まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

Lec.4 場所の文脈を知る:土地に根差した風景

2023-06-08 17:48:14 | 地域風景の構想 design our place

Lec.4 場所の文脈を知る:土地に根差した風景

1.地域らしい風景

 前章では、私たちの廻りにある建築を長く使い続けていくことや新しくつくる場合にも長く地域で愛されるものをつくっていくことの大切さを述べました。長くそこにあり、風土の中で人々の暮らしと関わっていくことが、建築が地域風景の一部となるには必要なことです。

 本章では、長くそこにあり大切にされる建築であるための一つの方法として、地域の文脈に十分配慮しながら、つくっていくということについて考えてみます。

 

土地の自然的条件や、場所の歴史、文化的な特性を考慮すること

幹線道路沿道のチェーン店やコンビニの風景は、日本中どこに行っても同様です。また郊外の住宅地にも、同じような新建材を張り巡らせ、前面に車が駐車する光景が広がっています。どこででも同じように見える常に「新品できれいな」風景には、深みや味わいが感じられません。

しかし注意深く目を凝らしてみると、地域にはそれぞれの歴史がありそれはその自然的条件と深く結びついています。またそれぞれの地域には、産物があり、それを生かしたいとなみや、その容れ物としての建築の連なる町並みがあったのです。そういった、自然風土の特徴や歴的な営みのもたらした痕跡などはどこかに刻み込まれており、そういったものに配慮することを、土地や場所の文脈(コンテクスト)を読むと表現します。私は、文脈を丁寧に読み取り、取り入れるにせよ、対比させるにせよ、きちんと文脈と向き合うことが、地域風景につながる建築に至る一つの方法だと思っています。

 

モダニズムは土地や場所からも自由

20世紀初頭に生まれた建築のモダニズムは、2つの自由を建築家に与えたと思います。一つは、定められた様式からの自由です。幾何学に基づき、建築家は自由に線を引く自由を得ました。さらにモダニズム建築は機械(自動車)と同じように土地の制約から自由であろうとしました。コルビュジェの提唱した「近代建築の5原則」の一つピロティは土地の持つ様々な条件や制約からの自由を象徴しています。土地から自由になり、ユニバーサルにとらえることで、陸屋根の白い箱の幾何学によるインターナショナルスタイルはCIAMの機能的都市イメージとともに世界を席巻することができたのでしょう。

 

新築も地域の一部を改修すること

モダニズムをの洗礼を受けた設計者は、土地の制約や様式の制約から逃れ、自由な造形を展開したい、また独自の造形的オリジナリティを織り込みたいという思いをいだきます。その思いは大切にしたいと思います。しかし同時に、新築ではあっても少し俯瞰してみれば地域環境の一部修復であるという意識も大切だと思います。

部分の修復と考えれば、部分を包摂する全体や、隣接する部分がどのような文脈を持っているのかが気になります。何もない更地、タブララサに線を引くうえでも、全体のことを十分に勉強しておく必要があります。隣との関係も大切にしないといけません。土地に刻まれた歴史や地域の様々な特徴を知り、レスペクトしたうえで、設計者の腕を振るうことが、建築としての豊かさを獲得することにつながると思います。そこには新たな個性や土地らしさ、ひいては地域風景が生まれる可能性も生まれるのではないでしょうか。

 

2.どうやって土地や場所の声を聴くのか

(1)土地には霊が宿っている

土地には霊が宿る

土地は地形の一部であり、自然とつながるものです。気候、風土が生み出したものとも言えます。その土地の上に積み重ねられた人々の営みが、その場所の風景を形作っています。自然あるいは大地の一部としての土地には、先人の思いや活動が刻まれており、私たちは父系を通して、その歴史や物語を読み取ることができます。

土地には霊が宿るという考えは古今東西の文化に共通です。私たちは建築をつくるときに地鎮祭を行います。土地の神様に挨拶するのです。設計者は地鎮祭の折に、神様に聞こえるように「声を上げて」神事を行います。また棟上げの時も大工は大きな声で天に向けて報告します。

迷信と片付けることも可能ですが、建築やまちづくりにおいて、土地の声に謙虚に耳を傾けることが、様々な意味が多重に満ちた、より深みのある風景づくりにつながるように思えます。

 

(2)まちの中はコンテクストがあふれている

場所の意味を希薄にする車での移動

車の移動を前提にすれば、土地の微妙な高低差や、土地に刻まれた歴史や物語は体験できません。車で移動しているときにその身体感覚でその土地とつながるのは難しいでしょう。ましてやカーナビで移動している場合はなおさらです。 道端の地蔵がどういう意味を持つのかを考える以前に、車の移動ではそういうものは見えません。

車により場所の差異がなくなってきています。本来人間はその場所との関係性の中で、自分を位置付けるものです。「ここはどこ?」というのは「私は誰?」ということとほぼ同じ問いかけです。しかし現実には場所の差異がどんどんなくなっているのです。

また車の生活では郊外に住んでも中心部に住んでも無関係なので、中心部の意味が薄くなっていきます。また中心部には中心部の佇まい、華やかさがあった郊外にはないものそういう違いがどんどんなくなっていっている。中心部ににぎわいが消えることも深刻な課題ですが同時に場所の意味や濃度感も失われているのです。

車で立ち寄り、店に入ってすぐにまた車に乗って移動することを前提に土地らしさ、地域らしさにこだわると、ともすれば観光施設的なキッチュに陥ります。土産ショップ的な建築となります。

 

歩いて土地のことを知る

土地あるいは地域の条件に向き合いためには、まず歩くことが必要です。一旦、町を歩き始めるとまちはタブララサではないことに気づきます。都市の歴史や、文化的なアイデンティティが刻印されている。

テレビでブラタモリという番組が人気を博しています。まちや地域の来歴や今ある姿の成り立ちを、タレントのタモリが解き明かしていくという筋立てですが、まさにブラっと歩くことで、今まで見えていなかったその土地の記憶を再発見していくことが面白いのです。歩きながら微妙な土地の高低差を感じたり、道がわずかに折れ曲がっていることを発見し、そこに土地の歴史を見るのです。人間の身体性を通して、過去の歴史や文化とつながっているのだと思います。

よく言われることですが、鶴岡や酒田において城下町、湊町の基本構造は変わっていません。もともとまちの構造は地形にも対応しています。また表層に見えるものや、物理的条件だけではなく、人々の信仰や言い伝え、作法、お祭りなどを彷彿させる手がかりが土地に根付いていることもあります。私たちが見ている風景のなかには人々の営みと時間の刻印が押されています。

 場所にこだわった建築をつくるということは、歩いて暮らすまちをつくるということにもつながっているように思います。

 

読み取り方を深める必要性

歩く中で気づくコンテクストもありますが、まちや都市の空間をどのように読み解くのかということについては多くの建築家や研究者の言及も役に立ちます。

建築家槇文彦は、『見えがくれする都市』所収の「都市を見る」という論文においてアメリカの都市学者ケビン、リンチが『都市のイメージ』において提唱し、世界中の建築・都市関係者が用いる都市の読み取り方では、アメリカの都市は読み取れるにしても、日本の都市空間を読み解くことは難しいことを指摘します。そのうえで槇文彦は「奥の思想」において「奥」という空間概念で、日本の都市空間をより文化的に深く読み取ることができることを明らかにしています。同じ本の中で、若月幸敏は、日本の都市がわずかな微地形との対応でまちをつくってきたこと、そして大野秀敏はまちの表層に着目することで日本的な空間の仕切り方や領域構造が読み取れることを指摘しています。また私は「道の構図」と題するエッセイを通して、歴史的な道のパターンの中に、日本的な領域感や空間意識が深く投影されていることを指摘しています。

このような様々な見方により、私たちが暮らすまちの空間の意味がより明確になってくるということだと思います。

同様な研究は、伊藤ていじほかの『日本の都市空間』を嚆矢として、芦原義信の『まち並の美学』、陣内秀信氏の『東京の空間人類学』、文化人類学者エドワードホールの『かくれた次元』など多岐にわたるものです。また『東京の原風景』(奥野健男)や『都市空間の中の文学』(前田愛)など文学者の視点からの読み解きも深く、まちを読み取りたいという時には大変有効だろうと思います。

 

(3)建築をつくることは土地と一体になった新たな環境、風景をつくること

土地のコンテクストを丁寧に読んで建築をつくるのが基本です。ただ、別の見方をすると、建築がつくられることでその建築と土地が合わさって新たなコンテクストが生まれるとも考えられます。

フランクロイドライトは「建築は土地の上に建つのではなく、土地そのものになるべきだ」といっていたそうです。初期のプレーリーハウスを見ても建築が、その土地と一体的な存在感を獲得していることを感じます。アメリカの大草原という地域性がプレーリーハウスを生み出しているともいえます。ライトが活躍した20世紀初頭は、白い箱型のインターナショナルスタイルが時代をリードし始めようとしていた時期です。そのときにあって、彼はまさに土地の条件に向き合い地域の特性にふさわしい、その場所らしい建築を作り上げたのです。彼が生涯に作り上げた300を超える住宅作品のほとんどが現存しているというところにも関係しているのではないでしょうか。

庄内にある土門拳美術館(谷口吉生)も、土地になりきるあるいは土地に根差した風景を新たに作り出しているように思える建物です。鉄とガラスとコンクリ―トを幾何学的な造形で組み立てるといういわゆるモダニズムの建築の方法でも、土地と一体の素晴らしい風景をつくり出すことができることを示しています。

この建築を見ると、建築をつくることは場所の特性に従うだけでなく、場所の可能性、潜在的な魅力を顕在化させることでもあることに気づかされます。

同様な思いをいだくのが、瀬戸内民俗資料館(香川県、山本忠治設計)です。この建物が、海を見渡す丘であるというその土地の特性を浮かび上がらせました。また建築内部を上り下りしながら、歴史的展示品と周辺の自然を同時に体験することで、その土地とともに私たちの暮らしがあったのだという歴史についても考えさせられます。建築は私たちに、土地のコンテクストを教えてくれるものでもあるといえるのではないでしょうか。

 

3.事例研究その1 藤沢周平記念館: 地域の鞘堂建築に学ぶ

 

4.事例研究その2 庄内町ギャラリー温泉町湯:町家建築の共同湯

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design


Lec.4 事例研究その2 庄内町ギャラリー温泉町湯:地域の建築型に学ぶ

2023-05-22 17:44:39 | 地域風景の構想 design our place

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庄内町ギャラリー温泉町湯の説明をします。

・町湯の全景です。

町湯は人口約2万、山形県庄内町の町立温浴施設です。

RC造平屋、床面積は850㎡ですから、公立の温浴施設としては小粒のものです。周辺にある公立の温泉施設は広い敷地をもち田園の中にあります。ここは異なる条件を持っています。

 

第一に

①面積は2140㎡。狭い

②敷地間口、23m奥行きが92mといういわゆるウナギの寝床形状です。

③庄内町の中心部のまちの中にあり隣はショッピングセンターと民家です。ショッピングセンターの駐車場を供させてもらっていますので、入り口は南側にあります。

・町湯の内部です。他の温浴施設とは少し違う雰囲気です。

周辺の広々として景色の良い温泉施設は広い広間や休憩のための和室を何室も持っています。この敷地で同じようにやろうとすると、大変貧相なものになってしまいます。

そこで私たちが選んだのが町家(まちや)というキーワードです。

家屋が密集したいわゆるうなぎの寝床の形状をした細長い敷地をうまく生かす町家の空間構成に学ぶこと。そのことで不利な敷地条件を逆にメリットに変えることができ、近隣の他の施設とは全く違うタイプの都市型のまちなか温泉、町湯ができることを提案しました。

 

 

・これがまちやと町湯の平面構成の比較です。

こちらが町家、こちらが町湯です。町家の第一の特徴は玄関から奥まで、細長い敷地を貫くように「通りにわ」と呼ばれる連続的な共用空間があることです。各部屋はこの「通りにわ」に面しており、「通りにわ」は廊下でもあり、細長いホールでもあります。

通り土間に相当するものが土縁ギャラリーと呼んでいるゾーンです。土縁ギャラリーに沿って店や浴室が並びます。

   

・また町家には、細長い敷地の中央部にたてものに囲まれた「坪庭」があります。狭い敷地の中で光を取り入れ風の抜け道となり緑のある憩いの場となっています。町湯の露天風呂のある中庭は「坪庭」からヒントを得たものです。

また、部屋の中でも脱衣室やサウナ、便所などサービス空間は通りにわに平行に細長く並べています。

・断面図で見てみます。

基本は通りにわである土縁ギャラリーと各部屋に分かれますが、中央にサービス空間があります。お湯などのエネルギーや電気の幹線などはこの細長いゾーンの床下や天井を通っています。細長い建物を3つの細長いゾーンで構成していることになります。

以上が全体構成です。次に各部屋を紹介します。

・土縁ギャラリーです。

通りにわのイメージを継承する土縁ギャラリーは湯上りのくつろぎスペースです。この部分までは無料で入ることができます。伝統的な町家において「通りにわ」は土間でした。土縁ギャラリーをすべて土間にすることはできませんでしたが、一部を土縁(つちえん)としています。

・土縁は雪国の住居で、外(そと)と内(うち)の中間領域にある土の縁側のことです。

光を取り入れるスペースでもあります。

・土縁ギャラリーにはもう一つ大きな特徴があります。それは壁面に沿って30mの長さを持つ、ギャラリーボックスです。ギャラリーボックスはアート作品や本の展示など多様な使い方を想定しています。

 

土縁ギャラリーの東壁は白い壁を背景(地)に木のギャラリーボックスが浮かび上がる(図)という構成ですが、ギャラリーボックスの中には白い箱が今度は図となって浮かび上がります。今度はギャラリーボックス全体が地となるわけです。家具も町湯オリジナルでつくりましたが、ギャラリーボックスとテイストを合わせています。

 

・また土縁ギャラリーの全体は木の印象が卓越した空間です。この時正面にある座敷の白い壁が木の空間の中にある白い箱として目に入ります。このように白い壁と木という少ない要素でもその組み合わせで、多様な読み取りができ、デザイン的にも豊饒な世界を生み出すことができるように思います。

・土縁「ギャラリー」と名付けられているように、他の温泉施設にはないアートに触れられる場となることを願っています。もちろん堅苦しくなる必要はありません。ある人が「お湯で体をリラックスさせた後、ギャラリーアートで心をリラックスさせるということですね」と言ってくれましたが、まさにその通りだと思います。

・この空間は落ち着いてリラックスできる雰囲気となることを目指しました。床は楢フローリング。この下には空気層があり冬には暖かい空気が流れます。天井や土縁側のルーバー(格子)は杉です。絨毯(ラグ)は麻とウールを織り込んだ山形産のものです。

 

・浴室の入り口です。暖簾は地元のグラフィックデザイナーのデザインです。

 

 

・浴室・露天風呂・サウナを説明します。

第一の特徴は、町家の坪庭を継承した中庭(露天風呂)に浴室も脱衣室も面しており、露天風呂のある中庭に脱衣室と浴室が大きく開かれ明るく開放的な雰囲気を持っていることです。

・町湯の浴槽はそれほど大きいものではありませんが、浴室の中央部に置かれています。近年浴槽は眺めの良い窓際に置くというのが定番になっています。しかし町湯では浴槽を中央部に置きました。それは古い温泉にみられるように、湯けむりの向こうに人が見える、浴槽を人が囲むという風景をもう一度つくることが狙いです。

・ちなみに泉質は、弱アルカリ性の単純泉です。27度で毎分100ℓ程度自噴しています。このうち70~80ℓを利用し、源泉かけ流し方式を実現しました。ちなみに排水をそのまま捨てるのはもったいないので、玄関周りの融雪に利用しています。

 

・浴室と露天風呂に共通ですが、肌に触れることが多い部分には檜、少し離れて眺める部分にはヒバを用いています。天井はコンクリートに杉の板目を転写したコンクリート打ち放し仕上げです。タイルと白い天井からできた「清潔でプールのような」浴室とは違う雰囲気をめざしました。

・男女の浴室にはフィンランド式の本格的なロウリュサウナを設けています。

 

・町湯には畳の座敷もあります。25畳の広さがあり、3つに仕切って使うこともできます。

 

 

・この座敷は土縁ギャラリーという大空間に入れ子状に挿入されています。天井仕上げ、建具の高さなどは土縁ギャラリーに倣っているので、ギャラリーの雰囲気と和の雰囲気の融合した雰囲気となっていたとすれば、狙いが成功しています。

 

・町家でいうと「みせ」に相当する部分に食堂があります。

室内空間ですが、南に大きく開くことにより、オープンテラスのような明るい食堂となるようにしました。

・次に外観を説明します。 

町湯は地域の伝統的な建築から多くを学んでいますが外観は現代的(モダン)な手法に拠って作っています。西面、南面では高さはできるだけ低く抑え、水平の軒ラインを強調しています。

・大きな軒の下に座敷や事務室、エントランスホール、食堂をそれぞれに特徴的な仕上げを施したうえで、挿入しています。

(杉の羽目板、縦の杉ルーバー、杉板本実型枠打ち放し仕上げ、コの字型に縁どられたガラスカーテンウォール)

 

・全体を統合する庇と、その下に展開する小さな自律的なボリュームとの対比的な調和を狙っています。

 

 

・北側から見ると西から東へ<3つの層>があることが、よくわかると思います。屋根の形や壁の仕上げで素直にその違いを表現しました。

・狭くて細長い敷地という不利な条件を逆手にとって特徴ある温泉をつくりたいというところから出発しました。また通りにわから発想した土縁ギャラリーを若い人にも来てもらえる多目的なスペースとしたいというのが私たちの願いでした。

・名称は一般公募でしたが、うれしいことにギャラリー温泉町湯という建築的な特徴が反映されたものとなりました。

・「今日は内湯でなく町湯にしよう」「町湯で“あさかつ”しよう」ということでいろいろな世代の方々に使ってもらえる、新しいタイプの温浴施設となることを願っています。


Lec.4 事例研究その1 藤沢周平記念館:風土の記憶を纏う

2023-05-19 16:52:23 | 地域風景の構想 design our place

 

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Lec4:事例研究その1 藤沢周平記念館:風土の記憶を纏う

スライド1

藤沢周平記念館は市民の熱い思いを受け、小説家藤沢周平氏を顕彰する文学記念館として建設されました。

藤沢周平氏は皆さんもごぞんじだとおもいます。最近では必死剣鳥刺しが豊川悦士主演で映画化されていますがこの原作も藤沢周平氏です。・・・・・

 

スライド2

記念館の敷地は彼が愛してやまなかったふるさと鶴岡のまさに中心部、城跡の本丸に決められました。荘内神社、大正の擬洋風建築、大宝館などに囲まれています。

 

スライド3

施設は、RC、S造の混構造の2階建て、床面積930㎡ほどの小振りなものです。これが1階平面図。2方向を参道、南を文化財である大正建築、東を土塁に囲まれています。1階は展示室を中心に周りを事務室などが囲むというシンプルな構成です。2階は収蔵庫が中心となります。

スライド4

私たちは4つのテーマを持って設計しました。1つめは外部環境との調和ということです。参道などに対して圧迫感を与えないために、中央部が高く、周辺が低い凸状の立面を持っています。これは北側の参道から見ています。

スライド5

シルエットで見ると分りやすいと思います。

スライド6

これは北西の角から見ています。松を避けるように、屋根を斜めに切り取っています。

スライド7

これは西側の脇参道から見ています。外壁には地元の杉材を用いています。

スライド8

参道側で松を避けた凹み部分は小さな庭になっています。このように外に対して、あまりあからさまに主張するのではなく、いわば静かな存在感を獲得しようということは、目立つことが大嫌いであった藤沢氏の意志にもかなうものだと思います。

 

スライド9

次に内部空間を説明します。藤沢周平氏は晩年まで故郷庄内鶴岡の風景や厳しい雪国の風土を愛しつづけました。私は庄内鶴岡の風土をかたちづくる空間の原理や伝統的な工法をぜひ現代的に生かしたいと考えました。そこで次の2つのテーマがでてきます。1つは城下町のつくられ方に学ぶというものです。鶴岡のまち割はまち自体の論理というよりも、周辺にある山の存在に対応して、その山にゆだねるように街路の方向性が決められています。

スライド10

この原理を取入れました。内部空間の骨となる廊下やエントランスホールなどは周辺にある歴史的文化的な存在感を獲得しているものに対応して決められています。

スライド11

もう一つのテーマは鞘堂形式を取入れるということです。この地域では大切なものを入れる蔵を杉材のサヤで覆っています。

スライド12

白い漆喰で仕上られた蔵は、黒っぽい杉のサヤで風雪から護られています。

スライド13

記念館では、藤沢氏の大切な遺品を展示収納する白い蔵をこのようなサヤで覆いました。この方式により年中変わらない温度、湿度の環境が実現できます。

スライド14

2つの原理を適用したということを踏まえて内部空間を説明します。エントランスへのアプローチです。外壁を後退させた小さな庭を見ながらアプローチします。

スライド15

エントランスホールから見返しています。内部空間の骨となっている廊下は土塁を向いています。

スライド16

エントランスホールは、荘内神社を臨むように位置しています。

スライド17

背骨ともいえる廊下ギャラリーです。正面に大正建築大宝館が見えます。

 

 

スライド18

左の壁が蔵の外壁にあたります。漆喰で仕上げています。右側の壁と天井は鞘にあたるもので主に杉材で仕上げています。両者を垂木形状の杉のリブがつないでいます。

スライド19

エントランス方向を見返します。右手のどっしりとした蔵を囲む鞘はできるだけ軽やかに表現したいと考えました。

 

スライド20

光は上方から入ってきます。

 

スライド21

最後のテーマは一番重要かも知れません。建物内外で藤沢周平氏と出会う場を自然なかたちで設けるというものです。藤沢周平氏の文学世界と出会うのが展示室です。展示ケースや展示は、トータルメディアさんという展示の専門家によるものです。展示は色々と変わることがありますが、まさに蔵のようにどっしりとした箱をつくりました。吹き出しのグリルはクリ材です。

スライド22

天井は杉材による根太天井のようにしました。無柱空間とするため、梁はアンボンドPC鋼による現場打ちプレストレストコンクリートです。

スライド23

サロンです。ここで出会うのは少年の日の藤沢周平氏です。

スライド24

小学校の頃、この場所にあった小さな図書館の天井まで並ぶ本棚を見たときの興奮を彼はエッセーに記しています。

スライド25

まさにこの場所で少年藤沢周平は本に親しむことを覚えたのです。

スライド26・27

土塁を臨む開口からは、普通に暮らす生活人藤沢周平氏を偲ぶことができます。床に敷かれているのは東京の大泉学園にあった屋根の瓦です。右側に見える黒竹の一部は庭にあったものです。

 

スライド28

会議室からは藤沢周平氏の小説に多く登場する桜が見えます。ここに、藤沢周平氏が手を入れていた庭をそっくり東京から移設しました。

 

 

スライド29

また、時代小説家藤沢周平氏を感じてもらうよう連子格子を彷彿させるデザイン表現も随所に試みました。

スライド30

最初に説明した外壁を後退させた庭も、生活人としての藤沢周平氏と出会う場です。カクレミノ、南天はエッセーにも登場します。床には藤沢家の塀につかわれていた大谷石を敷きました。

スライド31

右手がエントランスアプローチですから、記念館を訪れる人は藤沢周平氏が手をかけた「カクレミノ」を見ながら記念館に入っていくというわけです。森の中に静かにたたずむ小さな施設ですが、現在、月に1万人の方々が訪れています。

 

以上で説明を終わります。


Lec3:事例 日和山小幡楼 湊町の心象風景

2023-05-11 18:52:20 | 地域風景の構想 design our place

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Lec3:ときの中で考えるー奥行きのある風景―

1.時間の中で成熟する風景

2.使い続けることの困難さについて 

3.まちづくりにおける意義

4.何を残し何を変えるのか、建築の価値とは

5.事例研究その1 まちの歴史を語りかける建築:鶴岡まちなかキネマ

6.事例研究その2 湊町の心象風景:日和山小幡楼




1.概要と経緯

湊町酒田の老舗料亭小幡楼、丘の上のランドマーク 

日和山小幡楼は湊町酒田のシンボル日和山の頂上にある老舗料亭です。酒田は西に向かって日本海にそそぐ最上川の北側(右岸)に沿って町割りをされた湊町です。最上川の河口を南に臨む位置に日和山があり、酒田の町割りの起点の一つともなっています。







 その丘の頂に位置する小幡楼は、1876(明治9)年といわれる創業以来、多くの著名人が逗留しただけでなく、市民の宴会場としても親しまれていました。和館の2階には欄干付きの縁がめぐらされており、最上川河口(酒田湊)を見下ろすことができます。眺望の良さから、瞰海楼とも呼ばれ、市街地に近い東から洋館、和館、土蔵が立ち並ぶ姿は湊町酒田のランドマークとなってきました。

しかし時代の波で、1998(平成10)年に閉店。廃墟となっていました。その後アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」のロケ地として一時的に脚光を浴びましたが、時を置かず閉鎖され、酒田市に寄贈されました。

私たちは、市や出店事業者とともに、日和山公園とともに市民の心象風景ともいえるこの建築のリノベーションに取り組み、2021年秋、ベーカリーカフェや市民利用スペースからなる交流観光施設として生まれ変わりました。湊町酒田らしい風景を再び生きたものにすることが私たちの願いでした。



調査開始と活用案の提示

 映画ロケや映画セットの展示で一部は使われましたが、ほとんどの部分は閉店後長く放置されており、腐朽の程度は著しいものでした。天井は落下し、床は何か所も抜けていました。また全体が倒壊する危険性が大きいので、酒田市では、安全性確保のための保全工事を内、外で施していました。離れもありましたが、危険なため撤去されています。

このため2015年頃には、取り壊しを前提に敷地の再整備が検討されていました。市民との意見交換のワークショップも行われていました。市内に残るほかの料亭建築のように贅を凝らしたところがなく、税金を投入して保存するほどの価値はないというのが大方の見方でした。しかし一方では映画「おくりびと」で多くの人に注目されたこの建物を道路に面する部分だけでも保存してほしいという声がありました。

2015年、たまたま機会を得た私たちは、歴史文化的あるいは建築的価値を見極めるための調査を行うことを市に提言しました。市は調査を行うことを決断し、私たちは「歴史文化的・建築的に大変価値の高い建築物であるだけでなく、一定の投資の下で十分市民に望ましい利用ができ、日和山活性化の拠点となり得る」との調査結果を提示しました。市民説明会で了解を得たのちに、引き続いて設計作業に入り、飲食店と市民利用スペースの複合した交流観光施設としての日和山小幡楼の詳細な姿を第一次設計案として描きました。









 


市と事業者の官民協働事業

酒田市は、第一次設計案をもとに飲食店の経営や市民利用スペースの管理をしてくれる事業者を募集しました。幸い3棟と庭を含めた敷地全体を一つの事業者が運営する仕組みができたので、市、事業者と相談をしながら、設計案を修正して最終設計にまとめていきました。

工事はコロナの流行と重なりましたが、2021年秋には湊町酒田のシンボルである日和山のランドマーク、小幡楼が再生され、活用がスタートしました。

 以下、調査時点にさかのぼりながら、このプロジェクトの全容を説明します。



2.現況調査

<洋館>

三層構成の大正建築

 洋館の場所には和館がたっていましたが、次項で述べるように大正11年に改築されています。1階がコンクリート造(無筋)、2階と3階が木造で改築されています。以前は小幡楼の前が市街地側からくるとかなりの急勾配で峠を越えるようになっていましたが、その前面の道路を開削して拡幅する工事があり、それに伴って建て替えられたのだと考えられます。道路が開削されたことに伴い、1階部分は道路から直接入れますが、その背後は土(砂)の中に埋まっています。そのためコンクリート造にしたのですが、当時はまだ珍しい構造でした。今回の調査で、コア抜きのサンプリング調査を行いましたが、無筋であることが分かりました。構造的には大きな問題を抱えています。



外見は洋館、中は和洋の混在

 1,2階は一体で利用されていた洋の設えですが、外観に反して3階は和室です。映画のセットで改変はされていましたが、床の間のある和室が基本となっています。このように外観は洋で中は和、あるいは外観が和で中の一部が洋というのは隣の鶴岡市にある3階だけ建築でも見ることができます。見た目あるいは見せたいものと生活スタイルは必ずしも一致していなかったということです。


本格的なフレンチレストラン

 お店であったとかダンスホールがあったとか言われていましたが、詳細は分かりませんでした。岩浪氏(酒田市教育委員会、岩浪さんには数多くの文献資料や写真資料を提供していただくだけでなく、様々なアドバイスもいただきました)により、大正11年の新聞が発見されました。当時の日本フレンチの最先端であった東京の精養軒(築地、上野)出身の2人のコックさんによる、本格的なフレンチレストランです。現在の酒田フレンチの始まりは1970年代といわれていますが、その前にも本格的なフレンチのレストランがあったということになります。



ランドマークとなることを意識して作られた洋館

竣工時に近い古写真と、現状から往時を推測することが可能です。外観は縦長の上げ下げ窓を持つ立面であり基本的には洋館と呼べますが、和風の瓦屋根が少し軒を出しており、和洋が折衷した形式でもあります。1919(大正8)年につくられ、「大正時代の建物では、酒田に残る唯一の木造洋風建築」(酒田市養育委員会)として文化財となっている白崎医院とも共通性がありますが、白崎医院が日本建築と同様に屋根を庇状に大きくもち出しているのに対し、小幡楼はほとんど出していないことから、より洋風に近いという印象です。また白崎医院が下見板張りで壁全体を一様に表現しているのに対し、一層目がコンクリートで、基壇を構成しており、シンプルではあるものの基壇、中間部、トップという様式主義建築の三層構成を意識しています。レリーフ状に柱を表現したりする古典建築の要素はなく、全体としてはすっきりとしたファサードをつくるモダンなデザインであるといえます。窓下に用いられる菱形の幾何学模様が、当時日本でも流行していたセセッション建築との類似性を感じさせます。

色彩については、古写真が白黒で、また現況としては外壁廻りが完全に改変されていたので直接は分かりませんでしたが、同時期に増築された和館の下屋(中2階)に、なぜか洋館の開口部と同一と思われる窓が残っていました。ここから、塗装の色を推測することができました。緑に近い鮮やかな色で窓回りを塗装していたと推測しています。大正時代の洋館に多く見られる色彩です。

三階建てであり、白い壁に緑色の窓回りという外観はかなり市民の関心を引いたと想像されます。この建物を建てた、小幡直は、まちのランドマークになることを計算していたように思います。

小幡直は、精養軒からコックさんを呼んだほどフレンチレストランに力を入れこみました。精養軒の建物には、チェコ人建築家のヤン・レツルが関わっています。広島の原爆ドームを設計したセセッションの名手です。小幡直が精養軒の建物を見て、自分も酒田に洋風の建物をつくろうと考えたのではないか、そんな想像を勝手にしています。




 <和館>

L字型の平面、小上りや2階座敷

和館の2階に上がるとはっきりわかりますが、和館はみちに対して平行に桁がかかる北棟と、道に直交する南棟がL型に組み合わさっていることが分かります。

 北棟の中央部の玄関を入ると映画おくりびと後にできたフィルムコミッションの事務室があります。板の間でここに2階への階段もあります。玄関を入って左手には料亭らしく小上りの小座敷が2室並んでいます。

玄関から道路に直交しておくに向かうと和室が並んでいます。常連のお客さんはここにも招かれたようです。

その奥には広い厨房があります。この奥からも2階に上がれるようになっています。

 一般のお客さんはおそらく2階を利用していたはずです。広い座敷が北と南にわかれ、L型につながっています。それぞれに床の間がついています。座敷からは欄干越しに港の景色を見下ろすことができますが、今はかなり多くの部分が日和山の麓にできた高層マンションの陰になってしまいました。



 酒田地震以前の貴重な建物

これまで小幡楼は1894(明治27)年の酒田地震で一度焼失し再建されたと考えられていました。しかし、岩浪氏がそれを覆す資料を見つけられました。地震の直後に調査した「酒田震災実査図」です。これによると小幡楼が残っているという表記になっています。

古写真もありました。「家坂徳翠軒」という明治8年頃にできた写真屋さんがあります。この写真に小幡楼が映っています。写真の下の方に船場町がみえます。この家並みから古いことが分かるそうです。したがって小幡楼も明治の初期、中期以前からあっただろうということが推測でます。

南棟の2階からは明治12年の棟札が出てきました。明治13年の七言古詩という古い詩の絵画も南棟の床の間の天袋の戸襖の裏にかかれていました。

明治の後半になって日清、日露戦争を経て日本が自国の伝統を見直すようになります。そのころから贅を凝らした造作に満ちた、のちに近代和風建築と呼ばれる建築群が出てきています。この建物はその前の時期の建物だということです。貴重なものです。



町家を原型にした料亭建築

調査で作成した和館1階の平面図です。玄関から通り土間が奥につながることが分かります。そして玄関から通り土間に沿ってみせ、中の間、茶の間が並びます。この一見複雑な料亭建築は、酒田町家を原型としていると思えます。

左図は小幡楼の平面図です。右側は村田家、酒田に昔あった町家です。町の中心部にありました。

村田家の平面図を左右反転して小幡楼1階と比べてみます。酷似していることに驚きます。酒田町家の特徴である鍵の手の土間。続いて、みせ、仏間。庄内独特の仏様と神様が上下にまつられる部屋です。奥に囲炉裏があります。中の間と呼ばれます。いわゆる2列町家で、町家の典型的な形式です。この建物が料亭建築ではなくて町家を基に増築してきたことが良く分かります。



町家の上に2階を増築

1815(文化12)年に地元の名家小幡家が家作をなしたとの記録があります。料亭は1876(明治9)年創業と伝えられています。

 また現地調査からは、2階床組が、平屋の梁構造の上に重ねられていることから、平屋を残したままで2階が増築されたと推定ができます。前節に述べたように2階の棟から棟札が見つかっているので、2階の増築は明治12年だとわかります。町家形式の平屋部分を明治初期に料亭として使い始めたため、2階に座敷を増築したとすれば、矛盾なく説明できます。

 1898(明治31)年の図面を岩浪氏が発見しました。酒田町長に向けて建物の広さと間取りについての届出です。新築時に出すものではなく、税金などに関係しての現況調査です。辺の長さ(間数:けんすう)が書いてあるので正しい平面を復元できます。図中のブルーのラインが外形です。現状の下屋部分はその後の増築であり、本屋の部分は明治12年にはできていたと推測できます。



増築の仕方

増築の様子を断面図で確認します。

南棟では平屋時代の梁組をそのまま利用して、その上に2階床組みを二重に構成しています。北棟は平屋の梁組はそのまま使えなかったので、2回床組みを新たに組んでいます。酒田町家は村田家もそうですが、通り側に対して棟の高さを下げるという特徴があります。家を大きく見えないようにしたのか、理由はわかりませんが、それはほとんどの家でそうしているのです(玉井哲雄1987『東日本町家建築の系統的把握のための基礎的調査研究』)。これが2階の床の組み方が道路に近い北棟と奥に位置する南棟で違うことに関係している理由ではないでしょうか。



 中2階・下屋

中二階もありました。一般的には料亭だから中二階があると考えます。実際中二階に客席がある料亭は多く、酒田でも相馬楼や香梅咲さんの中二階は非常にいい部屋であることが思い出されます。

しかし小幡楼の場合は、様子が違います。町家でも階高の高い大型のものには中2階に納戸を持ったものがあります。そういったタイプの中二階ではないかなと私は思っています。その町家の中二階に、料亭としての機能拡充のための水周り(便所やふろ場)をつけ加えるために下屋を増築していったのだろうと推測します。


和製マジョリカタイル

中二階の水回りには和製マジョリカタイルが使われていました。マジョリカタイルは19から20世紀の前半にヨーロッパや東南アジアのお金持ちの家で流行ったタイルです。日本はイギリス製のマジョリカタイル(ヴィクトリアンタイル)を模倣して、輸出していました。その輸出品の一部が日本の豪邸でも使われていました。和製マジョリカタイルの詳細は、関西から、研究者である深井先生をお呼びして調べていただきました。タイルは佐治タイル製とメーカーまで判明しました。

洋館の水回りにも同じ和製マジョリカタイルが使われていることから、下屋部分は洋館と同時期に増築されたと推測できます。



 2階の珍しい小屋組み

南棟は伝統的な和小屋であるのに対し、北棟はトラス組の洋小屋です。棟がL字型に折れ曲がる部分で継いであります。

棟札のあった明治12年におそらく、2階の全体を増築(町家である1階に重ねた)したのだと思います。明治期の写真でも南棟と北棟の両方が映っています。

 その後何かの出来事があって北棟を直したと思います。明治12年以降に小屋組を見直すような出来事、何があったのか・・・おそらく1894(明治27)年の酒田地震だろうと思います。酒田地震があって、火災などの被災により北棟部分が大規模な改修を行ったのではないかと考えています。

酒田地震では市内の多くの建物が倒壊し、また大火事によって市内の広いエリアが消失しています。小幡楼も「二十七年の震災以来形勢なく・・・欄干空しく夕陽に鎖す・・・」(『庄内案内記』1905)という記述から、震災により被害を受けて一時期廃業していたことが分かります。ただ完全に倒壊したり、全焼していたりしていたのではないこともわかります。その後明治31(1898)年には営業していたことが分かっています。

この廃業していた間に北棟(少なくとも2階)に手を入れ、小屋組みを洋小屋にしたと考えると、話が合います。すべて状況証拠だけで確たるものはまだ見つかってはいませんが、そういう推測をしています。

  ちなみに、この北棟のトラスを支える梁の構成には大きな特徴があります。小屋を支える桁や中間の梁も平行弦トラスを組んでいるのです。小屋組みを支持する梁に平行弦トラスを用いるのは珍しかったようです。港座という古い映画館が酒田にあります。今の映画館は昭和中期に建て替えられていますが、その前にあった古い港座の建築がこれと全く同じ構造をしています。

酒田地震後、建築学会の人たちが地震被害の調査に来て、「酒田のほとんどの建物は倒壊したけれど、倒れてない建築もある」ということを東京の学会に報告しています。その時のスケッチがあります。大工の名前は「サイトウ某」と書いていますが、これはおそらく聞き間違いで酒田の名工「佐藤泰太郎」のことだろうと思います。報告書は今も学会図書館で見ることができます。

これは私の推測ですが、おそらく地震の後、港座のように堅牢性が確認できた構造形式で、この小幡楼の北棟を修復したのではないでしょうか。



3.再生の方針

フレンチの洋館、伝統の和館、明治の土蔵。それぞれの個性を極め、並置させる再生

フレンチレストラン、伝統的な料亭、土蔵という異色の組み合わせが、料亭小幡楼独自の魅力です。大正時代に、伝統的な和のスタイルの料亭の横に、3階建て洋館のフレンチレストランができた時には、周囲はあっと驚いたはずです。おそらくそれが、女将小幡直の狙いでもあったはずです。高さも様式も違う個性ある3つの建物が対比的なバランスで並ぶ湊町酒田らしい風景として積極的に評価したいと思います。

 改修前の状態は、全体が風化していることで、廃墟的な調和的状態にあったので、そのさびれた佇まいを残すべきとの声もありました。しかし、「洋館、和館、土蔵のそれぞれが輝いていた時代とすがた」を再現することこそが、日和山地域の再生拠点としてもっともふさわしい方法だと考えました。

私たちは調査に基づき、洋館は大正の創建期、和館は2階が増築され瞰海楼となった明治中期、土蔵は明治の創建時を基本イメージとして、それぞれを「らしい」姿に再生することで、小幡楼全体の魅力をつくり出すことを心がけました。一つの様式や時代で統一された調和があるのではありませんが、個性ある3つの建物が並んだ姿が、小幡楼の独特の魅力だと言えます。進取の気風に富む湊町酒田にまさにふさわしい建築のありようではないでしょうか。



飲食を楽しむ場所としての再生

小幡楼は1950年制定の建築基準法以前の建物です。またその後も様々な規定が追加されてきています。したがって現行法には合致していない既存不適格建築になります。現時点で確認申請を出して増改築を行うと、1950以降に定められた様々な規定に適合するように直すことになり、現実的には回収が不可能となります。したがって、確認申請が必要となる用途変更は避け、料亭に類する用途である飲食店舗として活用することを大前提としました。また、建築基準法を所管する県にも相談し、増築は行わず、大規模な改修や模様替えにもならないような改修方法としました。

設計を進める中で、市や事業者の意向により、洋館は甘味喫茶、和館はベーカリーカフェ、土蔵は倉庫利用という方向性がきまり、それ以外の市民に自由に使ってもらう部分も飲食も可能な場所として位置付けられました。結果的に飲食の場であった老舗料亭がモダンな形で飲食を楽しむ場所に生まれ変わったということになります。



それぞれの空間特性と履歴に合った耐震補強、補強をデザインの一部とする

 洋館、和館ともに歴史調査、現地調査を重ね、その特性と価値を生かしながら、新しい機能に対応できる空間づくりを目指しました。耐震補強も空間の特性・価値に対応して発想しています。洋館には耐震用RCボックスの挿入、和館ではRC・S柱列で骨格となるスペースを取り囲むという大規模補強を行いましたが、その姿を洋館、和館ともにそのままデザインにいかしているのが特徴です。





 土蔵は最低限の補修

土蔵も耐震補強を含む大幅に手を入れないといけない状態でしたが、予算上の都合から、外壁などで壁の保護をしている下見板が腐食しているようなところの補修等にとどめ、居室としては使用せず、物置としての活用にとどめることとしました。


 4.再生のデザイン

<全体>

3棟の個性が競い合う外観




<洋館>

コンクリートボックスの挿入、3層から2層へ


 洋館の1階は無筋のコンクリート造です。しかも土(日和山は海岸砂丘なので正確には砂ですが)に埋まっている東と南の2面からの土圧を受けています。このため1階には、耐震補強のために、四角い鉄筋コンクリートの6面体を2階の床を抜いた形で挿入しました。床がないので水平剛性は壁に沿って大梁を鉢巻き状に回して確保しました。そのうえで、2階の床(1階の天井)を抜き、1階と2階で2層分の吹き抜け空間をつくりました。

 1階では耐震補強の壁をそのまま見せました。このがっちりとした壁(RC)の上部に、漆喰のしっとりとした壁と天井のつくる明るい箱(木造)が乗っているという対比をつくりました。歴史の積み重ねをこの2層構成に投影したものです。



和製マジョリカタイルの再生

 洋館や和館の水回りで使われていた和製マジョリカタイルの一部を使って、洋館1階甘味喫茶のブラケット照明をデザインしました。大正時代や昭和初期に流行したセセッションやアールデコの意匠をイメージしたものをつくりました。



和洋折衷の展望プレイス

 小幡楼の外観は和洋折衷です。また洋館単体においても外観はすべて洋であるのに、3階内部は和室という折衷が見られます。さらに洋館3階において部屋は和室であるのに、小屋組みは洋のトラスです。和洋の折衷が幾重にも重なる面白さがあります。

その雰囲気を大切にするため、中心市街地が眼前に広がる3階展望プレイスは、和洋折衷の不思議な雰囲気の場所として作りました。


階段室はメモリアルホールへ

 階段室はほかの部屋のように大きな改装がされておらず、比較的創建時の雰囲気が残っていました。そこで、床のリノリウムなども再現してメモリアルホールとして位置付けました。壁の展示をさらに充実して、この建物の歴史をきちんと伝える部屋にしたいと考えています。



 <和館>

下屋と中2階を撤去して、町家と2階からなる明治の料亭を浮かび上がらせる

町家の中二階(納戸)及び料亭の水回りとして増築した中2階には和製マジョリカタイルが使われていることからもわかるように水回りを大切にした料亭文化の一側面が残されていることは間違いありませんでした。しかし、工事費の面と、日本建築において下屋は本屋(ほんおく)に対するサービス空間であり、本屋をきちんと継承することが大切だということから、下屋や中2階は撤去しました。

この撤去により、町家に2階大広間が増築され、瞰海楼にふさわしい姿となった明治中期の姿となりました。1階においては原型としての町家をはっきりと表現することができました。明治31年の図面と対照できる状態になりました。


 複雑な料亭建築から骨格となる町家空間を抽出して再構成する

 事業者の詳細な業態が決まる前の第一次設計として、和館1階を下記の3ゾーンで再構成しました。

  1. 客席・厨房ゾーン: 2列居室型町家の座敷空間
  2. 通り土間 :モダンで開放的なS造コロネード
  3. みせ土間 :鍵土間を膨らませた新しいみせ空間


 客席・厨房ゾーンは、町家の居室が並んでいるゾーンです。床が張られ基本的には2間おきに間仕切りがあります。この記憶を伝えるために、間仕切りを示す差鴨居を残し、床をフローリングとしました。

 通り土間は、町家における土間の廊下です。この通り土間を鉄骨構造として作り、客席・厨房ゾーンを取り囲むように配置し、地震時の水平力を受けるようにしました。通り土間に耐震要素を集約したので、ほかのゾーンや2階の広間には耐震壁などは全くありません。また耐震要素をそのまま見せるという方針に従い、S柱の並びを見せ、天井もルーバー天井とすることで、明るくモダンな雰囲気として、客席・厨房ゾーンと対比させました。町家的な客席・ゾーンを明るく開放的な通り土間が取り囲んでいる構成となります。

 みせ土間は、酒田町家の鍵土間とみせ(板敷)を一体化して大きな土間空間としたものです。小幡楼ではエントランス空間であり展示空間と位置付けています。この空間も客席・厨房ゾーンと同様に表し天井ですが、現況調査で述べたように、床組みの方式が異なることから、みせ土間のほうが豪壮な農家的雰囲気を感じさせる土間となりました。床は両者とも大判の石風タイルを四半敷きにしています。

 この基本的な3つの空間から成り立つ第一次案は事業者の様々に変化する要望にも十分対応できるものでした。町家空間の持つ、包容力がこのプロジェクトを最後まで進めてくれたと考えています。






瞰海楼の再現

 2階の広間は廻り縁と欄干が取り囲み、そこからの眺望の良さが小幡楼の特徴でした。外壁廻りは大きく改変されていましたが、基本的には、明治時代の雰囲気に近づけることを目指しました。






 

5.おわりに:風景の中に蓄積されていく歴史

 日和山を含む地域を何とか再生したいという市と事業者の熱い思いが功を奏し、2021年のオープン後、多くのお客さんや市民が小幡楼を訪れています。隣接する日和山公園から、小幡楼に向けて歩く人の流れができています。

 風景の中には、その場所の歴史が蓄積されています。瞰海楼としての長い歴史に、新しい時間が蓄積され、風景に奥行きができていくことを願っています。




 


Lec9:事例 鶴岡まちなかキネマ

2023-04-21 15:48:02 | 地域風景の構想 design our place

 

設計計画高谷時彦事務所 Profile  記事一覧へ Lec2へ

Lec9:中心部にコモンズをつくるーもう一つの風景―

事例研究その1 社会的企業が作るもう一つの風景:鶴岡まちなかキネマ

1.概要と経過

絹織物工場を映画館にリノベーションした鶴岡まちなかキネマ

 鶴岡まちなかキネマは、昭和初期の木造絹織物工場を4スクリーンの映画館にリノベーションしたプロジェクトです。計画は2006年に始まり、映画館は2010年にオープンしました。映画館や多目的なイベント会場として地域で親しまれ、建築的にも高い評価をいただきました。しかし、実質的なスポンサーであった地域銀行の体制・方針が変わり、コロナを契機として2020に、運営会社とともに閉鎖。その後市民有志により2023年に一部が復活して、上映活動を続けています。

 

 

中心部の空き地が大問題

2006年、中心部にあった合繊メーカー松文産業鶴岡工場の郊外移転が決まりました。

 

3000坪の遊休地が中心市街地に生まれます。松文産業は明治23年創業の勝山に本社がある合繊メーカーです。昭和7年に鶴岡で遊休化していた大泉機業場を買収して以来、70年以上この地で操業を続けてきました。多くの人がここで働き、工場も地域に溶け込んだ風景となっていました。郊外移転は中心市街地にとっても大問題です。

 

 

活性化の好機会ととらえた銀行頭取

 しかし中心部に「労せずして、3000坪のまとまった敷地が生まれる」のは、衰退しつつある中心部再生の一大機会だととらえた経済人がいます。地元荘内銀行の國井頭取です。東北公益文科大学大学院でまちづくりの研究をしていた私は、國井頭取に呼ばれ、下記スライドのビジョンを聞きました。発想の転換です。既存のS造(壁はRC造)工場を壊さず活用するアイデアもお持ちでした。すごい発想の方だなと驚きました。発想力だけではありません。実行力もお持ちです。

 

木造の絹織物工場を活用した映画館計画

 私は、さっそく頭取のビジョンに沿ってラフな全体計画のスケッチを開始しました。少し時間をいただいたので操業中の工場も見学しました。そこでまず気になったのが、誰もが壊すしかないと思っていた古い木造工場のことです。その時は創業の歴史などもまったくわかっていませんでしたが、木造工場に素晴らしい木造トラスの小屋組みがあることだけは、現場で確認しました。また、S造部分の階高が低く、また重い機械を設置するために柱が増設されていることから、映画館としての大きな気積のある空間つくるためには大きく手を入れる必要があることにも気づきました。そこでこの木造工場を残す案もあるのではないかと思ったのです。私たちは、簡単な模型とスケッチですが2つ案をまず作りました。1つは、木造工場はすべて壊して駐車場にするという案です。もう一つは、最も古い木造工場の2棟を残して、映画館に活用する案です。

 

 頭取の判断は、後者でした。ここから、木造工場を映画館へ、またRC工場を複合文化施設(当初の考え方、結果的には2期以降として存置することになった)にする計画がスタートしました。

「木造絹織物工場を映画館にリノベーションする」という貴重なプロジェクト(残そうとした木造工場が絹織物工場であったことは後の調査で分かりました)が始まったのです。調査を経て計画案の骨子が固まった翌2007年には銀行の後押しや市民の出資により運営会社である㈱まちづくり鶴岡が発足。優秀なマネージャーも得て、事業として着実に歩みだしました。

 

2.調査

腐朽が進行する軸組

木造工場(B、C棟)とS造工場(D、E棟)の両方を対象に、現地調査や文献調査、工場関係者からの聞き取り調査などを行いました。木造工場については、大変腐朽が進んでいることが分かってきました。防音のためにグラスウールなどで覆われているため、わかりにくい部分もありましたが、柱脚など多くの部分が腐朽しており、かなり大掛かりな補修が必要だと思われました。また柱や頬杖を撤去するなど、改変が激しいこともわかりました。

 

S造工場については、溶接部分の信頼性をどう担保していくかの課題がありました。

 

歴史を証言する小屋組み

木造工場においては、既存の天井をはがして中に入ると、素晴らしい木造トラスの小屋組みがあります。2種類のトラスがありました。すべて杉材です。スパンの中央に真束のあるキングポストトラスの部分では水平方向の下弦材は杉の一本もので6間の長いものでした。キングポストより少し古い形式であるクイーンポストトラスの部分もありました。この小屋組みが桁行方向に1間間隔で並んでいます。増築のあとを物語る歴史資料です。

 

 

 

建築年の判明

 工場長や幹部職員の皆さんも木造の古い工場を残すという方針を大変喜んでくれ、文献資料などもいろいろ用意してくれました。そのおかげで、建築年もきちんと割り出すことができました。クイーンポストの部分はやはり一番古くて、昭和7年に買収した大泉機業場の建物がそのまま使われていると判断できます。その後少しずつ増築が繰り返されて今の姿ができているのです。

 

この時点でB棟が第三織布工場、C棟が第二織布工場で、戦時中に軍の要請で羽二重を織っていた以外は1970年頃まで輸出用高級絹や人絹を織っていたことが分かりました。

 D、E棟は古い木造工場がありましたが、昭和33年の火災で全焼して建て替えられたものです。

 

 

 

3.再生の方針

守り継承すべき価値とは

このように調査を経て、B、C棟が昭和初期あるいはそれ以前の構造物を利用した絹織物工場であり、建築史的にも大変価値のあることが分かりました。文化財ではないものの、価値としては同等です。ただ、映画館にするためには、ある意味では大胆に手を入れる必要があります。調査に平行して様々な案を検討していましたが、どの案も大きな改変が伴います。

私は、斯界の第一人者である後藤治先生を大学に訪ねて意見を伺いました。後藤先生の答えは明快でした。「この建物の価値の一番は桁行方向に並んだ柱と小屋組みの構造的システムにある。このシステムのおかげで、自由に増築したり、システムを残したうえで部分改変したりを地元の大工が自由にやれた。それが今日まで残った理由である。このシステムを尊重したうえでの改編であれば、大丈夫、思った通りやってみたらどうか」というアドバイスでした。

 

私は、映画館として改変は伴うものの、構造システムは尊重して行うこと、そしてこのシステムを分かり易く見えるようにすることを根底にして計画案を詰めていきました。

 

 

当初は三棟で計画

 事業性の観点からまずはB、C、Dの三棟をまずは活用することになりました。B、C棟は映画館とエントランスホールそしてD棟は平土間のホールと小さな貸しスタジオ、練習室を持つ文化的な収益施設としました。

 

 

用途は建築審査会でクリア

 都市計画の用途地域としては、住居地域でしたので、映画館のような興行場はできません。このため建築審査会の同意を得て、山形県の許可を得ることとしました。騒音や、交通の影響など資料を作成し、許可を得ることができました。

 

木造の興行場のための分棟

 映画館は興行場です。建築基準法によりネット面積200㎡以上の興行場はできません。私は、防火避難上の別棟にすることを考えました。あえて建物の一部を壊し、RC造の渡り廊下でつなぐのです。結果的に3棟を一つの廊下でつないでいます。この形態は基準法では想定されていないものでしたが、山形県の指導を仰ぎ、適法であることが保証されました。

 

地下に掘ってRC客席を埋める

 1間おきに並ぶ柱と小屋組みをそのまま残すと映画館としての高さが確保できません。小屋組みを壊して補強により上の方に気積を確保することは考えませんでした。逆に地下に掘り下げて、RC造の客席空間を木造柱脚、土台、基礎構造の下に設けました。大変難しい工事となりましたが、現場の皆さんがやり遂げてくださいました。

 

構造補強

 現状軸組の劣化状況を確認し、部材の繕いや取り換えとともに構造補強を行います。構造家の古川洋さんの方針に従って行います。

 スクリーンの間仕切りのある部分では、天井面に相当する面を棒鋼を用いて剛な平面をつくります。そのうえで妻壁と間仕切り壁を変形性能が期待できる合板で耐力壁とします。間仕切り間部のないエントランスホールでは、外部において地中から立ち上げた片持ち柱で水平力を受け持たせるようにしました。

 

4つのスクリーン

 スクリーンの数は試行錯誤の連続でした。当初の頭取のイメージは7から8つでした。行政や寄付金に頼った入り、経営者の篤志によるいわゆるコミュニティシネマではなく、事業性のある映画館をつくりたいという強い意思に基づく判断です。しかし、建築コストや、建築基準法による増築面積の制限(既存遡及を避けるため)で平面計画上から、165、152、80、40の4スクリーン案が浮かび上がってきました。映画パーソナリティの荒井幸博さんのアドバイスも大きく影響しています。スクリーン数が少なくてもこの構成なら事業的にも行ける、配給会社にも納得してもらえるだろう。この4スクリーンと広いエントランスホールを利用していろんな仕掛けを考えていきたいという熱い思いも語ってくださいました。

 

 

 

1期工事を絞り込む

 設計案としては、3棟案でまとめましたが、最終的な経営判断で、1期工事はB、C棟だけで行くということになりました。逆に木造映画館をつくるというテーマが明確に伝わるようになったのだと思います。

 

 

 

 

 

4.再生のデザイン

絹や機織り機をモチーフに

 映画館のインテリアは、絹織物から発想をいただきました。経糸を整える筬のイメージから、平行な糸状のもので覆ってしまおうということです。実際には、コストや施工性のこともあり栂の細い材を並べた縦格子で筬を表現しました。あらゆるものをこの筬優先で収めようと思いました。排煙窓やスピーカーにも工夫をしました。コンセントボックスも筬の背後にあります。

 

 

 また椅子も、シネコンのような既製品ではなく、絹の布のようなしなやかな曲線をイメージしてオリジナルなものをつくりました。映画館の場倍座席や背もたれが汚れた場合に、幕間で交換するのですが、メーカーの方と細かく増段を重ね、そのあたりの仕掛けもきちんと織り込むことができました。背板の材はブナの合板です。

 

 

小屋組みを見せる客席空間

 小屋組みを見せることにはこだわりました。天井現しの映画館はおそらくほとんどないと思います。上映責任者の支配人はスクリーンの光が反射して梁が金あるのではないかと心配でした。そこで、現場で実験をして、大丈夫なことを確認しました。しかし、音場効果については実験できません。音響コンサルタントのかたは天井をつけないと(トラスの下弦材、陸梁が等間隔に並んでいるので)フラッターエコーが出る、NC値の達成が難しいなど心配でした。結果的には、大変良い音場が得られ、専門家の団体からも表彰を受けたほどです。おそらく木材の微妙なゆがみや、間隔の誤差が良い影響を与えたのだろうと思います。

 

 

舞台のある映画館

 たまたま設計中に、大学のまちづくり調査でシカゴ郊外の小都市の映画館を訪ねる機会がありました。小さな映画館は、経営的には苦しいが何とかやってこられたのは、舞台がついていて多目的に活用できたからだとの説明がありました。ケネディ大統領が選挙の時に演説会場にもしたとのことです。訪れた時にも映画ではなく演劇公演のための舞台設営の準備中でした。

私は、まちキネにもぜひ舞台をつけたいと思いました。また客席を地下に彫り込んでいく形式の中でスクリーンに近い側に舞台を設けることは、土圧の軽減という意味でも有効であることに気付き、舞台設置の提案をしました。当時、一円の無駄も省きたい、映画館に不必要なデザイン的な要素なども一切やめたいというのが、事業を運営する㈱まちづくり鶴岡の方針でしたが、総合的な判断力のあるマネージャーは即座に舞台の有効性を理解してくれました。オープン後は舞台を利用しての監督挨拶や、講演会などでも大いに活用されています。

 

光に満ちた多目的のエントランスホール

 エントランスホールでは、継承すべき価値である「1間おきに並んだトラスの小屋組みによる構造システム」を、光に包まれた形で見せたいと考えました。訪れた人たちは、このエントランスホールで木造絹織物工場の歴史的価値を味わうことができるのです。

 

 

5.まちなか文化的コモンズとしてのまちキネ

まちキネ方式の多彩な運営

 シネコン、名画座、地応都市単館、コミュニティシアターと異なる独自の地方都市型映画館を目指し、ミニシアター系からアニメ、大作に至る田尾由奈映画上映、ODSやデマンド上映、ステージを利用した落語会、多目的ホールと連動した映画祭など多彩な運営を行ってきました。

 年間8万人の観客、1億円の売り上げを達成しています。

 

 

 

 

配給会社との信頼関係

4スクリーンをフル活用して1日24上映機会、10から12作品の併行上映を続け、映画館経営に欠かせない中法のすべての配給会社との信頼関係を築くまでになりました。

 

中心部において映画を楽しむ文化の定着

 上映活動だけでなく、広く明るいエントランスホールも大いに活用されました。鶴岡はユネスコの食文化創造都市ネットワークに加盟していますが、食文化と映画をコラボレートした「食の映画祭」の開催会場ともなっています。コンサートや食の販売イベントも行われたりする中で、映画だけでなく多彩な人々が集まり交流する、まちなか文化的コモンズとなりました。鶴岡においては中心部において映画を楽しむ文化が再び定着したといえるでしょう。

 

 

 建築的にも内外から評価され、日本建築学会建築選奨、BELCA賞、LEAF賞ショートリストなどの栄誉に浴しています。

 

 

 

6.社会的企業がつくるもう一つの風景

継承された記憶の風景

 鶴岡は蚕から織物製品までが一貫しつくられる貴重な地域です。かつては多くの織物工場があったのだと思います(松文産業本社のある勝山市には今もそういう風景が残っています)。松文産業鶴岡工場で働いていた方々にも、そうでない人にも工場のあるまちの風景は記憶にあるものです。

この鶴岡で培われた営みの風景を次の世代に手渡すことができました。いつの時点の建築に価値を置くのかとか、オーセンティシティをどこに求めるかということよりも、建築を長い時間の流れの中でとらえていくことが必要だと思っています。この建物を拠り所として新しい映画文化の風景が織り込まれていくことを願うものです。

社会的企業による開発

 以前「もう一つの風景」と題して、ロンドンのコインストリートに生まれたまちの風景を紹介したことがあります(高谷時彦2008)。コインストリート地区は大規模な再開発計画が持ち上がりデベロッパーの「ベルリンの壁(Berlin Wall)案」に対し、地元の社会的企業が「今までの都市の文脈の延長上で、暮らし、営みを守りながら開発する方式」を提案し実現しています。開発業者の提示したインターナショナルなビジネス街の風景に明快なNOを突きつけ、ヒューマンスケールのまちを実現したのです。

 鶴岡まちなかキネマも㈱まちづくり鶴岡(背後には地域金融機関としての使命を自覚した地元銀行)が開発主体にならなければ、まったく違うものになっていたことは明らかです。実際、2020年に閉鎖した後、隣接敷地は大手のドラッグストアに売却されました。実は、まちなかキネマの敷地もドラッグストアや遊興娯楽施設に売却してはどうかという話もあったのです。

 

 ㈱まちづくり鶴岡は國井頭取のアイデアに基づき、市民の出資も得て誕生した社会的企業です。社会的企業とは「公益を目的としながらも、ビジネスの手法を取り入れた新しい非営利の組織形態」(渋川、高谷他2010、p156)です。資本の利益を第一とすれば、映画館を復活するということは非合理な選択です。また映画館をつくるにしても、行政や関係者からさんざん言われたように、木造を壊して安く鉄骨造サイディング張りでつくるという選択になったはずです。しかし、まちの中心部で映画を楽しむ文化を復活させたいという公益のための会社であるからこそ、鶴岡の基幹産業であった絹織物の工場を継承した映画館作りに取り組んだのだと思います。このあたりの経緯は『ソーシャルビジネスで地方再生―地域を甦らせた映画のまちづくりー』(渋川2015)に紹介されています。

 

 

終わりに:閉館、そして再開へ

 しかし、2020年、実質的なスポンサーであった荘内銀行の体制・方針が変わり、㈱まちづくり鶴岡(優秀な社長やマネージャーは銀行からの出向でした)の清算と、映画館の閉鎖売却が突然決まりました。その後再生を願う市民の声が大きく、新たに所有者となった鶴岡社会福祉協議会のご厚意もあり、地元のまちづくり会社が2003年に小さなほうの2スクリーンで映画館を復活しました。現在は私たちも含め市民みんなで応援をしているところです。

 

高谷時彦 建築・都市デザイン

Takatani Tokihiko   architecture/urban design