まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

Lec9:事例 鶴岡まちなかキネマ

2023-04-21 15:48:02 | 地域風景の構想 design our place

 

設計計画高谷時彦事務所 Profile  記事一覧へ Lec2へ

Lec9:中心部にコモンズをつくるーもう一つの風景―

事例研究その1 社会的企業が作るもう一つの風景:鶴岡まちなかキネマ

1.概要と経過

絹織物工場を映画館にリノベーションした鶴岡まちなかキネマ

 鶴岡まちなかキネマは、昭和初期の木造絹織物工場を4スクリーンの映画館にリノベーションしたプロジェクトです。計画は2006年に始まり、映画館は2010年にオープンしました。映画館や多目的なイベント会場として地域で親しまれ、建築的にも高い評価をいただきました。しかし、実質的なスポンサーであった地域銀行の体制・方針が変わり、コロナを契機として2020に、運営会社とともに閉鎖。その後市民有志により2023年に一部が復活して、上映活動を続けています。

 

 

中心部の空き地が大問題

2006年、中心部にあった合繊メーカー松文産業鶴岡工場の郊外移転が決まりました。

 

3000坪の遊休地が中心市街地に生まれます。松文産業は明治23年創業の勝山に本社がある合繊メーカーです。昭和7年に鶴岡で遊休化していた大泉機業場を買収して以来、70年以上この地で操業を続けてきました。多くの人がここで働き、工場も地域に溶け込んだ風景となっていました。郊外移転は中心市街地にとっても大問題です。

 

 

活性化の好機会ととらえた銀行頭取

 しかし中心部に「労せずして、3000坪のまとまった敷地が生まれる」のは、衰退しつつある中心部再生の一大機会だととらえた経済人がいます。地元荘内銀行の國井頭取です。東北公益文科大学大学院でまちづくりの研究をしていた私は、國井頭取に呼ばれ、下記スライドのビジョンを聞きました。発想の転換です。既存のS造(壁はRC造)工場を壊さず活用するアイデアもお持ちでした。すごい発想の方だなと驚きました。発想力だけではありません。実行力もお持ちです。

 

木造の絹織物工場を活用した映画館計画

 私は、さっそく頭取のビジョンに沿ってラフな全体計画のスケッチを開始しました。少し時間をいただいたので操業中の工場も見学しました。そこでまず気になったのが、誰もが壊すしかないと思っていた古い木造工場のことです。その時は創業の歴史などもまったくわかっていませんでしたが、木造工場に素晴らしい木造トラスの小屋組みがあることだけは、現場で確認しました。また、S造部分の階高が低く、また重い機械を設置するために柱が増設されていることから、映画館としての大きな気積のある空間つくるためには大きく手を入れる必要があることにも気づきました。そこでこの木造工場を残す案もあるのではないかと思ったのです。私たちは、簡単な模型とスケッチですが2つ案をまず作りました。1つは、木造工場はすべて壊して駐車場にするという案です。もう一つは、最も古い木造工場の2棟を残して、映画館に活用する案です。

 

 頭取の判断は、後者でした。ここから、木造工場を映画館へ、またRC工場を複合文化施設(当初の考え方、結果的には2期以降として存置することになった)にする計画がスタートしました。

「木造絹織物工場を映画館にリノベーションする」という貴重なプロジェクト(残そうとした木造工場が絹織物工場であったことは後の調査で分かりました)が始まったのです。調査を経て計画案の骨子が固まった翌2007年には銀行の後押しや市民の出資により運営会社である㈱まちづくり鶴岡が発足。優秀なマネージャーも得て、事業として着実に歩みだしました。

 

2.調査

腐朽が進行する軸組

木造工場(B、C棟)とS造工場(D、E棟)の両方を対象に、現地調査や文献調査、工場関係者からの聞き取り調査などを行いました。木造工場については、大変腐朽が進んでいることが分かってきました。防音のためにグラスウールなどで覆われているため、わかりにくい部分もありましたが、柱脚など多くの部分が腐朽しており、かなり大掛かりな補修が必要だと思われました。また柱や頬杖を撤去するなど、改変が激しいこともわかりました。

 

S造工場については、溶接部分の信頼性をどう担保していくかの課題がありました。

 

歴史を証言する小屋組み

木造工場においては、既存の天井をはがして中に入ると、素晴らしい木造トラスの小屋組みがあります。2種類のトラスがありました。すべて杉材です。スパンの中央に真束のあるキングポストトラスの部分では水平方向の下弦材は杉の一本もので6間の長いものでした。キングポストより少し古い形式であるクイーンポストトラスの部分もありました。この小屋組みが桁行方向に1間間隔で並んでいます。増築のあとを物語る歴史資料です。

 

 

 

建築年の判明

 工場長や幹部職員の皆さんも木造の古い工場を残すという方針を大変喜んでくれ、文献資料などもいろいろ用意してくれました。そのおかげで、建築年もきちんと割り出すことができました。クイーンポストの部分はやはり一番古くて、昭和7年に買収した大泉機業場の建物がそのまま使われていると判断できます。その後少しずつ増築が繰り返されて今の姿ができているのです。

 

この時点でB棟が第三織布工場、C棟が第二織布工場で、戦時中に軍の要請で羽二重を織っていた以外は1970年頃まで輸出用高級絹や人絹を織っていたことが分かりました。

 D、E棟は古い木造工場がありましたが、昭和33年の火災で全焼して建て替えられたものです。

 

 

 

3.再生の方針

守り継承すべき価値とは

このように調査を経て、B、C棟が昭和初期あるいはそれ以前の構造物を利用した絹織物工場であり、建築史的にも大変価値のあることが分かりました。文化財ではないものの、価値としては同等です。ただ、映画館にするためには、ある意味では大胆に手を入れる必要があります。調査に平行して様々な案を検討していましたが、どの案も大きな改変が伴います。

私は、斯界の第一人者である後藤治先生を大学に訪ねて意見を伺いました。後藤先生の答えは明快でした。「この建物の価値の一番は桁行方向に並んだ柱と小屋組みの構造的システムにある。このシステムのおかげで、自由に増築したり、システムを残したうえで部分改変したりを地元の大工が自由にやれた。それが今日まで残った理由である。このシステムを尊重したうえでの改編であれば、大丈夫、思った通りやってみたらどうか」というアドバイスでした。

 

私は、映画館として改変は伴うものの、構造システムは尊重して行うこと、そしてこのシステムを分かり易く見えるようにすることを根底にして計画案を詰めていきました。

 

 

当初は三棟で計画

 事業性の観点からまずはB、C、Dの三棟をまずは活用することになりました。B、C棟は映画館とエントランスホールそしてD棟は平土間のホールと小さな貸しスタジオ、練習室を持つ文化的な収益施設としました。

 

 

用途は建築審査会でクリア

 都市計画の用途地域としては、住居地域でしたので、映画館のような興行場はできません。このため建築審査会の同意を得て、山形県の許可を得ることとしました。騒音や、交通の影響など資料を作成し、許可を得ることができました。

 

木造の興行場のための分棟

 映画館は興行場です。建築基準法によりネット面積200㎡以上の興行場はできません。私は、防火避難上の別棟にすることを考えました。あえて建物の一部を壊し、RC造の渡り廊下でつなぐのです。結果的に3棟を一つの廊下でつないでいます。この形態は基準法では想定されていないものでしたが、山形県の指導を仰ぎ、適法であることが保証されました。

 

地下に掘ってRC客席を埋める

 1間おきに並ぶ柱と小屋組みをそのまま残すと映画館としての高さが確保できません。小屋組みを壊して補強により上の方に気積を確保することは考えませんでした。逆に地下に掘り下げて、RC造の客席空間を木造柱脚、土台、基礎構造の下に設けました。大変難しい工事となりましたが、現場の皆さんがやり遂げてくださいました。

 

構造補強

 現状軸組の劣化状況を確認し、部材の繕いや取り換えとともに構造補強を行います。構造家の古川洋さんの方針に従って行います。

 スクリーンの間仕切りのある部分では、天井面に相当する面を棒鋼を用いて剛な平面をつくります。そのうえで妻壁と間仕切り壁を変形性能が期待できる合板で耐力壁とします。間仕切り間部のないエントランスホールでは、外部において地中から立ち上げた片持ち柱で水平力を受け持たせるようにしました。

 

4つのスクリーン

 スクリーンの数は試行錯誤の連続でした。当初の頭取のイメージは7から8つでした。行政や寄付金に頼った入り、経営者の篤志によるいわゆるコミュニティシネマではなく、事業性のある映画館をつくりたいという強い意思に基づく判断です。しかし、建築コストや、建築基準法による増築面積の制限(既存遡及を避けるため)で平面計画上から、165、152、80、40の4スクリーン案が浮かび上がってきました。映画パーソナリティの荒井幸博さんのアドバイスも大きく影響しています。スクリーン数が少なくてもこの構成なら事業的にも行ける、配給会社にも納得してもらえるだろう。この4スクリーンと広いエントランスホールを利用していろんな仕掛けを考えていきたいという熱い思いも語ってくださいました。

 

 

 

1期工事を絞り込む

 設計案としては、3棟案でまとめましたが、最終的な経営判断で、1期工事はB、C棟だけで行くということになりました。逆に木造映画館をつくるというテーマが明確に伝わるようになったのだと思います。

 

 

 

 

 

4.再生のデザイン

絹や機織り機をモチーフに

 映画館のインテリアは、絹織物から発想をいただきました。経糸を整える筬のイメージから、平行な糸状のもので覆ってしまおうということです。実際には、コストや施工性のこともあり栂の細い材を並べた縦格子で筬を表現しました。あらゆるものをこの筬優先で収めようと思いました。排煙窓やスピーカーにも工夫をしました。コンセントボックスも筬の背後にあります。

 

 

 また椅子も、シネコンのような既製品ではなく、絹の布のようなしなやかな曲線をイメージしてオリジナルなものをつくりました。映画館の場倍座席や背もたれが汚れた場合に、幕間で交換するのですが、メーカーの方と細かく増段を重ね、そのあたりの仕掛けもきちんと織り込むことができました。背板の材はブナの合板です。

 

 

小屋組みを見せる客席空間

 小屋組みを見せることにはこだわりました。天井現しの映画館はおそらくほとんどないと思います。上映責任者の支配人はスクリーンの光が反射して梁が金あるのではないかと心配でした。そこで、現場で実験をして、大丈夫なことを確認しました。しかし、音場効果については実験できません。音響コンサルタントのかたは天井をつけないと(トラスの下弦材、陸梁が等間隔に並んでいるので)フラッターエコーが出る、NC値の達成が難しいなど心配でした。結果的には、大変良い音場が得られ、専門家の団体からも表彰を受けたほどです。おそらく木材の微妙なゆがみや、間隔の誤差が良い影響を与えたのだろうと思います。

 

 

舞台のある映画館

 たまたま設計中に、大学のまちづくり調査でシカゴ郊外の小都市の映画館を訪ねる機会がありました。小さな映画館は、経営的には苦しいが何とかやってこられたのは、舞台がついていて多目的に活用できたからだとの説明がありました。ケネディ大統領が選挙の時に演説会場にもしたとのことです。訪れた時にも映画ではなく演劇公演のための舞台設営の準備中でした。

私は、まちキネにもぜひ舞台をつけたいと思いました。また客席を地下に彫り込んでいく形式の中でスクリーンに近い側に舞台を設けることは、土圧の軽減という意味でも有効であることに気付き、舞台設置の提案をしました。当時、一円の無駄も省きたい、映画館に不必要なデザイン的な要素なども一切やめたいというのが、事業を運営する㈱まちづくり鶴岡の方針でしたが、総合的な判断力のあるマネージャーは即座に舞台の有効性を理解してくれました。オープン後は舞台を利用しての監督挨拶や、講演会などでも大いに活用されています。

 

光に満ちた多目的のエントランスホール

 エントランスホールでは、継承すべき価値である「1間おきに並んだトラスの小屋組みによる構造システム」を、光に包まれた形で見せたいと考えました。訪れた人たちは、このエントランスホールで木造絹織物工場の歴史的価値を味わうことができるのです。

 

 

5.まちなか文化的コモンズとしてのまちキネ

まちキネ方式の多彩な運営

 シネコン、名画座、地応都市単館、コミュニティシアターと異なる独自の地方都市型映画館を目指し、ミニシアター系からアニメ、大作に至る田尾由奈映画上映、ODSやデマンド上映、ステージを利用した落語会、多目的ホールと連動した映画祭など多彩な運営を行ってきました。

 年間8万人の観客、1億円の売り上げを達成しています。

 

 

 

 

配給会社との信頼関係

4スクリーンをフル活用して1日24上映機会、10から12作品の併行上映を続け、映画館経営に欠かせない中法のすべての配給会社との信頼関係を築くまでになりました。

 

中心部において映画を楽しむ文化の定着

 上映活動だけでなく、広く明るいエントランスホールも大いに活用されました。鶴岡はユネスコの食文化創造都市ネットワークに加盟していますが、食文化と映画をコラボレートした「食の映画祭」の開催会場ともなっています。コンサートや食の販売イベントも行われたりする中で、映画だけでなく多彩な人々が集まり交流する、まちなか文化的コモンズとなりました。鶴岡においては中心部において映画を楽しむ文化が再び定着したといえるでしょう。

 

 

 建築的にも内外から評価され、日本建築学会建築選奨、BELCA賞、LEAF賞ショートリストなどの栄誉に浴しています。

 

 

 

6.社会的企業がつくるもう一つの風景

継承された記憶の風景

 鶴岡は蚕から織物製品までが一貫しつくられる貴重な地域です。かつては多くの織物工場があったのだと思います(松文産業本社のある勝山市には今もそういう風景が残っています)。松文産業鶴岡工場で働いていた方々にも、そうでない人にも工場のあるまちの風景は記憶にあるものです。

この鶴岡で培われた営みの風景を次の世代に手渡すことができました。いつの時点の建築に価値を置くのかとか、オーセンティシティをどこに求めるかということよりも、建築を長い時間の流れの中でとらえていくことが必要だと思っています。この建物を拠り所として新しい映画文化の風景が織り込まれていくことを願うものです。

社会的企業による開発

 以前「もう一つの風景」と題して、ロンドンのコインストリートに生まれたまちの風景を紹介したことがあります(高谷時彦2008)。コインストリート地区は大規模な再開発計画が持ち上がりデベロッパーの「ベルリンの壁(Berlin Wall)案」に対し、地元の社会的企業が「今までの都市の文脈の延長上で、暮らし、営みを守りながら開発する方式」を提案し実現しています。開発業者の提示したインターナショナルなビジネス街の風景に明快なNOを突きつけ、ヒューマンスケールのまちを実現したのです。

 鶴岡まちなかキネマも㈱まちづくり鶴岡(背後には地域金融機関としての使命を自覚した地元銀行)が開発主体にならなければ、まったく違うものになっていたことは明らかです。実際、2020年に閉鎖した後、隣接敷地は大手のドラッグストアに売却されました。実は、まちなかキネマの敷地もドラッグストアや遊興娯楽施設に売却してはどうかという話もあったのです。

 

 ㈱まちづくり鶴岡は國井頭取のアイデアに基づき、市民の出資も得て誕生した社会的企業です。社会的企業とは「公益を目的としながらも、ビジネスの手法を取り入れた新しい非営利の組織形態」(渋川、高谷他2010、p156)です。資本の利益を第一とすれば、映画館を復活するということは非合理な選択です。また映画館をつくるにしても、行政や関係者からさんざん言われたように、木造を壊して安く鉄骨造サイディング張りでつくるという選択になったはずです。しかし、まちの中心部で映画を楽しむ文化を復活させたいという公益のための会社であるからこそ、鶴岡の基幹産業であった絹織物の工場を継承した映画館作りに取り組んだのだと思います。このあたりの経緯は『ソーシャルビジネスで地方再生―地域を甦らせた映画のまちづくりー』(渋川2015)に紹介されています。

 

 

終わりに:閉館、そして再開へ

 しかし、2020年、実質的なスポンサーであった荘内銀行の体制・方針が変わり、㈱まちづくり鶴岡(優秀な社長やマネージャーは銀行からの出向でした)の清算と、映画館の閉鎖売却が突然決まりました。その後再生を願う市民の声が大きく、新たに所有者となった鶴岡社会福祉協議会のご厚意もあり、地元のまちづくり会社が2003年に小さなほうの2スクリーンで映画館を復活しました。現在は私たちも含め市民みんなで応援をしているところです。

 

高谷時彦 建築・都市デザイン

Takatani Tokihiko   architecture/urban design


Lec3:時の中で考えるー奥行きのある風景ー

2023-04-18 19:21:43 | 地域風景の構想 design our place

設計計画高谷時彦事務所 Profile  記事一覧へ Lec2へ

Lec3:ときの中で考えるー奥行きのある風景―

 

(1)時間の中で成熟する風景

①時を経た建築をまちの中で生かしいくこと

 拡大成長の時代は、既存のものを壊してはつくり続ける時代でした。建築も常に新品のぴかぴかな状態が求められ、まちの風景も常に変化し続けていました。それは民間だけでなく、行政も同じです。古くなった既存校舎を解体して、民間に貸し出し、20年間で収益を上げ再び更地にして返してもらうというように、建築に利潤を生みだすことだけを求め続けていたのです。そこに人びとは、まちの歴史や物語を読み取ることはできません。

 

成熟の時代においては、建築やまち並みも人々の営みが時間をかけて作ってきた風景の一部として確かな実在感を持ち、確かな時を刻み続けていることが実感できるようでありたいと思います。まちや地域の歴史にしっかり根を張った、あるいは人々の暮らす時間の流れに確かな錨を下ろしている建物の作り出す雰囲気が、町の風景に深みと広がりを与えるのだと思います。風景のひだ、奥行き感といってもよいでしょう。

 歴史的建築はそのまちが何を生業としていたのか、だれが暮らしていたのか、そこで何が起こったのか等々、様々なことを私たちに語り掛けてくれます。歴史的建築を介してさらに様々な物語が生まれていく。建築は人々の記憶を媒体するものであり歴史を体現するものとなります。人々はそういった風景にアイデンティティの手掛かりを得るであろうし、帰属感を抱き、それがまちに対する愛着にもつながるでしょう。

 そのためには、当然ですが、建築は長く使われ、そこで時間を刻むということが必要です。小泉隆(2017)は「次から次へと新しい建築が生まれては消費されてしまう現代」にあって、彼の専門領域である北欧建築を例としながら「良い建築」について端的に語っています。「土地の風土や歴史との連続性を保ちながら、長い時間愛され、使い続けられながら、日常において豊かさや美しさ、そして悦びを与えている建築」、そういったものが良い建築だと言い切っています。

 建築・都市デザインに携わる私たちがまず取り組むべきことは、今ある建築とりわけ歴史的建築をできるだけ壊すことなく、必要な手を加えて再生し、人々に使ってもらえるようにしていくこととなります。本章では、長く地域の中にあり希少価値を持つような建築だけでなく、数十年の時を地域の人とともに過ごしてきたある意味では普通の建築も含めて「歴史的建築」と総称し、その保全活用の意義や、方法について考えていきます。

 

まちづくりにおける意義

 歴史的建築を残して活用していくことには、人々の心象風景を含む地域風景の継承ということに加えて、技法工法など建築文化の伝承、SDG‘sの観点など様々な意義があります。またまちづくりとしても、リノベーションまちづくりに見られるように、地方都市中心部の再生手法として位置付けられています。ここでは、歴史的建築の活用がまちづくり手法としても新しい意義を持つことを少し違う視点から指摘したいと思います。

 

 都市計画に多層性、多様性をあたえること

 既存の都市計画は、都市全体の将来像を描き、その方向に向けて、全体的な観点から各部分の在り方を制御しようとします。

しかし、歴史的建築の再生活用の事例は、ある意味では突然ある場所で発生します。どこで起こるのかあらかじめ想定しておくことは大変困難です。空き家は相続などで突然発生します。

 鶴岡まちなかキネマと日和山小幡楼はどちらも、既存の都市計画に整合するものではありませんでした。前者は用途地域と、木造の映画館ということで既存の都市計画(及び建築基準法)の想定するものではありませんでした。また後者は防火の規定にそもそも大規模な木造建築が不整合でした。

 しかし、両者とも計画当局の理解を得て、地域の人々に歓迎される建物として再生しています。どちらも市場原理の下では、使われなくなっている歴史的建築物です。残すためにはイノベーション(知恵)と一定のお金が必要でした。前者の場合には、映画館の復活というアイデアと、社会的企業による取り組みが推進力となりました。後者の場合には、役所と民間が立場を超えて地域のために協働しました。両者ともに単なる営利だけにとどまらない社会的な意義があったので、協力・協働の輪が広がりました。

 すなわち、都市計画とは無関係に生まれる歴史的建築は、新しい市民型の組織や、民と官の新しい関係が新しいエネルギーを生み出す場所として位置付けられます。拡大成長の時代には、都市全体を俯瞰する従来型の都市計画が力を発揮しましたが、これからは、このような部分を確かなものにして結果的に全体に至るという発想が必要になると思います。ある意味アドホックに発生する歴史的建築は、既存都市計画とはちがうまちの作り方を提示しているともいえます。

 これらの例は従来の都市計画を否定するというよりは、補完するものと考えたほうが良いでしょう。図に示すようにこれまでの単層的なまちづくりに、新しい層を加えることで、より多様なまちづくりの体系が生まれるように思います。民間と行政の役割にも新しい関係性が生まれないといけないと思います。

歴史的建築はまちなか文化的コモンズの可能性

 自由に訪れることができ、人と出会い、あるいは一人で自分らしく時間を過ごせる場所は、ひとびとが自分たちのまちに親しみや帰属感をえるための拠り所となるものです。それは散歩道であったり、カフェであったり、ホールのような建築空間であったりします。グローバルに情報・モノ・人が動く時代です。人々は、自分のまちや地域にしっかりと根差し、心豊かに暮らすことを求めています。拠り所となる共有空間をまちなかコモンズと呼びます。

 

 まちなかコモンズでまちの歴史や文化にふれられるならば、人々は先人がどのようにまちをつくってきたのかを知り、誇りを抱いたり、より確かな帰属意識を持つことになるでしょう。またそのような場所は、観光客や訪問者にとっても魅力的で忘れられない場所になります。訪問者からの評価は、自分たちのまちのアイデンティティを明確なものにしていくことにつながるでしょう。これをまちなか文化的コモンズと呼びたいと思います。

 後に紹介する日和山小幡楼や鶴岡まちなかキネマのような歴史的建築は上記のような場所になる優れた潜在力を持っています。歴史的建築の潜在力を開放し、人々に長く親しまれる場所に生まれ変わらせることが、歴史的建築を再生活用するもう一つの意義だろうと思います。

 

(2)使い続けることの困難さについて 

①社会経済的条件 

 建築は目的を達成するための道具という側面、道具性と容器のようにいろんな中身に対応できる器性の両方を備えています。したがって役割を終えて利用されていない建物の用途を変えて再利用する、或いは改修して新たな価値(用途、空間)を生み出させるようにすることは技術的にはそんなにむつかしいことではありません。

 歴史的建築を長く使い続けていくには、別の観点からの難しさがあります。歴史的建築は低層で、低容積というものがほとんどです。建てることを許されている床面積を使い切っていないため、権利が十分行使されていないととらえられます。また多くの場合は、木造であり、耐火性能や耐震性が鉄筋コンクリート造などに比べて低い場合が多いと言えます。日本の都市においては都市の高度利用と不燃化そして耐震化というのが都市改造の大きな目標でした。その点からは、「安全で、かつ土地を高度に利用したほうが良い」という声に抵抗できなかったのが現実です。また法律や各種助成制度も、除却と建て替えを前提にして組み立てられています。残していく場合には、建築基準法や消防法上に適合させるだけでも大変な労力を要することになります。

 上の状況は改善されつつありますし、SDG‘sや環境的な視点から、建築を長く使っていくことの意義もひろく認識されつつありますが、除却して建て替えたほうが、コスト的にも合理的な選択だと考えられる状態は、まだ続いています。

②日本人の心性

 また、「精神的なもの、文化的なものを伝えていけばよいので、建築物そのものを苦労して残さなくてもよい。伊勢神宮のように建て直して、目に見えない大切なものを伝えていくのが日本式ではないか」という声もよく聞きます。また、都市に住む人も数代前は農村に暮らしており、心のふるさとは自然に囲われた田舎にあり、都市の住居はあくまでも仮寓あるいは仮設だという考えもあります。

 庄内の大学にいると、鶴岡でもまた酒田でもまちを構成する建築そのものよりも遠くに見える月山や鳥海山を眺める、あるいは見守られているということが重要だと考えている人が多いことに気付きます。まちなみについて語ろうとすると、そんなことより、月山や鳥海山との関係のほうが大切だと語る方に多く出会いました。長く庄内に関わり、私たちの暮らしを見守ってくれるかのような雄大な自然を知るようになると、その気持ちもよく分かります。

 十数年前になりますが、庄内をロケ地とした「おくりびと」という映画がありました。東京での生活で夢破れたチェリストの主人公が、故郷に帰ってきて、心を癒すという映画です。私に印象深いのは、主人公鳥海山を背景に、川の土手でチェロを弾くシーンです。主人公の心のふるさとは川であり鳥海山という自然なのだという設定でした。

 同じようなテーマの映画に「ニューシネマパラダイス」(イタリア・フランス合作)があります。故郷を出て成功を収めたものの、心の空虚さを感じている主人公の映画監督を迎えるのは、子供のころ通った映画館の建物であり、それが面する広場です。今も変わらない、人々の営みが作り上げたまちの環境(Built Environment)です。

 日本人には、自分たちの創り上げた建築や道路などの人工物よりも、山や丘などの地形や植物などの自然物を尊ぶ習慣があるのは確かのようです。次項で例に挙げたジャンカルロデカルロですが、彼が活躍したウルビノにはジャンカルロデカルロ通りというのがあります。日本では道、通りに名前を付けて顕彰するということはあまりありません。道やとおりという人工物は永続的なものではないという思いがあるからではないでしょうか。王のお墓であるピラミッドと古墳を比べてみるとわかります。毎年芽生える若草のような穢れのない新しいものを尊ぶという習俗もあると思います。

 以上みてきたような、日本人の心性は尊重されるべき文化だと考えることもできます。また、風景という視点から見ると、少なくとも高度成長の時代までは、建築を短期でつくり替えたとしても、それほど大きな変化につながっていなかったということがあります。それは、まちの中の建築は、地場の大工さんが伝統的な手法でつくっていたので、仮住まいを立て直したとしても、同じような材料と構法で、今までとそれほど変わらない規模でつくられていたということです。通りのスケール感や、狭い路地の風景もそのまま踏襲されていたのです。個々の家が新陳代謝を繰り返していても、風景としてはそれほど大きく変わることはなかったのではないでしょうか。

 ところが、これまでに延べてきたように、1960年代頃から家は商品となり、新しい家は前とは違う姿で消費者の前に登場します。また土地は投機の対象となっているので、以前とは規模も違うまちが出現します。建物が建て替わるということはまちの風景も一変するということにつながるようになったのです。

 すでに都市「化」の時代は終わり、何代も前から都市的な環境に住む人たちも増えています。自分たちの、暮らしの環境がいつまでも仮設的、刹那的なものであっては、そこに安心して帰属しようという心も育たないのではないでしょうか。日本人の嗜好は尊重されないといけませんが、自分たちの身近な環境を仮住まいではなく、貧しいものにしないというのが、私たちが取り組むべきことであろうと思います。

 

 

(4)何を残し何を変えるのか、建築の価値とは

 なぜ残して活用するのか、どういう意義があるのかということともに、ここではどう残し活用するのかということを考えてみたいと思います。その時には何を歴史的建築の価値と考えるのかが問題となります。このテーマについては、文化財建築を対象にすでに多くの議論がつくされていますが、国宝などではない、まちの風景の中の大事な建物を改修して使い続けていこうとする場合に、どのように考えるべきなのか、少し整理してみます。

①3つの価値

歴史・文化的価値

 ここまで、歴史・文化的価値については多くを語ってきました。繰り返しになりますが、建築はつくられるときにもその時代の技術、社会、経済の状況を反映しています。また地域の中で時を経ることによりいろいろな出来事が起こり、物語の舞台となったり、人々の記憶の場面の一部となります。さらに希少価値があるときには、いわゆる文化財として保護の対象となります。建築のもつ、歴史・文化的価値は小さくありません。

役に立つという社規経済的価値

 「壊して建て替えた方が価値が上がる」という考えから、歴史的建築が壊されてしまうことは、日常的に体験することです。しかし、歴史的建築のもっている雰囲気を活かして利用したほうが、経済的価値を生むという考えもあります。古い酒蔵を利用した飲食店などは最近多く目にします。

 個人、企業あるいは行政がお金をかけて改修して維持管理するのも第一義的には、この社会経済的な価値があるからです。住まいであれ、商売であれ、展示であれ何らかの役割を歴史的建築が担うことを前提にしていることは言うまでもありません。

空間的価値、構築物としての価値

 茶器を考えるとわかりますが、器はものそれ自体の価値を持ちます。建築も用途を超えて構築物としての建築それ自体の目的のために存在するのではないかと思うことがあります。

 鶴岡に丙申堂という大きなお屋敷建築があります。明治中期の建築です。豪商の風間家はここを仕事の場としても、また居住の場としても使ってきました。普通は美術館として素晴らしい、あるいはコンサートホールとして秀逸だというような評価がありますが、この建築の場合用途がなんであるのかということにはあまり興味がわきません。用途を超えた実在感、あるいは構築物としての確かさを持ちます。用途を超えて、空間に人間の求める秩序を与えているもの、私たちの存在の証という感を覚えます。

 長谷川敬氏は日本の伝統的な木造建築について「・・まず、木の性質を最大限生かす合理的な架構をする。その空間を人がうまく利用する」という考え方を紹介しています(長谷川敬2001)。自然に生育していた木の本性を矯めることなく、人間のスケール感覚、秩序感覚の世界を構築するというのが建築の初源だということでしょう。用に先行する建築空間があるということです。丙申堂を見るとその感覚が納得できます。

 私事になりますが、学生時代の恩師である大谷幸夫先生は「建築は雄々しいもの、言い訳などしない」というようなことを、おっしゃっていました。謎のような言葉ですが、丙申堂のようにずっと静かに立ち続けて、人々の日陰を、生活の場を、生業の空間を提供し続ける姿・・・そこに大谷先生の言葉を重ねてしまいます。

 建築という構築物は、人々や建築家の観念が形をとった造形物です。その中には、強く訴えてくる造形も当然あるのです。数か月前に、旧香川県立体育館の取り壊しが、県から発表されました。私は丹下健三先生のこの作品の持つ構築的な力強さは、体育館としての用を超えていると思います。それを感じる市民から多くの存続署名が出ています。行政にもそのあたりを感じ取ることができる方がいらっしゃればと願うのは私だけではないと思います。

 

②価値があるから残すのではない

大谷幸夫先生の言葉

 前項で、歴史的建築物の価値について考えました。「価値があるから残し活用する」のが基本にあることは間違いありません。しかし、それだけではないということも確認しておきたいと思います。

 再び大谷幸夫先生の登場です。先生は「建築は価値があるから残すのではない。残っていることに価値があるんだ」とおっしゃっていました。社会で広く価値が認められている建物はほおっておいても大事に保存されると思われます。先生は、まずは一見価値がないと思われる建物でも、長く地域にあるものは、そのことに価値を見出さないといけないということを私たちに伝えようとしたのだと思います。「普通の建物」でも長くそこにあるということで、人々の思い出や、記憶を伝えているのです。掘っ建て小屋のようなものでも、長く残っているものに、きちんとした敬意を払うきっかけをくれた言葉です。ただこれは、前項の価値の分類からいうと、歴史文化的価値になります。

時を止めてはいけない

 大谷先生の言葉はさらに深い意味を持っています。大谷先生の言葉は、私たち、建築の設計を専門とするものに向けた言葉です。私は次のように考えるようになりました。

 私たちは、今ある姿に手を加えて、新しい価値を付け加えていこうとします。価値は常に変わるものですし、歴史的建築は、たとえ世間から価値がないと思われるような「凡庸な」建築であったとしても、私たちがうまく手を加えることでさらに良くなっていくポテンシャルを持っていると考えるべきだと思うのです。

 すなわち、価値を固定化して考えてはいけない、あるいは建築の価値を一時点で判断するのではなく、長く受け継がれていく中で、どんどん価値の質を変えていくものだという理解が必要なのです。言葉を変えると現代という観念で建築のもっている時間を切断してしまってはいけない。時間の流れの中に私たちの保存再生の活動も位置づけないといけないということではないでしょうか。

 私たちを取り巻く環境は常に変化し続けています。その変化の中に私たちはいて、その変化のベクトルを常により良き方向に少しでも向けようとしているということです。一つの建築に対して、現代という一時点で切断した価値づけを行うことは必要なことではありますが、私たち設計者は、自分たちがなしうることも含め、長い時間の流れの中で、建築を位置づけ、考えていくという姿勢も求められているのではないでしょうか。

 

➂オリジナルの尊重、オ―センティシティ

 以上のような視点を大切にしたいと考えますが、一方には建築は絵画や彫刻と同じようにつくられた時点におけるオリジナルなものに価値があるという考え方があります。オーセンティシティに重きを置く考え方です。

 典型的なのが文化財ですが、つくられた時期あるいはある特定の時期における姿に価値があり、その状態をできるだけ保持しようとします。したがって耐震補強や、バリアフリー対応、使い勝手上の改変等を行う場合には、「オリジナル」と「後補」をはっきり分けられるようにするのが基本です。昨年の日本建築学会作品賞を受賞した、富岡製糸工場もこの考えに基づいて補強や展示施設としての後補がなされています。すべて取り外すことが可能ですし、見た目にも既存建築と別物として作られています。美しい鉄骨造建築ですが、既存の繭置き場の建物とは独立した作品として評価されたのだと思います。

 オリジナルやある時期での価値にこだわることはモダニズム建築でも同様です。モダニズム建築の場合は、作家性に力点が置かれますが、その作家/建築家がつくった時の姿に復元することに意義が見いだされます。例えばミースのファンズワース邸やバルセロナパビリオンなどの復元が例となります。

 歴史家の加藤耕一によると(加藤2017)文化財とモダニズム建築はオリジナルにこだわることで、同一の土俵にいます。新築は創造的ですが、改修は2次的創作という見方を共有しています。

 

④時とともに加わる新しい価値、時の中の一つの行為としてのリノベーション

 しかし、近代以前はどうだったでしょうか。加藤耕一が指摘するように、後期ルネサンスのミケランジェロのサンピエトロのドームは彼の作品ですが新築ではありません。先人の作品へ手を加えた改修です。歴史的建築にその時々の人間として手を加えて、次代に継承していく。一つの時点に完成があると考えるのではなく、建築も時とともに生きていくものだという考え方です。「オリジナル」と「後補」が分けられているのではありません。作家側から見ると歴史の一コマに参画するという意識、人生は短いけれど、建築を長く伝えていくということでしょう。

 この考え方に立てば、スカルパがカステルベッキオでやったこともよく理解できます。どこからどこまでがスカルパの手になるのかよくわからないところもたくさんあります。

 先に見た富岡製糸場とは大きく異なります。優れた建築家が、今あるものとの対話をしながら、必要なものを付け加え、また少しずつ手を加えていく。それによって現代に対応できるし、また空間としての魅力が時間の中に加わる。魅力的にあり続けるということです。 もちろんスカルパは自由気ままに腕を振るったわけではなく、例えば階段一つを取ってしても、元のものをきちんと尊重したうえでその時点での自分のオリジナルを加えているのです。新旧一体で一つの作品です。

 ジャンカルロデカルロもそうした新しい作品をたくさん生み出しています。ウルビノの旧市街への入り口にあるサンツィオ劇場など、元の建物と分離して考えることができません。

 ほかの事例をみます。ストラスブール駅はどうでしょうか。ジャンマリーデュティヨールJean-Marie Duthilleul (2007)です。私は元の建物と加えられたアーケードが相まって全く新しい一つの作品になっていると思います。

 

ノーマンフォスターや、より若いデビッドチッパーフィールドやトマスヘザウィックの作品も既存建築と合わせることで新しい第三の価値を生み出しています。

 以上のように見てくると富岡製糸所の方法とはだいぶ違っています。富岡製糸工場にあったのは美しい自立したS造の構造物です。既存文化財建築とはあくまで別の存在です。しかし、スカルパなどの作品は相当入念に見ない限り、元の建築と後補をはっきりと分けることはできません。またヘザウィックなどは分けることは可能ですが、すでに付加したものがないとこの建物の魅力が半減するという印象があります。この違いは、富岡製糸場が国宝であり価値が高く、スカルパが手掛けたカステルベッキオなどの事例が、文化的価値が低いということではないと思います。歴史や創造性に対する考え方に2つあるということです。歴史的建築に向き合う時には、オリジナルの価値に敬意を払うことは当然ですが、付け加えたものも含めて新しく価値を生み出していく、新しい創造を行うという意識も大切にしたいと考えています。私の考える保存再生は、決して時を止めることにあるのではないのです。

 

 

 

 

高谷時彦 建築・都市デザイン

Tokihiko Takatani  architecture/urban design

 


Lec2:暮らしの環境を風景から考える

2023-04-13 14:02:30 | 地域風景の構想 design our place

設計計画高谷時彦事務所 Profile  記事一覧へ

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Lec2:くらしの環境を風景から考える

(1)地域風景とは何か

①都市空間と都市環境

都市空間:物的な実態

 都市やまちは、建築、道路、橋、公園、川など様々な構築物や自然物から成り立っています。都市空間という言葉はこれらの構築物などからなるフィジカルな実態を指す言葉だと考えていいでしょう。

 

都市環境:歴史、文化、風土的存在

 都市空間は私たちのくらしの場であり、様々な活動を成立させている環境でもあります。都市空間をいとなみや暮らしの場という面からとらえると、都市「空間」というよりは都市「環境」という言葉がふさわしいと言えます。人間にとっての環境という意味では、気候や自然、風土なども都市環境の一部と考えたほうが良いでしょう。

 都市環境は自然や風土を基盤に、人々のいとなみが時間とともに作り上げてきたものといえます。大地の上に人の手により一本の道がつくられ、建物が並び、そこで様々な暮らしが展開します。代を重ね、時間とともに、都市環境は、様々な意味や物語に満ち、複雑な文脈をもつ世界となります。そういった都市環境のなかで私たちは育ち、自己を形成していくのです。

 私たちの経験は常に都市環境の中での特定の場所と結びついています。私たちの記憶も、特定の場所と結びついています。自分がどこにいるのかわからなくなるということは、自分が誰なのかがわからなくなるということでしょう。私たちは自分を取り巻く都市環境を拠り所として自分というものを位置付けているのです。

 その都市環境があまりにも毎日変わってしまうと、私たちは自分との関係をきちんと取り結ぶことができず、戸惑います。もちろん都市環境は日々変化しているものですが、一定の安定性を持つことも求められるのです。

 都市環境は、自然や風土と私たちのいとなみとが協働で作り上げてきたものです。長い年月のもとで受け継がれてきた歴史的存在であるといえます。また私たちの物的あるいは精神的ないとなみが形として継承されてきたものであるという意味では、文化的存在であるといえます。いとなみがその土地固有の風土のもとでなされているという意味で風土的存在でもあります。

 身の回りの建築や道路などを都市「空間」として捉えれば、人間とはいったん独立した客観的な物的存在だととらえることができます。住宅を、床、壁、天井、屋根からなる構築物、ハウスとしてとらえるようなものです。一方、ハウスの中での人のくらし、いとなみをトータルに考えるとホームとなります。私たち建築の設計を専門とするものは、実態としてはハウスをデザインするのですが、常にハウスの中で営まれる家族やその活動を含むホームをイメージしてデザインをします。ハウスとホームの関係は、都市空間と都市環境の関係に近いように思います。ここでは都市空間を建築や道路、橋などからなる実体的な空間、そしてその空間を私たちのくらしいとなみの場だととらえた場合の言葉として都市環境という言葉を使いたいと思います。

②景観と風景

人いる風景、工学としての景観

私たちは、歴史文化風土的存在としての都市環境の中に暮らしています。その都市環境を私たちの前に立ち現れた姿として理解した場合に、それを風景と呼びます。ここまで、私は景観という言葉ではなく、風景という言葉を使ってきました。景観と風景という言葉の意味は重なるところが多く、本稿でも適宜景観という言葉を用いることもあります。しかし、違いもあります。なぜ風景という言葉を使うのか、景観という言葉との対比で考えてみます。

 二つの言葉の違いを少し具体的に考えてみます。年末のテレビ中継で、年越しそばの準備にあわただしい蕎麦屋の厨房を映しだしたり、神社で新年を迎える準備をしたりする巫女さんたちを映します。その時の決まり文句が「正月を迎えるための年の瀬の『風景』」という表現です。また、年越しそばをうっている職人さんの作業「風景」とは言いますが、作業「景観」とは言いません。景観に人が加わった時に、その総体を描写する言葉として風景が用いられるのではないでしょうか。都市空間の中に人を容れて考えるのが都市環境でしたが、都市環境のたち現れた姿を表現するのは風景という言葉がふさわしそうです。

 また先ほどの年末のテレビですが、年の瀬の「あわただしい風景」という言葉も常用されます。また廃校になって誰もいない教室を写す映像には「さみしい風景」というコメントが付きます。さみしい「景観」とはいいません。

 あわただしいとか、寂しいというのは見ている側の主観です。都市環境の姿を主観との関係性の中で描く言葉が風景だと言えるのではないでしょうか。風景は心象風景や心の風景といわれるように、見る側の気持ちや状態も包含されています。景観は見る人により変わるものではないとしても、風景は時間や状況によって異なるものになります。人生の転機に見た「忘れられない風景」という表現もあります。何でもない景観でもある人の思い出の中では大切な風景になります。

言い方を変えると、風景というのは、見られるものが、見る人の心もちと反応して立ち現れてくるものといえます。風景は客観的に固定化して記述することはむつかしく、見る人の心に結像するものです。人と環境との応答の中で形成される心的な風景「体験」と考えることもできるでしょう。

 景観は(言葉自体は翻訳語で、景を観るという字を当てているので、見る主体も含む概念ですが)一般的には、主体から見られる側の、対象物を記述するときに用いられます。主体と対象物がきちんと分かれているので「景観工学」という工学の一部門にもなります。都市「空間」の立ち現れた姿を景観と呼ぶと考えてもよいでしょう。景観ではなく、風景という言葉を使うということは、時間の中で、また身体性をもつ人間という視点から暮らしのすがた、すなわち都市環境を考えていきたいという気持ちを込めています。

 

風景は社会の文化を投影するもの

 風景は主体があっての体験だとすると、主体の側のそのまちや地域に対するこれまでの経験や知識の深さによっても風景体験の質は異なってくることになります。

 例えば、鶴岡を含む庄内地方には芭蕉の足跡が多く残り、観光名所にもなっています。人々も芭蕉と同じ場所を訪ね風景を追体験しようとします。景色を楽しむだけでなく、景色を前にして歌枕や先人の思いを追体験するのだと思います。当然ですが、芭蕉と同じ風景体験をするには、多くの知識や経験の蓄積が必要となります。同じ文化を共有している人は、ほぼ同じ風景を共有できる。逆に言うと文化を共有していない人には、その現場に立っても風景の共有は難しいともいえます。

 このように考えると、風景というのは同一文化集団の了解事項ともいえます。風景という見方には、個人だけでなく集団としての、私たちの生活様式や価値観、文化が投影されています。

 体験されている風景は歴史文化的所産としての環境なのです。そこに込められた意味や物語が、風景の深みとなり、同時に私たちの暮らしを文化的に豊かにしてくれるといってもよいのではないでしょうか。自分たちの環境を考えるときに風景としてとらえるということは、自分たちの環境の中に、歴史的なものや、そこに関わってきたもろもろの物語も一緒に考えようということ、文化的に環境の姿をとらえようということの裏返しとも言えます。

 

人間のよりどころとなるもの、地域のアイデンティティと切り離せない

 人間は環境の中で育ち環境との応答を通して、世界の認識方法、自己と環境あるいは他者との関係性も身につけます。従ってその環境の認識の仕方、環境体験である風景も自己形成に大きくかかわっていることになります。言葉、言語と同じように、また和辻哲郎がいう風土などと同じように重要なものです。

 人間は風景に自らのアイデンティティを重ねます。人は慣れ親しんだ風景を喪失すると自分のよりどころを失います。数年前、パリのノートルダム寺院が火災で焼失しました。テレビ映像では、人々の悲しむ姿が映し出されていました。それは、歴史的に価値を持つ文化財が失われることの悲しみ以上に、自分が人生の折に触れ慣れ親しんできた風景がなくなっていくことへの喪失感だったのではないでしょうか。そこにいつもノートルダムがあるということが、自分のアイデンティティにかかわることなのです。

 第二次世界大戦後にヨーロッパの多くの都市では、がれきと化したまち並みを戦前の姿そっくりに戻しました。まち並の風景にこそ、自分たちがなんであるのかを確認するよりどころがあるということを示していると思います。

 イタリアの建築家アルド・ロッシは「外部の環境のイメージやそれとの間の安定した関係ということが、集団自身が自ら創りあげる観念のなかで最大の関心事となる」というアルブヴァックスの言葉を敷衍するなかで「都市そのものが民衆の集団的記憶装置である」と述べています(ロッシ、A. 1991p213)。まさに風景(この場合は中心部にある建築と街並み)が、その都市が何であるのかということを思い起こさせる市民の記憶装置であるといえます。戦後の日本のように、建物や道路がどんどん姿を変え消えてしまう場合には、まち並みの風景は私たちのよりどころになりにくいと思います。帰属する意識やシビックプライドは安定して持続する風景からうまれるものです。

 

風景は社会で共有されるもの、コモン材、公共財

 東京駅の話になります。レンガとドームの外観が特徴的な東京駅は、かつて建て替えが具体的に検討されていました。建築学会などが、建築的価値からの保存を訴えましたが、無力でした。しかし多くの人の願いで、残ることになりました。保存に力があったのは、その建物に親しみを感じ、その風景と自分の思い出を重ねる人々の共通の思いでした。東京駅の風景はみんなに共有されるコモン材あるいは公共財になっていたのです。

 このことはヨーロッパのまちなどでは日常的に実感されます。公共空間である街路空間を構成する「壁」はそれぞれの家の私物ですが、この壁は共有空間である街路空間を形作る不可欠の要素です。個人宅の外壁であると同時に公共空間の一部でして認識されている、すなわち外壁がつくる風景がみんなの共有物になっているので、個人が勝手に建物を立て直して外観を変えることが禁じられているのです。多くの人に親しまれている風景は、共有の財産なのです。

 

③地域風景とは

 以上で風景という見方、都市環境のとらえ方について共有できたと思います。

 厳密に定義することはできませんが、風景の中でも、地域の人たちにとって共有され、大切にされている風景を地域風景と呼んでいます。

 「はじめに」で述べたような映画おくりびとの背景となっている鳥海山のような自然風景も地域風景ですが、本稿では、人々が暮らしの中でつくり出してきたものを対象に考えていきたいと思います。すぐに思い浮かぶのは、棚田とともに一体のまとまりをなしている集落や街道筋の伝統的なまち並です。それは人々のいとなみが深まれば深まるほど豊かになる風景です。

 

(2)地域風景の現在

①失われた地域風景

 多くの識者が、かつてはみんなに共有され愛されていた美しい風景が日本の方々にあったということを指摘しています。渡辺京二は外国人の目をとして江戸末期から明治の風景(渡辺京二2005)を描き出しました。また建築家レーモンドも日本の19世紀の街並みの素晴らしさを指摘しています。

 この美しい風景は、明治維新や第二次世界大戦など大きな変革期を経たのちに、1970年代までの高度成長の時代に決定的に失われてしまったことも、多くの識者の共通認識になっています。結果として私たちの眼前にあるのは、「都市には電線がはりめぐらされ、緑が少なく、家々はブロック塀で囲まれ、ビルの高さは不揃いであり、看板、標識が雑然と立ち並び、美しさとはほど遠い風景となっている。四季折々に美しい変化を見せる我が国の自然に較べて、都市や田園、海岸における人工景観は著しく見劣りがする」(国土交通省2003 「美しい国づくり政策大綱」)という風景です。

 

②高度成長の中で何が起こったのか

建築の商品化

 かつて住宅は地元の大工さんが伝統を踏まえた工法で、地元材によりつくっていました。つくるプロセスが共同体の普請になることもありました。まちや、屋敷、農家、長屋等一定の型(かた)や地方ごとの特徴ある形式もありました。

 しかし今や多くの住宅は、企業が供給する商品になっています。商品は工業製品の組み合わせでできています。工業製品は全国共通に規格化されることで性能が保証されます。また工業製品は新しい方が性能が良いので、古い製品は取り替えられます。住宅は消費物となっているのです。

 沿道の商店なども、全国チェーン化する中で消費者の関心を引くように建てられ、一定の収益を上げたのちは、消費者の飽きが来る前に取り換えられていく、いわば消耗品となりました。

 これらの傾向は、自治体も助長しています。最近自治体が行う事業コンペの要綱を見ると「20年間はお貸ししますので、建物を建てて注液を挙げてください。そののちには更地にして返却してください」となっています。建築は、ただの使い捨ての商品です。これでは持続的な風景、地域風景は期待しようがありません。

 

車のための環境に作り変える

 車社会になり、まちは車が活動しやすいように構造を変えてきました。まちを歩くことがなくなりました。車で行き先を認識するには、大きな看板や、主要な交差点などの経路を示す記号があれば十分です。道路沿いのマックの建築自体が記号といえるかもしれません。身体性を持った人間が、目に映るものや音、匂いなどのまちの雰囲気を感じながら、目標に到達する必要はありません。車にはまち並みが不要です。

 また車にとっては距離が抵抗にならないので、場所の特性がなくなってきます。まちが均質化して、場所の意味がなくなるのです。TV番組のブラタモリで体験する「高低差」は車には関係ありません。車でアクセスしやすいかどうかがクリティカルで、川に近いか、歴史的な中心に近いか遠いかなどは関係ありません。風景は均質になっていかざるを得ません。

 ブラタモリのように歩くことが、まちの成り立ちや文化に触れることです。まちのそこかしこに埋め込まれていた歴史や物語も車では体験することができません。感覚を持ち、記憶を持った人が歩くことを通して体験できる場所の持つ意味が希薄になってしまいます。風景も均質化するということでしょう。

 

不燃化・高度利用

 まちを俯瞰的な立場で見る行政からすると、木造で密集した日本の街は危険極まりなく、また効率的合理的な利用がなされていないものに見えると思います。不燃化、高度利用の考え方にはもちろん一理あるのですが、それをめざさないと「遅れたまち」とみなされる、近代主義的な考えです。これにより町の歴史や営みを伝える文化的なものが失われていく速度が加速されてしまったといえるでしょう。

 また大きな建築物はどうしても中央の資本となります。駅前にジャスコという風景は多くの地方都市が経験したことですし、また資本の論理によりジャスコが撤退して空きビルになるというのも共通に見られる風景です。

 

 

自由な個の跋扈

 個人の自由は尊重しないといけないと思います。しかし、この写真を見ると、どうも個人の自由が環境の良さ、心地よい風景の創出にはつながっていないということを強く実感します。

 先年(2022年)亡くなられた建築・都市デザイナーの長島孝一さんがお書きになった文章を引用します。イギリスで、自邸を改築しようとした時に自由にならなかった経験を綴っておられます。

 

 歴史的に個人の自由と権利を至上の価値として尊重し執着してきた西欧市民社会の論理として、どうしてこの事例のように私権無視とも思える判定が通用するのだろう。思うに、市民社会の原理として “ 私権 ” とは独立した絶対的なものではないのだ。市民社会の文脈の中では、無数の “ 私権 ” から成る集合体があり、権利義務を平等に分かち合う実体として “ 公 ”(public)という観念が強く存在する。その “ 公 ” の中で “ 個 ” の権利としての “ 私権 ” は相互間のバランスをとりながら相対的に位置づけられる。これが市民社会の原理である。そのようなダイナミズムの中で公正な判断するのが “ 公 ” の役割であるというのが市民社会に普遍的な “ 心の習慣 ” なのだ。

 

 市民社会の原理についてはイギリスから学ぶことがありそうです。かの国の落ち着いたまち並、美しいまちや集落の風景は、共有されている市民社会の原理に源があるように思います。

 

多くの要素であふれる道路などの公共空間

 電線電柱、ストリートファーニチャー、ガードレール、路面標示などで公共空間が混乱していることは言うまでもないでしょう。

 

法律にも期待できない

 この状況を受けて2005年にできたのが景観法です。また歴史的な環境をまちづくりに生かすためにいわゆる歴まち法など多くの法律も作られているので、私を含め多くの人が風景や景観が改善されることを期待をしてしまう状況が生まれました。

 しかし景観法を含む日本の法制度に過度の期待はできないようです。私の恩師、都市計画家土田旭氏が関係者の協力のもとにまとめた『日本の街を美しくする 法制度・技術・職能を問いなおす』(土田旭ほか2006)という本があります。この本は日本の景観の状況を総合的に考えるうえでの教科書のようなものです。そこから引用しながらいまおかれている状況をまとめてみます。

「明治維新以降、わが国の都市計画、建築規制制度の基本使命」は「日本型近世の街並みを欧米型近代への街並みへと、いかに円滑に変容させるか」ということでした。ここでいう「欧米型近代の街並み」へ変容させるというのは、パリやベルリンの美しいまち並みをつくろうということではなく、既存の木造の「貧相な」まち並みを否定して、外国人が見ても恥ずかしくないような荘厳な建築を並べていこうということです。またこれに合わせて「モータリゼーションに対応していない道路体系については徹底的な改造」が行われてきました。この考え方が、すでにあった伝統的な地域風景をどんどん壊す方向のベクトルを持つことは言うまでもありません。

 この状況を受けて景観法はできましたが、土田が言うには「都市計画・建築規制制度の基本的性格自体が変更されたわけではない」ということです。「都市再開発特別措置法が生まれ、建築基準法の性能規定化と天空率制度の導入などの、まち並みスカイラインの更なる発散を志向し、許容する制度整備が並行して行われる」というように「国のビジョンは・・・統合失調症に陥っている」という厳しい指摘もなされています。

 また「景観法が制定されたからといって、よりよい景観デザインが、より高度利用を図るデザインに常に勝利できるようになったわけではない」という指摘には着目すべきです。理由は「景観法による景観計画の内容は、建物の高さや壁面の位置、外壁の色調などの単純かつ概形的な要件」のみになっており「実際に良好な景観の創出に到達する作業は、個別のデザインが受け持つしかない」からです。とすると状況は景観法依然と大きくは変わっていないのです。

 

まとめ

 下のような風景が私たちの現前にあります。

  • 時間の蓄積がなく深みのない風景
  • 土地らしい味わいや地域らしさのない風景
  • 調和がなくバラバラなのに無個性な風景
  • 町の濃度差がない中心を失った風景

 

(3)地域風景をデザインする

①都市デザイン/地域風景デザイン

 以上のような状況を受け、地域風景をデザインするということは、私たちの暮らす都市環境に働きかけて、少しでも魅力的で個性的な地域風景をつくり出していこうということです。もちろん、いいものについては守り、育て、そして必要に応じて新しいものを生み出していくということになります。

 都市環境に働きかけるという意味では、都市デザインという活動があります。

 都市デザインについて簡単に復習します。19世紀半ばに生まれた近代都市計画や20世紀初頭から並走するモダニズム建築や都市思想は、都市環境が歴史的、文化的また風土的存在であるということをひとまず棚上げして、インターナショナルで機能優先の都市空間づくりに励んできたといえます。その反省のもとに、都市空間に再び人間を置き、歴史的文化的また風土的存在としての都市環境を個性的魅力のあるもの、誇りをもてるものにする活動が20世紀後半からの都市デザインだったというのが私の理解です。

 都市デザインが扱うべき課題や目標は地域、時代によって変わってきました。しかし、人間を中心に据えるということと、歴史、文化、風土的存在として都市環境をとらえるという基本認識は根底にあり、変わらないものだと思います。都市デザインとは対象となる広がりや場所における時間の流れや、文化の繋がり、そして風土が積み重ねてきている文脈の中で、良いものを守り育て、必要に応じて新しいものをそっと丁寧につけ加えていくという行為だと思います。その態度は、都市スケールから建築のスケールに至るまで共通です。

 都市デザインは、市民や自治体と様々な分野の専門家が協働して取り組むべきものです。私のように、建築設計を専門とするものは、都市「環境」の「空間」構造、成り立ちを考え提案することを通して都市デザインに関わります。

 風景とは、都市環境の立ち現れた姿ですので、私たちの地域風景デザインとは、都市環境を風景という側面からとらえたデザイン活動であるということができます。

 地域風景をデザインするうえでは、地域や都市スケールから建築やストリートファーニチュアに至るまでの総合的な視野のもとで、総合的に取り組んでいくことが求められます。風景に向き合う態度は共通するにしても、主体や方法はスケールごとに違います。例えば地域の風景を大きくとらえる場合には、地形や気候風土の分析など広い視野からその地域の風景の特色を捉えることから始まり、課題を分析し、何を守り、育て、改善していくべきなのかを整理して、実行のための手法の議論を整理するということが出発点になります。そういったことについては、別の機会にまとめてみたいと考えます。

 本稿で扱うのは、建築スケールの小さな風景の改善を積み重ねることで、地域風景をデザインしていこうという試みです。私たちの研究室や私の設計アトリエで扱う対象がおのずと小さなものになるということでもありますが、小さいところから風景を少しずつ変えていくことには大きな意味があるとも考えています。前項の土田旭氏の指摘にあるように「実際に良好な景観の創出に到達する作業は、個別のデザインが受け持つしかない」というのが現実なのです。

 

②小さな風景、個の風景の集合として積み上げること

都市という一枚の絵

 私たちの研究室などで行ってきたことも、一つ一つの建物を何とかしようとする活動の集積であったともいえます。

 いつもは小さなことを扱うがゆえに、建築家や都市デザインナーは、大きな広がりを一枚の絵で描いてみたいという魅力、魔力にとらわれることがあります。20世紀半ばのように、人口も増え、経済も成長するときには一枚の絵でまちをつくることが実際に行われてきました。しかしその「一枚の絵」をかくという行為を槇文彦氏は「都市という一枚の絵」(槇1977)のなかで「これほどロマンティックな暴力行為はない」と戒めています。

 同様なことを、生活者の視点から鋭く指摘し実践でも示したのが1950から60年代のJ. Jacobsだと思います。彼女は、モダニズムの建築家や都市計画家が、全体を俯瞰する立場から機能的で効率的なシステムとして都市を作り変えようとしたことに対して、人間の視点、あるいはストリートにいる一人の人間の視点から、NOを突きつけました。まちの中で繰り広げられる人と人とのつながりなどを大切にすることから、モダニズムの都市計画を否定したのです。

 またJacobsは私たちが暮らすまちや都市をどうとらえるかという点でも、都市はOrganized Complexityであり、そんなに簡単に分析して解が得られるような単純な代物ではないということを分析しています。同様にC. Alexander複雑な有機体である都市空間を「建築家として設計してしまおう」ということに対して、そもそも人間の能力的に不可能であることを数学的に証明しようとしました(『都市はツリーではない』)。B. Rudofskyの『建築家なしの建築』なども、建築家の一枚の絵に期待してはいけないことを、指摘したといえるでしょう。

 

藤沢周平の視点

 庄内の生んだ小説家藤沢周平が、故郷の風景について語った文章があります(藤沢周平2005)。氏は、生まれ育った「見馴れた風景の中に、ごく近い将来高速自動車道が割りこんでくること」(下線は引用者)に対し危惧を表明しています。

 氏の小説の舞台となっている鶴岡城下-海坂藩-の風景(この場合は実際のものではなく氏の心象風景)は彼にとって終生変わらぬものであっただろうと思われます。その一方で、現実の鶴岡が都市活動により日々変貌することは認めざるを得ず、高速道路もその一例です。しかし、地元の人々の営みの結果で風景が変わっていくのではなく、高速道路のように、その土地の歴史や文脈とはまったく無関係な侵入者によって風景が変わることに対して、抑えがたい感情があったのだと思われます。

 藩のお家騒動などを、全体を俯瞰する立場ではなく、そのなかで翻弄される一人の生身の人間を通して描き出したのが藤沢氏です。高速道路をつくるにも実際にその場に立って、一人の生身の人間として道路を捉える視点がないことにいらだったに違いありません。その視点こそ、風景体験の場としてまちの環境をとらえる視点であり、個人の風景をまず大切にし、その集合として環境の在り方を考えていく視点だと思います。

 風景の回復を考えた場合に、まちや地域全体を俯瞰して、戦略を練ることも当然必要なことです。しかし同時に上記のような、一人一人の心の風景、日常生活の風景の集積で私たちの風景が成り立っていることを忘れてはならないと思います。ここに地域風景を再生する手掛かりがあると思います。

 次章からは、私たちの実践を交えながら、地域風景を回復、創造する試みについて述べます。

高谷時彦 建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI  architecture/urban design

設計計画高谷時彦事務所


団地の近隣センター巡り 車返し団地

2023-04-10 20:29:08 | 建築・都市・あれこれ  Essay

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かみさんの趣味は団地の近隣センター巡り。いつもは私の運転で、多摩ニュータウンに行くことが多いのですが、この週末は、府中の車返し団地を訪れました。実は子供たちが小さい頃はここに住んでいました。・・・よかった、私たちが住んでいたところはまだあります。

高層賃貸棟の足元に、目指す近隣センターがあります。

団地の中では最も駅に近い部分、誰もが通過する場所に設けられているのでしょう。

勤労者のための計画的な大規模集合住宅群としての団地は、日本の場合20世紀に入ってから同潤会や住宅営団に始まり、そして戦後の住宅公団で大規模に展開されたということでしょう。私の場合、大規模に計画的に作られた住宅地やまちが、今どのようになっているのかについて関心があります。住宅地やまちは大なり小なり「計画的」に作られるものでしょうが、面的に、かつ一気につくられたものは、だれかの「設計」になる、言い換えると誰かの頭の中にあったものが「製図版」のうえで、図面になることを通して生まれたものだと思います。製図版のうえの図面が、形となり、そして人々の生活の器としてどのように働いているのか・・・そのあたりへの関心です。とはいえ、その分野を研究しているわけでもないので、行き当たりばったり、かみさんの指示に従って車を運転しているだけですが、今しばらく団地あるいは近隣センター巡りを楽しみたいと思っています。

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko Takatani

architecture/urban design

 

 


生まれ変わった鶴岡まちなかキネマ

2023-04-02 16:37:40 | 建築・都市・あれこれ  Essay

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週末を利用して、再生オープンとなった鶴岡まちなかキネマに行ってきました。まずは金曜日のレートショウ。鶴岡出身の富樫森監督の「息ができない」。確かに題名通り、重いテーマで、見るほうも知らないうちに息を止めてみてしまいます。しかし映画が終わった後に主役の俳優さんが二人登場してのトークショウは笑いのあふれる明るいもの。新生まちキネの若い支配人Sさんも加わります(写真中央)。

この映画は、若い俳優さんたちの発案での自主製作映画だそうです。庄内ロケです。さらに映画のプロモーションのため、主役の俳優さん2人で庄内のおいしいお店とそのオーナーさんたちを訪ねる小作品をつくっています。「息ができない」が上映されたキネマ4には、その小作品に登場する若いオーナーの方々も来られていました。いつもなかなか若い人の姿をまちキネで見ることはないのですが、お客さんの層も少し違う感じがしました。映画を地域でつくり、地域で支えるという新しい映画製作の方法、考え方を知ることができました。やはり若い力ですね・・・新生まちキネを支えるのは。

下の写真は翌日、土曜日。昼間に富樫監督も舞台あいさつをされるということで、駐車場もぎっしりのお客さん。

私は、所用があるので舞台挨拶はパスするしかありません。朝の少し早い時間に、「エンドロールのつづき」を見てきました。「ニューシネマパラダイス」のインド版だというコメントがありましたが、まさにその通りでした。監督の子供時代の物語のようでしたが、ちょっと「スタンドバイミー」のようなシーンもあったり、映画愛がいろんなところに散らばっている映画です。サタジットレイやオズの名前も出てきます。サタジットレイといえば、岩波ホールを思い出します。岩浪ホールがなければ、日本でサタジトレイはあれほど人気にならなかったでしょうね。ミニシアターのパワーを改めて思い起こします。新生まちキネもそうなって欲しいものです。

この後、たまたまあった方に、恵比寿屋も、少しだけ改装したので見てくださいと言われ、久しぶりに中に入りました。2階も床が張られていました。

1階は本屋さん。

ここでも若い方たちのパワーに期待ですね。恵比寿屋に関する資料を見たいと頼まれたので、図面や解説をまとめた資料をお送りさせていただきました。いい方向に行ってくれることを祈っています。

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko Takatani

architecture/urban design