まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

鶴岡市立藤沢周平記念館(english)

2011-04-29 21:35:46 | 公共建築 Public architecture

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Fijiswa Shuhei Memorial Museum in Tsuruoka

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Fujisawa Shuhei and his home town Tsuruoka

Fujiswa Shuhei is one of the most popular novelists in Japan. He was born and brought up in a small castle town Tsuruoka. He loved his home town and cultural tradition of this region as long as he lived. When he died 13 years ago Tsuruoka city decided to build the museum in memory of him in the heart of the castle park which he loved and wrote about many times. 

When I stood on the site I thought it important to provide harmony with the beautiful surroundings: old pine trees, historic buildings and the remains of the castle site. And moreover I realized that the museum should have something to do with cultural and regional tradition the novelist loved and wrote about. I resolved to adopt the traditional and regional way of construction and town planning for the design of the museum (see Fig1). 

Sayado system of construction

Tsuruoka is snow country and so we can see a Kura(storehouse in Japanese traditional style) enclosed in a protective structure called Sayado (pod hall). Following this traditional way of construction we enclosed the solid box in RC structure which contains collection room and exhibition hall in Sayado (pod hall) in steel structure. We could keep the collection room and exhibition hall in a required condition even if there were no air conditioning facilities.

The surface of the solid box is finished with plaster as Kura is. The inner surface of Sayado is covered with louver made in cedar wood of this region.

Hall and hallways oriented toward the distinctive objects 

When we are walking along the street in this town we can see the distinctive mountains dead ahead. This castle town was built 400 years ago on the principle that all streets should be oriented toward some holly mountains on the outskirts of the town. As for the museum, hall and hallways were oriented so that we can see ahead the cultural assets around the site. That is to say we considered the hallway as street in the town the novelist walked along.

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産業文化遺産で映画が楽しめるまち 鶴岡

2011-04-24 22:06:05 | 講義・レクチャー Lecture

東北公益文科大学・公益総合研究センターから『産業文化遺産で映画が楽しめるまち 鶴岡』(平成22年度庄内開発協議会地域づくり支援事業)が出版されました。

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これは、3月12日に行われる予定であったシンポジウム「社会を変える公益ビジネス-地方都市の再生をめざして-」の講義録としてまとめられる予定でした。シンポジウムの会場は絹織物工場であった㈱松文産業旧鶴岡工場を再生活用した映画館、鶴岡まちなかキネマ(㈱まちづくり鶴岡)です。      

      

大地震の翌日に予定されていたシンポジウムは中止となりましたが、上記の冊子は私たちがシンポジウムで伝えたかった3つのテーマを3人で分担執筆したものです。出版作業に当たっては公益総合研究センターのスタッフの皆さんが奮闘してくれました。編集デザインは社会人院生の高城豪です。

       

私は、1、2章で地域の歴史・文化をつたえる絹織物工場がどのような経緯で映画館に生まれ変わったのか、その経緯を、その元になった革新的なアイデアや建物の価値などと共に伝えたいと思いました。

    

一部、建築的な詳細に入り込んでしまう部分もありますが、会場がまちキネのシネマ2であったため、木造の骨組み(小屋組み)を見あげてもらいながら、理解していただくつもりでした。地域を牽引した絹織物産業の遺構を映画館として楽しめるということの意義を共に考えたいと思っています。

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第3章では、國井美保研究員が㈱松文産業鶴岡工場に関わる人やくらしを、聞き取り調査や古い写真からひとつの物語としてつむぎだしています。

     

4章は、私たちが歴史的建築、歴史的建造物を考える上でいつも学ばせてもらっている工学院大学後藤先生の手を煩わせました。

      

日本だけでなく世界的な視野で、産業文化遺産がどのように扱われてきたのか、また日本は何を学ぶべきなのか、更にはまちキネは世界の潮流の中でどういう位置づけにあるのかという点についてお話をいただきました。本来は鶴岡市民の前で講演いただく予定でしたが、國井研究員と私の前で小講演会を開いてもらい、私が記録させてもらいました。

      

ところで最近深谷を訪れる機会があり、深谷シネマの竹石さんを訪ねました。七つ梅の酒造工場あとにできた映画館はそのアプローチ、中庭など大変素敵なものでした。深谷も中心市街地空洞化の課題を抱えていますが、映画館がその運営体制なども含めていろいろな意味で地区再生の核となるに違いありません。

        

古い建物の映画館といえば、上越市高田には明治建築が映画館(高田世界館)としてがんばっているそうです。時間が許せば、どんなものなのか覗いてみたいものです。

     

まちの中でぶらっと映画を楽しんだ時代は終わりました。むしろ映画を見ることが特別の体験になってきているのが現代の状況でしょう。それはそれでしょうがないと思いますが、映画館で映画を見る楽しみ、しかも地域の歴史を伝える産業文化遺産で映画を見る贅沢を鶴岡の人たちに十分満喫していただきたいものです。

     

     

         


わかりやすい建築(ソウルから)

2011-04-21 17:38:49 | 海外巡礼 Asia America

先日のブログで藤沢周平記念館における「外延の焦点を手がかりに建築を組み立てる発想」について説明しました。

                   

 

われながら回りくどくて言い訳がましい説明であったという気がしてきます。かつて大谷幸夫先生は「建築は雄雄しくあるべき」「言い訳は必要ない」というようなことをおっしゃっていたように記憶しています。

 

先ごろソウルを訪れる機会がありました。大変わかりやすい建築に、素直に感動しました。

         

最初は梨花女子大のキャンパスセンター。ドミニク・ペロー。

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緩やかな丘をゆったりとしたスロープが切り裂きます。

底にいくと今までにない体験。かなりの迫力です。

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中に入ると、堂々たる長いギャラリー状の吹抜け。

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学生たちは自由に勉強の場所を見つけています。実にわかりやすく、そのダイナミックさに感動しました。

続いて、三星LEEUM美術館。

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ジャンヌーベル、コールハースに囲まれてマリオボッタのエントランスホールと博物館。

中に入ると、上からの自然光に導かれて入り口に足が向かう。

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中は、光と影の抽象的な空間。

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大変わかりやすい空間。そしてありそうで今までになかった感覚。

このわかりやすさこそ、嬉しい。

 


山あての思想

2011-04-20 16:09:34 | 建築・都市・あれこれ  Essay

一昨日は大変良い天気でした。

月山です。

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鶴岡のまちなかからも羽黒の山々が眺められます。まちなかから見ると郊外から見るよりも大変近くに山が見えます。ある種の額縁効果です。

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鶴岡のまち割が、周辺にある高い山、神聖な山を目印に方位付けられていることは良く知られています。佐藤滋先生が研究の中で「山あて」という言葉で紹介されたのが、きっかけだと思います。

      

わたしは、鶴岡のまち割りに見られる「周囲にある大事なものを手がかりとして空間構成の骨格を定める」という山あて原則を藤沢周平記念館にも応用しようと考え実行しました。

      

展示室前のロビーの正面には史跡である土塁が正面に見えます。そして、高い吹抜けのあるいわばこの建物の唯一の晴れやかな場面をつくるギャラリーの正面には大正の歴史建築大宝館が見えます。

      

しかし最近、ある方から「それぞれに見えるものが近くにありすぎて、山あてとしての効果が十分でない」というご指摘をいただきました。なるほど山あてを景観設計手法と捕らえればその通りだと思う部分もありますが、一方では、私の説明が上手くなかったことにようやく気付かされました。

      

少し長くなりますが、私の意図を補足します。

      

(鶴岡城下のような)まちをつくるときデザインの対象はまちそのものです。多くのヨーロッパの町では、デザイン対象であるまちの中に中心となる何かがつくられることが多いといえます。例えばローマ植民都市を起源とする都市では中心部に塔と広場があることが一般的です。彼らは都市を建設するときにまずまちの中に確かな中心を定めるのです。彼らにとってはまちは、人間と神の秩序が支配するコスモスです。城壁の外にあるカオスとは違う世界です。

       

それに対して日本ではどうでしょうか。江戸のデザイナー(昔は殿様自身がデザイナーでしょうか。あるいは普請方、作事方?)は、中心を定めるのではなく、デザイン対象であるまちから遠く離れたものを手がかりとしてまちをつくりました。城下というコスモスをつくろうとしているはずですが、その手がかりは人知の及ばないカオスの世界に属すると(西洋的思考では)思われている山々なのです。

       

デザイナーにとって、確かなてがかりになるのは自分たちでつくろうとしている構築物=まちではなく、人間とは関わりなく存在している山などの自然物だったのです。これは自然物に対する信仰心や畏敬の念にもとづくともいえますが、同時に自分たちの構築するものに対する一種の諦念のようなものの存在にも思い至ります。まちという構築物は人間に捧げるものではなく、なにか遠くにある崇高なものに捧げられたものであるかのようです。

       

遠くに見える山が道路の真正面に見えるというのは大変素晴らしい景観設計手法ですが、その背後にあるのは自然/構築物あるいは人間/自然というものに対する日本人の深いところにある心性だということも理解される必要があると思います。

       

私は、藤沢周平記念館の敷地が与えられたときに、史跡であふれるこの場所に新たな中心をつくることはふさわしくないように思いました。むしろ、江戸のデザイナーがそうであったように、自分自身のつくるものではなく、今までも自分とは関係なく鶴岡庄内の風土の中で静かに存在してきた確かなものに、空間構成の骨格を委ねたいと思いました。それが、土塁や大宝館、荘内神社を外延の焦点として共用空間を組み立てた理由です。

       

「山あて」手法を援用した意図は以上のようなものです。

       

ただ以上のような回りくどい説明をしなくても、「日本の建築は庭を眺めるためのものです。お寺に行くと皆さん建築ではなく庭を見ています。座敷に通されると客は庭をほめます。それに倣い廊下やホールからは周りの緑や歴史的建築を眺められるようにしました」という一言で済むのかもしれません。

       

藤沢周平記念館の設計を進めて行く上では、「日本建築であってほしい」という強い要望をしばしば聞きました。今こうやって振り返ってみると、その設計手法が日本的であったのかなという気もしてきます。