (Yaha Patay Shiva Sanni- dhom)
シヴァ ローカ マヴァブ ノティ       (Shiva Loka Mavap Noti)
シヴェーナ サハ モガテェイ        (Shivayna Saha Mogatay)


マントラの充電一日の内何時間でもいいから、マントラを最低108回、最低でも41日以上唱えなさい。このマントラは、一人静かに自然の中に座ってするのが、ベストです。このマントラには、やりすぎるという事はありません。天使の魂が目の前に現れるまで、いくらかかろうと、何ヶ月でも何年でもやる事が出来ます。

恩恵このマントラは、天使との交流に用いられるのであり、離れたところにメッセージや物を送るのに用いられます。自然に完璧にマントラを唱えられるようになると、エネルギーは貴方の魂に入って来ます。テレパシーの教えを通じて、多くのことを聞くことが出来ます。それは電話から声が出るように現れます。


エネルギーが充電された証明このマントラは、直接シバに命令することになります。シバの祈りです。ヒーリングと天使と交流するための、パワフルなエネルギーを与えてくれます。自然の中に静かに座ってこのマントラで瞑想すれば、エネルギーは貴方の前にやって来ます。貴方のエネルギーの輪を魂に吸い取る事が出来、エネルギーの渦が体内に入った事を感じる事が出来ます。


エネルギーの輪を得たしるしです。一度魂にエネルギーの輪を得ると、あなたの魂は空のエネルギーに浄化された事になります。その後、貴方の魂は、多くの魂、空にいるどんな聖なる天使も引き寄せる事になります。それには6ヶ月から2年かかります。天子たちは、あなたが物質化したり、物を移動させるのを助けてくれるに違いありません。


注意点このマントラは他人を癒すことに使わない方が良いです。自分の楽しみの為に使うのがベストです。もし他人を癒すのに直接使ったら、あなたが持っている全ての空のエネルギーが出てしまい、もう一度最初から全てを再充電しなければならなくなる可能性があります。


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地の2のマントラによる癒し方・二つのマントラについて・注意点・恩恵

2011-08-28 | 聖者
地の二のマントラによる癒し方
第一の地のマントラを使っても患者の気分がすぐれない場合は第二のマントラを使いなさい、ヒーリングの第二の矢として使えるのです。親指を上向きに(第一のマントラの時と逆向き)第三の眼(グルスタン)のところに当て108回第二のマントラを唱えなさい。(声を出さずに唱える)


放電
(ネガティヴなエネルギーの放出=ディスチャージ)を忘れてはなりません。放電は親指を地に付け108回、あるいは20分間マントラを唱えます。


二つのマントラについて
最低でも、108回マントラを唱えるか、15~20分放電をいつでもしなさい。もし、30分ヒーリングしたなら30分放電します。


注意点 (二のマントラ)

同じ家で同じ時に、複数の人がヒーリングを行う場合は、それぞれのヒーラーが、自分の手首に糸を結ぶ必要があります。三回巻くこと。ヒーリングのセッションの後、その糸を外して、人が触る事のない茂みに捨てるか、火で燃やす事。そうすれば、地のエネルギーからくるどんな磁力の影響に対しても自分を守る事ができます。


・恩恵
第一のマントラと同じ・・・・・ストレスや憂鬱から開放され、あらゆる精神的な病気や精神的問題に有効です。ネガティヴなエネルギーに対抗できます。このマントラは、ネガティヴな魂を持つどんな人も癒す高度な磁力を持っています。ネガティヴなエネルギーを除去することが出来ます

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シルディ・サイババ:熱い議論

2011-08-28 | 聖者

私がシルディに到着した初日、私とバラサヘブ・バテとの間でグルの必要性について議論が交わされた。私は主張した。「なぜ我々は自由を失ってまで、他人に服従しなくてはならないのですか?私たちは義務を果たさなくてはならないのに、なぜグルは必要なのでしょうか?人は全力を尽くして己を救わなくてはならない。

怠惰に眠ってばかりいる者に対して、グルが何をできるというのですか?」私は自由意志で弁論し、かたやバテ氏は反対側すなわち運命の側に立って言った。「たとえ偉大な人物が消えることになっても、起こるべきことは、起こらなくてはならないのです。人は一方の道に行くつもりでいるが、神は別の道を定めている。

自らの賢さは無視することです。プライドや、エゴは役に立たない」賛否両論のこの議論は一時間ばかり続いたが、いつものごとく結論には達しなかった。私たちは疲弊して、遂に議論を辞めねばならなかった。この議論の結果、私は心の平安を失ない、強い肉体の意識とエゴイズムがない限り議論が起こることはなく、言い換えれば議論を引き起こしているのはエゴイズムなのだと分かった。

それから私たちが他の人たちとマスジッドへ行くと、ババはカカサヘブ・ディクシットに次のようなことを尋ねた。
「ワダで何が起きていたのかね?何についての議論だったのか?」そしてババは私を見てさらに付け加えた。「この”ヘマドパント”は何と言ったのかね?」

これを聞いて私は大層驚いた。マスジッドは、私が滞在し議論をしていたサテ・ワダからはかなり離れていたのだ。どうやってババは私たちの議論のことを知りえたのだろうか?彼が全知で、私たち全ての内なる支配者でない限りありえないではないか?

私は、なぜサイババは私のことを”ヘマドパント”という名前で呼んだのだろうと考え始めた。この名前は、”ヘマドリパント”を崩した呼び方だ。ヘマドリパントは、ヤダヴ王朝のデヴギリの王、マハデヴやラムデヴ王期の有名な大臣であった。彼は非常に博識で、人柄が良く、”Chaturvarga Chintamani”(霊的な事柄を扱った書物)や”Rajprashasti”などの著者であった。

彼は新しい経理の方法を発明して使用を始めた人で、ムーディ文字(マラティ簡略表記法)の考案者でもあった。だが私は彼とは正反対に無学で、平凡な知識しか持ち合わせていなかった。だから私はなぜその称号が私に与えられたのか理解できなかったのだが、これについて真剣に考えてみると、称号は私のエゴを打ち砕く投げ矢であり、だからこそ私は素直で控えめでなくてはならないと思った。これはまた議論における私の賢明さに与えられた賛辞でもあった。

振り返ってみると、ババの言葉(ダボルカール氏を”ヘマドパント”の名で呼んだ)は意義深く予言的であった。というのも彼はサイ・サンスタンの管理を首尾よく行い、経理処理を適正に行い、”サイ・サッチャリタ”という、ディヤーナ、バクティ、平静、自己放棄、自己認識といった非常に重要で霊的な課題を扱った素晴らしい書物の著者となったのだから。



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シルディ・サイババ:灯台としてのババの物語

2011-08-28 | 聖者

灯台は海の様々な場所に建設され、船乗りが岩や危険を避け、安全に航海ができるようにしている。サイババの物語も俗世という海の中で、同じような目的を持っている。その甘美さは甘露を上回り、私たちの世俗の道を平坦にし、横断しやすいようにしてくれる。聖者の物語は恵みである。

物語が耳から私たちの心に入るとき、肉体意識やエゴイズムや二元性の感覚は消えてしまう。物語が心に蓄積されてくると、疑念は晴れ、肉体の持つうぬぼれは抜け落ち、智慧が豊富に蓄積されるのである。ババの名声について純粋に記述したり、愛をもってそれを聞くと、帰依者の罪は打ち砕かれる。従ってこれが救いを得るための簡単なサーダナなのである。クリタ期のサーダナはサマ・ダマ(精神と肉体の平静)であった。

トレタ期では放棄であり、ドワパール期には礼拝であった。カリ期(現在)には、主の御名や栄光を歌うことである。この最後のサーダナは4つのヴァルナス(ブラーミン等)全ての人々に開かれている。その他のサーダナ、すなわちヨーガ・ティヤガ(放棄)、ディヤーナ(瞑想)、ディヤンダラナ(集中)は、実践がとても難しいのだが、主(サイババ)の物語や栄光を歌ったり聞いたりするのはとても簡単である。

私たちはただそこに注意を向ければよいのである。物語を聞いたり歌ったりすることで、感覚や物質への執着が取り除かれ、帰依者たちは感情に動かされなくなり、究極の自己認識へと導かれるのである。この結末を見据えて、サイババは私に”サッチャリタ”という彼の物語を書かせたのである。

帰依者たちは今ではたやすくサイババの物語を読んだり聞いたりし、一方で彼の姿に瞑想し、グルや神(サイババ)への信仰を得、感情に動かされなくなり、自己認識に至る。本書”サッチャリタ”のを準備し執筆している間、私を単なる道具として使い、全てを完成させたのはババの恩寵なのである。


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サイババの人物像

2011-08-28 | 聖者
スリ・サイババのお陰で、シルディは重要な土地へと成長した。ここでは、サイババとはどのような人物だったのかを見てみよう。彼は、渡るのが非常に難しいこのサンサール(この世)を征服した。平和と心の平静が彼の装飾品であり、彼は智慧の宝庫であった。彼は(カルナのように)最も寛大なヴァイシュナヴ(ヴィシュヌ派)の帰依者たちの家であり、全ての元素の真髄であった。

彼は腐敗しやすい物に愛着を持たず、常に自己認識に集中し、それが彼の唯一の関心事であった。彼はこの世やその向こうにある世界の物事には喜びを感じなかった。彼のアンタラング(心)は鏡のように透き通り、彼の言葉は常に甘露のように降り注いだ。富める人も貧しい人も彼にとっては同じだった。彼は名誉、不名誉を知りもしなければ気にもかけなかった。彼は万物の主であった。

彼は自由に話して全ての人々と交わり、ノーチガールズのダンスを見たり、ガザールの歌を聴いたりもした。だが彼はサマディ(心の平静)から1インチもそれることはなかった。彼の口は常にアラーの名を唱えていた。世界が起きている間彼は眠り、世界が眠っている間彼は警戒を怠らなかった。彼の内なる自己は深い海のごとく穏やかで、彼のアシュラムが決められることもなければ、彼の行動も全く限定されなかった。

彼は一つ処に住んでいたにもかかわらず、世界中のあらゆる出来事について知っていた。彼のダルバール(サイババの居る平安と祈りの場所と思われる)は開かれていた。彼は毎日数百もの話をしたが、彼は自分の静寂の誓いから1インチもそれることがなかった。彼はいつもマスジッドの壁によりかかり、朝、昼、晩にはレンディ(ナラ)やチャヴァディに向かって歩いたが、常に彼は自己の中に留まっていた。

シッダであったのに、彼はサダカのように振舞った。彼は柔和で控えめでエゴがなく、みんなを喜ばせた。サイババはこのようであり、シルディの地はサイババの足に踏まれたことで途方もない重要性を持つことになった。ドニャネシュワールがアランディを高め、エクナスがパイサンを高めたように、サイババはシルディを引き上げたのである。

シルディの草の葉や石までもが、サイババの聖なる御足に口付けをし、彼の塵を頭に戴いたことで祝福を受けた。シルディは私たち帰依者のためにあり、もう一つのパンダルプールであり、ジャガネス、ドゥワルカ、ベナラス(カシ)、ラーメシュワール、バドリケダール、ナシク、トリヤンバケシュワール、ウルジャイン、マハ・カレシュワール、マハバレシュワール・ゴカーンであった。

シルディのサイババに会うということは、ヴェーダやタントラを学ぶに等しかった。それにより私たちのサンサール(俗世の意識)は静まり、自己認識に至ることができる。スリ・サイのダルシャンを受けるということは、私たちにとってヨガ・サーダナであり、彼と話すことで私たちの罪は取り除かれた。彼の御足を洗うということは、私たちがトリヴェニ・プラヤグで沐浴するに等しく、彼の御足を洗った聖なる水を飲むことで私たちの罪は滅ぼされた。

私たちにとって、彼の命令はヴェーダであり、彼のウディ(聖なる灰)やプラサドを受け入れる(口にする)ことは全てを浄化することであった。彼は私たちに慰めを与えるスリ・クリシュナ、スリ・ラーマであり、彼は私たちのパラ・ブラフマン(絶対の真実)であった。彼はドワンドワス(両極)を超えた存在であり、落胆したり得意になったりすることはなかった。彼は常に“存在、知識、至福”である自己の中に集中していた。

シルディは彼のセンターであったが、彼の行動の場はそれを越えて、パンジャブやカルカッタ、北インド、グジャラート、ダッカ(現在のバングラデシュ)やコンカンにまで広がっていた。従ってサイババの名声はあまねく広がり、あらゆる場所から人々はやってきて彼のダルシャンを受けて祝福されたのだ。ただダルシャンを受けるだけで、純粋であろうとなかろうとその人の心は、すぐに静かになった。彼らはここで、帰依者がパンダルプ-ルでヴィッタル・ラクーマイにまみえたのと同様の喜びを得たのである。これは誇張ではない。この点について、帰依者たちの声を聴いてみよう。


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シルディ・サイババ:ヴィッタル自身の出現

2011-08-28 | 聖者

サイババは神の名を口にしたり歌ったりするのを非常に好んだ。彼は常に「アッラー・マリク(アラーは主なり)」と口にしていた。彼の前で帰依者らに、週の7日、昼夜にわたり、続けて神の名を歌わせたりすることもあった。これは“ナームサプタ”と呼ばれている。一度彼はダース・ガヌ・マハラジにナームサプタを求めたことがある。彼は、もし7日目の終わりにヴィッタルが現れると約束するのであれば、やりましょうと答えた。

そこでババは胸に手を当てて、必ずヴィッタルは現れると請け合い、そのために帰依者は“熱心で信心深く”なくてはならないと言った。ダクルナスのダンカプリ(タコール)、ヴィッタルのパンダリ、ランコッド(クリシュナ)のドワルカがここ(シルディ)だった。人はドワルカという遠方まで出かけていく必要はない。ヴィッタルはどこか他の場所からここまでやってくるのだろうか?彼はここにいるのである!帰依者が愛と信仰ではちきれそうになっている時にのみ、ヴィッタルは彼自身をここ(シルディ)に顕現させるのである*。

サプタが完了すると、ヴィッタルは次のような方法で自身を顕現させた。カカサヘブ・ディクシットはいつものように沐浴の後、瞑想に座っていた。彼はヴィッタルをヴィジョンの中で見た。彼が正午にババのダルシャンに出かけた時、ババは彼にぶっきらぼうに尋ねた。「ヴィッタル・パティルは来たかね?君は彼を見たかい?彼はとても怠け者だから、しっかりと捕まえておきなさい。

君が少しでも不注意だと、彼は逃げてしまうからね」これは朝の出来事で、正午には再びヴィッタルが現れた。行商人が25枚から30枚のヴィトバの写真を売りにやって来た。この写真はカカサヘブのヴィジョンに現れた姿とぴったり一致していた。これを見てババの言葉を思い出したカカサヘブ・ディクシットはとても驚き、そして喜んだ。彼はヴィトバの写真を一枚買い、彼の礼拝の間に置いた。

*タナのマムラトダールを退官したB.V.Deo氏が彼自身の研究によって、シルディはドワルカの南部最中央にあるパンダルプールの区域にあり、すなわちシルディがドワルカそのものであると証明した。(“Sai Leela”, Vol.14, Nos.1-2-3参照) 私はドワルカの別の定義も見つけた。それはK.ナラヤン・アイヤールの”Permanent History of Bharatvarsha”Vol.2, Part 1, 90項にあるスカンダ・プランからの引用である。

そこにはこう述べられている。その場所は、4つの階級(ブラーミン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)の全ての人々に門戸が開かれており、4つのプルシャ、すなわちダルマ、アルタ、カーマ、モクシャを達成するためにある。そこは賢明な哲学者らによってドワルカと呼ばれている。シルディにあるババのマスジッドは4つの階級の人々に開かれているだけでなく、バゴジ・シンドのように不可蝕賎民や、らい病患者等にまで開かれていた。従ってそこはドワルカと称されるには誠にふさわしいのである。


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シルディ・サイババ:本書(サッチャリタ)執筆の目的

2011-08-28 | 聖者

第一章において、私は小麦を粉砕し村はずれに小麦粉を撒くことで、コレラの伝染を防いだというサイババの奇跡について記した。私はサイババのその他の奇跡をも聞いて大変喜び、その喜びが高じてこの詩的な書物を記すに至ったのである。私はまたサイババの数々の奇跡の記述は、彼の帰依者にとっても興味深く、啓蒙にもなり、彼らの罪を取り除くことになるだろうと考え、サイババの神性な生涯と教えを執筆することを始めたのである。聖者の生涯は論理的でもなく、弁証的でもない。ただそれは私たちに真実と偉大な道程を示してくれる。

本書を執筆するには著者は不適格で厚かましいこと
ヘマドパントは本書を執筆するのに自分は適当ではないと考えていた。彼曰く、「私は親しい友人の生涯の一つも知らなければ、自分自身の心も分からないのに、どうして聖者の生涯や化身の本質を叙述するなどという、ヴェーダですら為しえなかったことができようか?それができるのは他の聖者を知るより前に、自らが聖者であった者に違いない。

さもなくばどうして私が彼らの栄光を記すことができよう?聖者の生涯を記すのは最も難しく、7つの海の深さを測ったり、布飾りで空を囲い込むようなものだ。これは最も冒険的な作業であり、私は笑い者にされるかもしれない。だからこそ私はサイババの恩寵を請い求めるのである」

第一級の詩人、マハラシュトラの聖者スリ・ドニャネシュワール・マハラジは、主は聖者の生涯を叙述する者を愛し、また聖者たちは帰依者らが熱望するその作業を割り当てる独特の手法を持っていると述べている。聖者が霊感によって著書を生じさせるのであり、帰依者らはそれが完成する上で間接的な要因または道具となるのである。

例えば、釈迦歴1700年1に、詩人マヒパティは聖者らの生涯を記したいと熱望した。聖者たちが彼に直感を与え、著書は完成した。また釈迦歴1800年2には、ダース・ガヌの奉仕が受け入れられた。前者は4つの著書を記した。“Bhakta Vifay”, “Sant Vijay”,” Bhakta Leelamrut”, “Sant Leelamrut”である。一方後者は2つの著書を記した。“Bhakta Leelamrut”と”Sant Kathamrut”である。

そこには現代の聖者の生活が描かれていた。”Bhakta Leelamrut”の31,32,33章と”Sant Kathamrut”の57章においては、サイババの生涯と教えがとてもうまく描かれている。これらは個別に”Sai Leela”誌のNo.11とNo.12, Vol.17として出版された。読者にはこれらの章を読むことをお勧めする。またサイババの素晴らしいリーラについては、バンドラのサヴィトリバイ・ラグナス・テンダルカール夫人が、”Sri Sainath Bhajan Mala”という小冊子に叙述している。

ダース・ガヌ・マハラジもまたサイババについて様々な美しい詩を書いた。アミダス・バヴァニ・メタという帰依者もまたグジャラーティでサイババの物語をいくつか出版しており、シルディのDakshina Bhiksha Sansthaによって出版された雑誌”Sainath Prabha”に数号に亘って掲載されている。そこで出版の目的に疑問符が打たれる。これだけ多くのサイババに関する書物が現存するにもかかわらず、なぜこの(サッチャリタ)が執筆されなくてはならないのか。その必要性はどこにあるのか?

答えは簡単明瞭である。サイババの生涯は果てしない大海のごとく広く深く、皆が深く潜って貴重な宝石(知識とバクティ)を得て、熱望する人々にそれらを広めることができる。サイババの物語や比喩、教えは誠に素晴らしい。それらはこの俗世の生活の悲しみや、重くのしかかる苦悩に苦しむ人々に平和と幸福をもたらすものであり、俗世と霊的な領域の両方に知識と智慧を授けるものである。

もしもヴェーダの知識と同様に興味深く啓蒙的なサイババのこうした教えが広められ、その上に瞑想が行われるのであれば、帰依者たちは彼らの望む物を得ることができるだろう。すなわちブラフマン、8重のヨガの熟練、瞑想による至福などの融合である。だからこそ私はこうした物語をまとめるべきであり、そうすれば私の最高のウパサナ(奉仕)になるだろうと考えたのだ。これをまとめた書物は、サイババのダルシャンによって祝福されていない無垢な魂にとって、この上ない喜びとなるだろう。

そこで私はサイババの教えや表現 - 彼の無限の自己認識の成果、の収集に着手したのである。この件で私に直感を与えたのはサイババであり、確かに私は自分のエゴを彼の足元に委ねたことで、自分の道がはっきりと見え、彼こそが現世でも来世でも私を幸福にしてくれる存在だと思ったのである。

私は自分でサイババに本書を記す許可を得ることができなかったので、ババに最も近い帰依者であるマドハヴラオ・デシュパンド氏、別名シャマに、私に代わって彼に話してくれるよう頼んだ。彼は私の主張をサイババに嘆願した。「このアナサヘブはあなたの伝記を書きたいと願っています。

ご自分は貧しいファーキルだとか、伝記を書く必要はないなどと言わないで下さい。もしもあなたが彼を助けることに同意して戴けるなら、彼は著書を執筆し、あなたの恵みによってその書物が完成するでしょう。あなたの同意や恩寵なしには、何事もうまくいきません」サイババがこの願いを聞いたとき、彼は心を動かされ、ウディ(聖なる灰)を与えて私を祝福し、私の頭にその恵みを授ける手を乗せて言った。

「彼に物語や体験談を集めさせなさい。短い手紙やメモもとっておきなさい。私が彼を助けよう。彼は道具に過ぎない。私が自ら自伝を書いて、帰依者たちの願いを叶えなくてはならないのだ。彼は自分のエゴを取り除いて、私の足元に委ねなくてはなくてはならない。人生でそのように振舞う者を、私は必ず助ける。

私の生涯の物語がどうしたというのか?私はありとあらゆる方法で彼の家で彼に仕える。彼のエゴが完全に全滅し、跡形もなくなったとき、私自身が彼の中へ入り私自身の生涯について記すだろう。私の物語や教えを聞くことによって、帰依者たちの心に信仰心が芽生え、彼らはたやすく自己認識と至福を得ることができる。そこには自分自身の意見の確立を主張することはなく、他人の意見を論破しようとすることもなく、いかなる主題についても賛否を議論することがなくなるだろう」

1. 釈迦年1700年:1700年+78年で紀元1778年。紀元年にヴィクラミ年をプラスする。
2. 釈迦年1800年:紀元1878年

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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スワミ:ラクシュミ 9つの円のヤントラ

2011-08-28 | 聖者

2枚の11×17cmの紙にそれぞれ、9つの円心円を黒以外の違う色で描きます。それぞれの円の外側に時計回りの第三のマントラを書きます。円の周りの全ての空間がなくなるまで、何度でも繰り返し書きます。それぞれの円には違う色を使います。

それぞれの言葉(真言・マントラ)も違う色を使います。円の中心に赤かオレンジ色でオームのシンボルを書きなさい。色に指定はありませんが、中心の赤から外側の紫まで、虹を描くように作りなさい。描き終えた一枚を、自分や友人の玄関に置きなさい。

そしてもう一枚は、目が覚めたらすぐ見えるように自分や友達のベッドの上に掛けると良いでしょう。円を描いている間は、ラクシュミのエネルギーを円に充電させる為に、ラクシュミマントラを連続して描き終えるまで唱えなければなりません。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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スワミ:五大元素の行を始めるにおいての注意点

2011-08-28 | 聖者

 最重要   

このマントラや教えは、今まで決して表に出ることのなかった、切れ味の良い教えであります。が、今回一般公開して良い事になりました。これも、暗黒の時代を抜け出し、光の時代に向わなければいけない時代だからこそ、許されたのかも知れません。

また、時代は混沌としており、私達一人ひとりの、生き方を変えなければいけない時代だからこそ、許されたのかもしれません。どちらにしても、この様な時代だからこそ、チャンスが巡って来たと思っています。ので、このご縁に巡り合った一人でも多くの方に学んで頂き、良い時代を引き寄せる一助になって頂ければ幸いです。

この行法(五大元素の秘密)は、悟りやゴッドヒーリングを目指す為に、避けて通れない重要な行であります。また悟りへの門を開く究極の教えでもあるわけです。ですが、この五大元素のマントラは使い方によっては、ダメージを受ける場合もありますので、これを熟知した経験者にご指導頂く必要があります。そして、最初に神の世界に入門する為に必要な、自分だけのマントラ(パーソナル、マントラ)を授かることが、とても重要なのであります。

この行は、神との契約で行われますので、パーソナルマントラを唱えないと、五大元素のエネルギーを受け取れない仕組みになっています。ので、マントラだけを唱えても、思った程の効果がないと云うことになります。この様な隠された秘密がありますので、ご理解の上お読みになって下さい。

もし、お近くに教えて頂ける経験者(カレスワール、スワミの弟子でグル資格者)がいない場合は、私が主宰する満月行にご参加頂ければ、次の段階を目指すレベルまでご指導致します。以上強力なものには、二面性(正と悪)があることをご理解の上、是非始められる事をお勧めします。


グルのグルに、カレスワール、スワミ(シルディー、サイババの許可を得て)より拝受されたナーガステッキ(コブラの伝授用のステッキ)です。このステッキを使い、湯布院アシュラムのシヴァ神の部屋で、五大元素の伝授が行われます。癒しの森、湯布院はカレスワール、スワミに聖地入魂された、紛れのない森の中の聖地であり、五大元素や聖者入門行を行う修行道場です。ご参考は → コチラをクリック  して下さい。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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