まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

旧イチローヂ商店は昭和初期の時代と気風の証言者

2013-03-20 15:36:41 | 講義・レクチャー Lecture

内川学Ⅳでは次のようなタイトルでお話ししました(20130202まちキネ:キネマ3)。

旧イチロージ商店の建築的な価値について-昭和初期建築が語りかけること―


<イチローヂ商店の建築的な価値は何か>

旧イチローヂ商店は昭和初期に建設されて以来、橋詰めという都市の特異点におけるランドマークであり、その重要性は多くの市民に共有されるところとなった。しかし、人びとの記憶の対象となってきたのは3階建て部分なので、それだけ残せばいいという意見もある。また旧イチロージ商店の建築自体の持つ価値についての疑問も提示されている。そこで今日は建築的な価値について再整理を試みたい。


<昭和初期の鶴岡山王町、そして時代の証人>


建築の価値は多面的であるが、旧イチローヂ商店は昭和初期という時代の特徴や時代の精神、その時代の暮らしを伝えるナラティブな建築である。そこに価値がある。
すでに、(1)小屋組みが庄内酒田地震(明治27年)後に庄内地方に増えたトラス構造を用いていること、(2)当時の時代の潜在的な欲望-眺望-の場として3階建てが理解できるという二つの視点は説明した(内川学Ⅱ)。


今日は第3、第4の視点を提示したい。まずは和と洋の対立と共存という視点から旧イチローヂ商店がその時代を雄弁に語ってくれる建築であることを確認しよう。


<和と洋の相克の歴史の一断面として旧イチローヂ>


旧イチローヂ商店は2階建ての既存和風建築に3階建ての洋風建築が増築されている。内部を調査すると和風建築の上に構造的には無理のある、いわゆる「おか建ち」で3階が乗っていることが分かる(内川学Ⅱ)。外観は和風と洋風がアンバランスのまま並置されている。このアンバランスの中にこそ建て主の思い、山王の町衆の気風、あるいは時代の精神が表現されているのだ(図-1)。

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<和と洋の共存、使い分け、融合は建築界の明治以来の大きなテーマ>


その話に入る前に少し歴史をさかのぼる。近代を迎え、いわゆる洋風建築をどう受容するのかは現代にも続く日本文化の課題のひとつであった。旧西田川郡役所(高橋兼吉)などの明治初期擬洋風建築は近代化をイコール洋風化として受容する明治政府の基本方針を表現している。

上流階級の住宅もこの方針を反映し、洋館を積極的に取り入れた。しかし生活は和風なので様々な使い分けが発生した。洋館と和館を使い分けた前田邸、洋風の外観の中に和の座敷、仏間を配置した古河邸など。但し国力をつけてきた明治中期以降事態は複雑になり、帝冠様式のような不思議な折衷様式も登場している(図-2)。

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上の写真はウィキペディア項目「帝冠様式」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%86%A0%E6%A7%98%E5%BC%8F(20130320)より引用


一方庶民の住宅は保守的であった。例えば近代化の象徴であった洋風銀座煉瓦街(明治初期)もいたるところで和風に改造されている。


しかし大正時代には生活改善運動(背景に大正文化主義)の一環で住宅改良が進んだ。畳からいす式へ、接客から家族本位へという転換。また改良住宅のコンペで建築家の先進的な作品が実現した。また当時の憧れであった理想の郊外生活が洋式のライフスタイルで表現されることが多くなった。


これを反映して庶民においても「進んだ」洋の暮らしに対する憧れが浸透した。住宅においても洋が近代化、先進性の象徴となったのである。大正から昭和初期にかけて新しい間取りとしての中廊下式住宅を作り出し、玄関脇に小さな洋風の応接間を設置することが流行した(図-3)。

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<鶴岡・山王町の選択>


しかし、山王町の町家形式の商店においては玄関先に応接間を作るということは不可能である。


ここで内川学Ⅱの話を思い出して欲しい。鶴岡には高さを許容する風土、技術があった。またこの時期は関東大震災後の東京を中心に町場の洋式建築=表面だけ洋風をまとった看板建築の時代でもある。商店にも洋風を表現することは可能だったのだ(図-4)。

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そこで、鉄道も開通し商店街としての勢いもあった山王の人たちはどうしたのか。私は、「玄関先の洋室」と同様の精神で、看板建築のような店部分を増改築によって作り出したのだと思う。しかも鶴岡らしく3階建てで。板金の外観は東京の看板建築の影響だと思いたい。


内川から見るとほとんど痛々しいように和風の木造部分と3階の洋風トタン張りの部分がアンバランスさを露呈している。しかし先述したように、このアンバランスの中にこそ、鶴岡、山王の時代精神、気風が表現されているのだ。

同じような経緯をたどった寛明堂は荒武先生の設計だけあって既存の木造部分も、増築された3階建て洋風部分にあわせて総合的にデザインされている。しかし、イチローヂの場合は両者の対比が「生の形」で表現されている。他の地域でも、不思議なアンバランスがまちの歴史を物語る例がある。最近訪れた函館では、一階和風、2階が洋風という町家があると聞いた。


そういった意味で、旧イチローヂ商店においては和の部分と洋の部分があわさってひとつの価値を持つこと、そして決して3階部分だけに価値があるのではないことが理解できる。


<ショーウィンドウ建築としての旧イチローヂ商店>


続いて第4の視点を提供したい。旧イチローヂ商店では構造的には壁にしておきたい建物の角にショーウィンドウがあり、外観を特徴付けている。ここにも「おか建ち」のような無理がある(図-5)。

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今見ると当たり前のショーウィンドウはいつからつくられるようになったのか?明治の中ごろまでは座売りが中心。火事の多さもあり、大切な商品は蔵の中においてあり、また基本的にはお得意さん相手の商売なので陳列は必要なかった。


明治中ごろから(すなわち20世紀になる頃)ようやく陳列売り。同時にショ-ウインドウも設置されるようになった。


ショーウィンドウがあるということは、店に目的的にくるのではなくぶらぶらと町を歩く時代が来ていたということ(初田亨1995)である。1930(昭和5)年に湯の浜線が全線開通。もちろんバスも合った。外からも気軽に中心部を訪れた時代の始まり。そういった町の変化とショーウィンドウは連動している。そういう中で大泉橋も一新された。もちろん1921(大正10)年の洪水は直接の理由だが、大正から昭和初期にかけて町の姿が大きく変わったということにも着目したい。


<昭和モダンと旧イチローヂ商店>


もともと希少なショーウィンドウでは舶来ものなどが陳列された。旧イチローヂで売っていたものを思い出して欲しい(内川学Ⅱでの國井研究員の報告)。缶詰、砂糖、洋酒、塩・・・食料品青物商、今の明治屋のようなものであった。


まちをぶらぶら歩く時代の象徴としてのショーウィンドウを持った旧イチローヂ商店のショーウィンドウはかなりハイカラな昭和初期のモダンな雰囲気を象徴するものであったといえる(図-6)。

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上の図版は参考引用文献4)から引用


<まとめ>


ショーウィンドウや一見バランスの悪い建築の全体象が昭和初期の時代をかたるものであることを確認した。旧イチローヂ商店から私たちは当時のまちの雰囲気、商売の仕方、人びとの気風など多くのものを知ることが出来る。私たちがもっと上手に問いかければ旧イチローヂ商店はもっといろんなことを私たちに語りかけてくれるはず・・・・。この昔語りのお上手なお年寄りを大事にしたいと思うのは私たちだけではないと思う。


参考、引用文献


1)初田亨1995『モダン都市の空間博物学―東京』彰国社
2)坂本勝比古1988「日本建築洋風化の系譜」『大正「住宅改造博覧会」の夢』INAX
3)村松貞次郎1977『日本近代建築の歴史』日本放送協会
4)小池智子他編集2012世田谷文学館展覧会図録『都市から郊外へ―1930年代の東京』世田谷文学館