まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

最終講義でのご挨拶

2020-02-22 00:49:09 | 建築・都市・あれこれ  Essay

 

休日であったにもかかわらず、最終講義に多くの方々に来ていただき、感謝の念に堪えません。直接ご挨拶できなかった方もいらっしゃりほ本当に失礼いたしました。私の気持ちをお伝えしたいと思い、当日用意していたお礼の言葉を再掲させていただきます。

 

ご挨拶

 

本日は休日にもかかわらず、ご参加いただき本当に有難うございました。

東北公益文科大学大学院に関わらせていただくようになって、15年。この間、庄内の人々と楽しくまちづくり活動や研究活動、設計活動に携わることができました。

鶴岡、そして庄内は私にとって本当にいろいろなことを体験させ、また考えさせてくれた土地です。瀬戸内の温暖な地で育った私にとって、広々とした庄内平野の向こうにそびえる気高く、崇高な冬山の光景は全く新しい風土体験となりました。信仰に生きる人々のくらすまち並み、日本海とともに暮らす海辺の集落、華やかさと進取の気風の薫る港町、江戸から受け継がれた精神を刻みつけたまちの姿など、風土と人々の営みが作り上げた風景はどれも、新鮮で、私の脳裏に深く刻まれています。

これからも庄内と関係していきたいと思っていますが、大学において一つの区切りを迎えるということは、やはり大きな変化となります。この機会をお借りして、皆様に感謝の気持ちをお伝えしたいというのが私の願いです。本当に有難うございました。これからも、これからも私の心は庄内にあります。そんな人間がいることを、頭の隅においていただけるとすれば、それに勝る喜びはありません。

皆様のご多幸とともに、庄内がこれからも心豊かに過ごせる場所であり続けることを祈っております。

2020年2月11日

高谷時彦


東北公益文科大学大学院:最終講義その3

2020-02-22 00:20:15 | 建築・都市・あれこれ  Essay

地域風景をデザインする

2020.02.11

東北公益文科大学大学院

高谷時彦

 

 

1.はじめに

 

2.瀬戸内時代:四国高松のこと

 

3.大学・修業時代

(1)都市工学科

(2)槇総合計画事務所

(3)二人の先生から学んだこと

①都市空間は人々の小さな営みの集成であること

②設計とは思考すること、設計を通して都市を学ぶ

③歴史の審判に耐える一貫した姿勢:設計者の倫理

 

4.独立・試行時代

(1)大学つながりでの駆け出し

(2)自分の設計のスタート

(3)再び大学とのかかわり

 

5.庄内との出会い

(1)木造建築との出会い :構築することを通して空間を構想する

(2)歴史的建築との出会い:時の中に自分の設計活動を位置付ける

(3)職人との出会い:確かな実在感の獲得

(4)庄内の持つ可能性

 

6.終わりに:地域風景をデザインする

(1)地域風景とは

(2)人の手がより加わった地域風景:まち並み

(3)地域風景をデザインする

 

(continued)

6.終わりに:地域風景をデザインする

(1)地域風景とは

 さて私のレクチャーも最後の章になりました。

 先ほどから、庄内という地域という言葉を何度も使っています。私は庄内に来るようになって、初めて地域性やその土地独自の風土という言葉、その意味を実感するようになりました。こんなにも厳しい気候、こんなにも崇高な山の姿、人々の歴史意識、戦争というと戊辰戦争を浮かべるという歴史意識を私は初めて経験しました。また文学というと高山樗牛。渋いですね。滝口入道を読みましたが、いわゆる漢文の美文調。難しいですね。こういうものに親しんでいる人々が暮らしているコミュニティがあるということは大変驚きです。

 自然や気候条件のもとで、土地に根差した人々の営みが、長く積み重ねられることで、地域性や風土ができていきます。地域というのは物的な環境でもあり、社会経済的な環境でもあり、人々の暮らし方そのものでもあるといえます。その地域らしさのあらわれたものが地域風景だと思います。

 言い換えてみます。人の顔というものは、基本的には共通性が多いのですが、それでも少しずつ異なる目鼻立ちと、表情があります。同じように地域にも目鼻立ちと表情があります。景観という言葉がありますがそれはどちらかといえば目鼻立ちのことだと思います。目鼻立ちはそれぞれに違いますが、表情を伴ってこそその人の個性が表現されます。都市や地域に当てはめると、目鼻立ちに表情が加わったもの、それが風景だと思います。時間とともにその地域らしい個性やらしさが出てきます。それが地域風景です。このスライドのように庄内平野には独特の風格と崇高な雰囲気を持つ個性的な風景があります。一枚は私の生まれ育った地域の写真ですが、明らかに違う風景、風土を感じます。 

 

(2)人の手が丹精を込めて作った地域風景:まちなみ 

 人の手が丹精を込めてつくり出した風景の一つがまち並みです。庄内には忘れられないまち並がたくさんありますが、一例として、みなさんのお手元に羽黒手向のドキュメントがあります。表に現在のまち並みのこと、裏側に今地元の皆さんと取り組んでいるまち並み修景の内容が書いてあります。

 最近京都の大学のH先生からのもとめに応じて、このまち並みを紹介させていただきました。引用いたします。

 

出羽三山信仰の宗教集落、手向(とうげ)の雪は深い。修験者/山伏の住居であることを示す立派な抜き通し門が半分以上雪に埋まっている。温暖な瀬戸内で生まれ育った私には、想像もできない厳しい暮らしである。

手向集落でも里からくる修行者である道者を迎えいれる宿坊を営む人は少数となった。多くの人がサラリーマンとなっている。しかし雪の少ない平地に降りずここに暮らす意味は何か。それは、羽黒山と共にあるという拭うことのできない自然に身についた感覚であり、山伏としての修行、祭りや集落の行事を通して修験道を千数百年守ってきた誇りである。

誇り高い山伏のまち・・・まち並みはその営みの集団的な記憶を表現している。

 

 庄内に関わるようになり、私の中には手向のまち並みのような大事な守るべき地域固有の風景が、どんどん蓄積されていきました。これまたお恥ずかしい話ですが、正直なところ、なくしてはいけない地域風景があるということは庄内に来て初めて心から思うようになりました。 

 そういう思いがあったので私は今日の最終講義のタイトルをどうしますかと大学院事務室の方に聞かれた時に「地域風景をデザインする」でお願いしますと言ってしまいました。

 

(3)地域風景をデザインすること

 しかし、多くの人々が自然風土の中で作り上げた地域風景を「デザイン」できるわけはありません。ちょっと大それたタイトルをつけてしまいました。私が今の時点で分かっているのは、つくるのは大変だし、方法も確立していない、しかし「壊すのは意外と簡単だ」ということです。怖いのは私たちの、まちづくり活動や設計活動が結果として「壊す」側に加担してしまうことです。

 大谷先生の言葉が聞こえてきます。全体像やすべての原理がわからないのなら、介入してはならない、少しでも「より確かなもの」に向かって、設計案をつくり、その場所からの応答に耳を傾けなさいという声です。

 そういう自戒を込めて、最近ある学術団体の機関誌に次の文章を書きました。

 

静かなたたずまいと地域社会に根差した人々の暮らしが、途切れることなく続くこの地で建築を作るということは、歴史や 風土との連続性の中で今あるものを尊重しながら、これからの暮らしに必要なものを豊かな構想力と繊細なディテールで丹念につくり込んでいくことに尽きます。それは地域固有の風景にさらなる深みと「らしさ」を与えることにつながるはずです。

私たち人間は環境や風景との応答の中で自己形成を行う生物であり、環境や風景が安定した姿を保てないときに、よりどころを失ってしまいます。しかしその安定は不断の代謝、更新から成り立っていることも忘れてはなりません。環境を構成する一つ一つの建築が、地域の文化や風景にしっかりアンカーされることを心掛けながら、時代の新しい課題に答える自由な構想力を表現したいというのが私のかわらぬ思いです。

 

 要するに、地域風景を「デザインする」方法を見つけるまでは、地域風景に十分な敬意を払いながら丁寧に思慮深く関わっていこうということです。これが今の私の到達点です。まだまだ低いところにいます。今日の話は決して遺言ではありませんで、私への課題を整理したようなものです。まだまだ頑張ります。

 最後になりますが、ここまでこられたのは本当に皆さんのおかげです。会場にお越しの皆さん、こういう場を用意いただいた東北公益文科大学、大学院の皆様、ともに活動した高谷研究室の仲間たち、多くの修了生の皆さん、クライアントの皆様、モノづくりの真剣さを見せてくれた現場の皆さん、地域で支えてくれた多くの皆様、本当にありがとうございました。

 ご清聴ありがとうございました。

 

 

 

(あとがき)

上記の文章は、最終講義(2020.02.11)の原稿から、個人名や下手な冗談などを削除して作成したものです(2020.02.16)。今読み返してみると、「公益」についてひとことも触れていないことに気付きました。言い訳になりますが、地域の自然、歴史や文化に学び、それらをレスペクトしながらまちづくりを研究し、実践すること・・・そのこと自体が公益的な活動だったのかなと思っています。皆様の御高見を賜りたいと存じます。

高谷時彦 建築・都市デザイン

Tokihiko Takatani architect/professor

 

 


東北公益文科大学大学院:最終講義その2

2020-02-22 00:17:13 | 建築・都市・あれこれ  Essay

地域風景をデザインする

2020.02.11

東北公益文科大学大学院

高谷時彦

 

 

1.はじめに

 

2.瀬戸内時代:四国高松のこと

 

3.大学・修業時代

(1)都市工学科

(2)槇総合計画事務所

(3)二人の先生から学んだこと

①都市空間は人々の小さな営みの集成であること

②設計とは思考すること、設計を通して都市を学ぶ

③歴史の審判に耐える一貫した姿勢:設計者の倫理

 

4.独立・試行時代

(1)大学つながりでの駆け出し

(2)自分の設計のスタート

(3)再び大学とのかかわり

 

5.庄内との出会い

(1)木造建築との出会い :構築することを通して空間を構想する

(2)歴史的建築との出会い:時の中に自分の設計活動を位置付ける

(3)職人との出会い:確かな実在感の獲得

(4)庄内の持つ可能性

 

6.終わりに:地域風景をデザインする

(1)地域風景とは

(2)人の手がより加わった地域風景:まち並み

(3)地域風景をデザインする

 

(continued)

4.独立・試行時代

(1)大学つながりでの駆け出し時代

 私としては、お釈迦様が悟りを開かれた35歳で独立をしたかったのですが、実際にやめたときは36歳。先ほど槇事務所の時代は大学の延長のような雰囲気だったといいましたが、実はその後も大学や槇先生とのつながりには大いに助けていただきました。

 槇事務所で多くのことを学びましたが、唯一学ばなかったのが、営業方法です。どうやったら設計の依頼が来るのか全く見当がつかないまま独立しました。まずは大学時代に教わった講師の先生の所に挨拶に行きました。最初に行ったのがS先生。すでに講師はやめて、大学の教授になっておられたと思います。

 ご挨拶をしたあと、間借りしていた小さな事務所に戻るとFAXがカタカタとなりだしました。手書きの美しいスケッチです。それを図面に清書して持ってきなさいということでした。持っていくと、公的な大きなデベロッパーであるクライアントとの打ち合わせに行ってきなさいとのこと。そのクライアントからは後ほど別の設計の仕事をいただきました。本当にありがたいご配慮でした。

 

(2)自分の設計のスタート

 また、不思議な御縁ですが、丹下先生が設計された草月会館での偶然の出会い(のちのW大学教授)から指名コンペの対象者に入れてもらい、初めて設計した公共施設がこの知的障碍者のための施設です。これが初めて建築メディアに取り上げられました。

 また槇さんのご指名や、槇事務所の方々の紹介での設計機会をいただいたりもしていましたが、その後都市工で教えてもらったT先生の監修のもとで、幕張ベイタウンコアという建物を設計しました。T先生は、大学時代と全く変わっておらず、怒られながらの設計でしたが、最後は本人の自主性に任せるというところも変わっておられませんでした。この建物は住民参加の意味を私に教えてくれました。ユニークな住民の方々との協働は本当に楽しいもので大きな成果を上げることができました。一般紙や建築メディアに紹介されたり、公共建築賞などをいただいたりすることもできました。

 

(3)再び大学とのかかわり

 少しずつ自分の設計したものが実現するうちに、母校の都市工をはじめ、長岡造形大や工学院大、神奈川大、芝浦工大などから声をかけてもらい教えるようになりました。また、槇事務所時代に槇さんのご縁で書いた論文を見た海外の研究者から声がかかり、共同論文を書いたりもしていました。また先ほどのT先生と共同代表で建築学会創立120年のコンペに参加して賞をいただき、その縁で建築学会叢書に書かせてもらったりしていました。

 そんな折に慶応大学のI先生(やはり槇事務所の同僚です)から声がかかり、東北公益文科大の小松学長先生と会いませんかというお誘いをいただきました。

 

5.庄内との出会い

 ここから話の舞台は庄内になります。

 庄内での出会いというと、本当は大学や大学院、研究室メンバー、地域の人たちとの出会いが私のとって一番大切なものです。しかし本日の講義の冒頭に申し上げたように、一緒にやったまちづくり活動や研究活動、設計活動については、これまでもお話しさせていただきました。またこのスライドのような活動報告は紙媒体のものを会場入り口でお配りさせていただいています。

 ここでも、私がこの庄内という地との出会いから、何を学んだのかという、個人的な思いを中心にお話しさせていただきたいと思います。

 

(1)木造建築との出会い:構築することを通して、空間を構想すること

 恥ずかしい話ですが正直に言います。1998,9年頃でしょうか、苗津にある鶴岡市中央児童館の設計のチャンスをいただくまで本格的に木造に取り組もうという思いを持っていませんでした。

 何も指定がなかったので当初はRC(鉄筋コンクリート)造で進めていましたが、中間段階で、工事費のことから木造となりました。

 大断面構造と在来軸組の混構造で、最初は制約が多いと感じていましたが、これはやるしかないと思い、真摯に向き合っていくとだんだん気付いたことがあります。そんなことを知らなかったのかといわれそうですが、建築の発想には2つの方法があるということです。

 それまではスチレンボードという材料でできた白い模型をいじくりながら、どのように空間を繋げたり分節したりしようかなどという方法で建築を発想していました。しかし木造になると、そういうスタディと並行して、大地に木の柱を立てて、梁を渡すとどういう空間が生まれるのかというように、特定の材料と部材をくみ上げたものとして建築をイメージしていくという思考をするようになりました。建築の原型とはなにか、いうのは建築の世界でしばしば議論されますが、洞窟のようなものに建築の原型を見ることもあれば、木材を組み立てた柱梁の上に木材で屋根をかけるところに、建築の原型を考えるという考え方もあります。この二つには、意外に大きな差異があります。いまごろ遅すぎるという声が聞こえてきますが正直なところ児童館に出会うまであまり考えたことがありませんでした。

 若干話を広げると、20世紀には、モダニズム建築という考え方、主張、運動があります。基本的には今の私たちもその考え方の延長にいます。これは科学技術の力や工業製品を駆使しながら、歴史的な約束事などに縛られることなく、自由に自分たちの新しい生活要求や都市機能に対応した建築、新しい空間をつくろうというものです。そのモダニズム建築の持っている自由さはおもにRC(鉄筋コンクリート)建築がその発展を保証していることにあらためて気づくのです。鉄筋コンクリートは素材が可塑性を持っています。ある意味思い浮かべた形を自由に作り出すことができます。コンピューターの力を借りれば、曲面も自由に作り出せる。白い模型を作って、自分がその中にいるような発想で空間や場所をつくっていくことができます。材料や工法はどちらかというと後でついてくると考えられます。構造とは無関係に自由に平面や立面を考えるというのはモダニズム建築の一つの特徴です。そういう世界に私は生きてきたのです。

 しかし別の世界がある。お恥ずかしいですが、自分にとって今まで知らなかった世界です。東大の稲山先生によると木造建築は接合部が先に破壊する世界で、接合部に集まる材料と工法で空間が決まる。空間より先にどうくみ立てるのかを考えないといけないという世界です。大変面白い世界だと思います。

 これは制約ではありません。大工さんが作ってきた世界、技術の体系、私たちは伝統を尊重し、その技術を借りて勝負するのです。ここに新しい可能性があると思います。

 私は、RC建築で自由に空間を構想する楽しさと木造でどう組み立てていくのかを考えながら建築を考えていく楽しさの両方が与えられたなという感じを持っています。一つの可能性を広げてもらったような気持ち。自分の狭い世界を切り開いてくれた。それが庄内での最初の建築設計の体験でした。

 

(2)歴史的建築との出会い:時の中に自分の設計活動を位置付ける

 木造との出会いが偶然であったように、歴史的建築との出会いも偶然でした。鶴岡に来るようになって気になっていた建物がいくつかあります。スライドにあるイチローヂ商店、魚市場、などです。

 どれもその後、研究室メンバーや、関係の皆さんに背中を押される形で深く関わるようになりました。お手元の資料をご覧いただければと思いますが、旧小池薬局恵比寿屋本店については研究室や地域の皆さんと再生活動に取り組み、まずは文化財としての登録をするところまでお手伝いしました。

 また、これは自分のほうでは全く存在を知らなかったのですが、昭和初期の木造絹織物工場(松文産業鶴岡工場)とも出会い、のちにまちなかキネマを設計する機会をいただきました。また現在は酒田の旧割烹小幡の改修工事にも取り組んでいます。

 このように庄内では多くの歴史的建築に出会いましたが、それらの出会いから、先ほどの木造建築の話と同様に、自分の世界が非常に狭かったことを思い知ることになります。

 皆さん、この写真をご存じでしょうか。先ほど申し上げたモダニズム建築の典型的な例です。世界遺産にもなっています。コルビュジェという建築家が作った、おそらく20世紀で一番有名な住宅です。横長の窓が開けられた壁でできた、美しい白い箱が大地から浮かんで存在しています。

 この写真にはモダニズム建築の大きな原則、主張が表現されています。それは、建築というのは建築家のコンセプトと創造力によりつくられる独立した作品であるという原理。独立した作品ですから、彫刻や絵画と同じようにどこで展示しても同じ価値を持ちます。ある意味回りとは関係ありません。大地から浮いているのは周りの条件、歴史などとも関係のない独立した作品世界があることを象徴しています。モダニズム建築の持つ作品主義です。

 しかし歴史的建築を相手にその論理は通用しません。歴史的建築はそこに何十年、百数十年もたっていて存在感を獲得しているものです。建築した人たちの思い、多くの出来事、人々の記憶、時代の風雪が積み重ねたものがあります。私たちにできるのはそれらをレスペクトしながら、少しだけ手を加えさせてもらうということです。 結局私たちの試みも歴史の一齣に過ぎないのです。人生は短し、されど芸術は長しという箴言がありますが、その通りだということを実感します。

 一方で、歴史的建築と対峙するうえでは文化財の保存修復の考えが多くの示唆を与えてくれると思っていましたが、必ずしもそうではないのです。東大の若い歴史研究者、加藤耕一先生の指摘は刮目に値します。先生によると文化財の保存もある意味では作品主義に近いというのです。文化財の場合出来た当時や一番栄えた時期を復原や復元の目標として設定します。あるいは、歴史が作り上げてきた今の状態が歴史の集積した結果なのでこのまま凍結しようという発想もあります。しかしいずれもある時期を設定して、その一時点を目標とした修復工事を行うのです。これは、モダニズム建築の考え方において、建築家が作品として創った時が一番いいというのと同じだというのです。

 考えてみると建築は時間に連れて変わっていくものであり、変化は避けられません。必ず外壁は汚れます。構成する素材は古びてきます。ヨーロッパには、その時代ごとに異なる建築家が手を入れてきて立派な「時がつくる作品」になっている建築も多く存在します。そういう「作品」はこれからも時代の要請に応じて次の建築家が手を入れるはずです。時間を止めようとするのではなく、私たちは、建築が変化していく過程に現代の問題意識で関わっていくという態度で臨むべきではないでしょうか。

 私はいま、旧割烹小幡に関わっていますが、映画に映って有名になった時の姿が一番良いのでそれを固定化しようという意見には、あまり興味が持てませんでした。現代において手を加えるのであるから何かテーマを設定してそのテーマのもとに構想力を発揮したいと思いました。もちろん歴史には十分な敬意を払います。ここでは大正期に自由な思いで、思い切って洋館を建設してわざわざ東京の精養軒からコックさんを引き連れてきた女将の気風をテーマとしました。したがって外部はその当時の姿を借りること、同時に中は全く違う新しい空間体験を生み出そうと試みています。

 旧割烹小幡のやりかたが正しいかどうかは、先ほど修業時代に学んだことで述べたように、長い時間の中での審判に待たないといけませんが、このようなことを考えさせてくれるようになったのが、庄内における歴史的建築との出会いです。

 

(3)職人との出会い:確かな実在の感覚を得ること

 庄内では学生や地域の皆さんといろいろな活動に取り組みましたが、内川沿いにある魚市場をお借りしたイベントのことを思い出します。地元の建設会社の方々に本当にお世話になって会場設営などをやりました。大工さんにステージや、飲食スペースの間仕切りなどいろいろ作ってもらったのですがそれを撤収するときの経験です。

 イベントの翌日、朝からやっていただいて、ああすっかりきれいになったと思って、魚市場事務室に報告に行こうと思ったら、現場の責任者の方(大工さん。そのあと由良の大漁祭りでばったりお会いしました。そのあとなんとまちなかキネマの現場でもお会いしました)が、まだまだですよ、ゴミが落ちているといって市場の床を水で掃除し始めました。そして床も磨き始めたのです。そこまでしなくても、市場の方はよいといってくださると思いましたが、そういう問題ではないのです。床はピカピカに磨き上げないと、その方の気が済まないということだと思います。

 こういう光景をその後いろんな現場で見ることになります。設計者というのは勝手なもので、見えないところは適当で結構ですというのですが、監督さんや職人さんのほうからそれでは「駄目だのーぉ」と言われてしまいます。東京ではすでに失われた職人気質、文化というものがここには生きていると思いました。

 ここでまたまた話を広げます。現代の資本主義社会で求められる人間像というのはどういうものなのでしょうか。若干うろ覚えですが、あるアメリカの社会学者が言うには、それは状況の変化にすぐに対応できる人間だ、そして周囲の異分野の人ともコミュニケーションできるスキルを持った人ということになります。しかしそういう人間は常に自分自身を変えていかないといけないことに不安を感じています。

 まるで職人とは反対の世界です。職人は自分の世界の中での完璧を目指します。見えないところも手を抜かないという自分の世界での合理性を追求するのです。その世界では深い満足を得ているはずです。また、つくるものに比ゆ的に言うと魂を乗り移らせます。

 こういった職業倫理は資本主義から見ると不合理です。これは大量生産品、複製品である「商品」には必要ありません。このように職人の価値観は、現代の資本主義社会の中では基本的には不要とされてきましたし、私たち設計者も現場での出番を少なくするような設計を是としてきたのです。しかし、社会学者は資本主義は行き詰まっている、状況の変化に対応する人間像にも限界がある。新しい価値観の時代が来る、職人の価値観がもしかしたら大きな意味を持つのかもしれないとの見解を示しています。

 私には、社会学者の言っていることを十分理解する力はありませんが、最近の若者が確かな実在感を求めていることは、肌に感じています。リノベーションやプレイスメイキングのような、手づくり感のある方法論の流行の背後には自分の身体性を介した確かな実在感を求める心があるように勝手に推測しています。職人は、閉じた世界かもしれませんが、ものづくりを通して、身体で確認することのできる存在感を獲得しています。状況に応じて変わることが求められる時代において、変化しない職人の価値観がもう一度見直されることに期待を込めたいと思っています。その時庄内は非常に重要な役割を果たすのではないでしょうか。

 設計においても、抽象的な白い模型からの発想(これはこれで楽しいものです)だけでなく、「手作業の感覚、素材と対峙する感覚」などが新しい世界を開いてくれると思っています。

 

(4)庄内のもつ可能性

 以上の3つの出会い(木造建築、歴史的建築、職人)は私に今までの設計手法とは違う視点に気づかせてくれたものです。私の狭い世界を広げてくれました。同時に、この3つは、モダニズム建築の持つ規範や、現代社会の持つ、資本主義的な合理性、効率、グローバル時代の人間像にちょっとした留保条件を付けているような気がしています。現代は変動、変革の時代です。その先の時代がどうなるのか、私にはわかりませんが、何か庄内という地域が持っている大きな可能性、潜在力に期待するのは私だけではないような気がしています。


最終講義:東北公益文科大学大学院その1

2020-02-22 00:12:09 | 建築・都市・あれこれ  Essay

東北公益文科大学大学院での最終講義を記録します。今後使用した図版なども入れ込んでいきたいと思います。

地域風景をデザインする

2020.02.11

東北公益文科大学大学院

高谷時彦

 Final Lecture: To design a regional landscape

 

1.はじめに Foreword

 

2.瀬戸内時代:四国高松のこと Childhood

 

3.大学・修業時代 Learning and Training period

(1)都市工学科 University

(2)槇総合計画事務所 Maki and associates

(3)二人の先生から学んだこと

What I learn from 2 Professors; Otani and Maki sensei

①都市空間は人々の小さな営みの集成であること

urban space consists of small individual houses  

②設計とは思考すること、設計を通して都市を学ぶ

designing  is thinking 

③歴史の審判に耐える一貫した姿勢:設計者の倫理

discipline and consistency as architect

 

4.独立・試行時代 Starting my own architectural office

(1)大学つながりでの駆け出し

help of university teachers

(2)自分の設計のスタート

starting my own project

(3)再び大学とのかかわり

thanks to my teachers again

 

5.庄内との出会い Wonderful encounters in Shonai 

(1)木造建築との出会い:構築することを通して空間を構想する

space/tectonics

 

(2)歴史的建築との出会い:時の中に自分の設計活動を位置付ける

architecture in time

(3)職人との出会い:確かな実在感の獲得

artisan: a feeling of existence

(4)庄内の持つ可能性

 lerning from Shonai Region

 

6.終わりに:地域風景をデザインする To design a regional landscape

(1)地域風景とは

what is a regional landscape

(2)人の手がつくる地域風景:まち並み

importance of townscape

(3)地域風景をデザインする

designing a regional landscape

 

1.はじめに

 本日は休日にもかかわらず多くの方にお越しいただき有難うございます。

 2005年から2020年まで一年30回×15年で450回の講義をしてきましたが今日が451回目です。最後なのでどういうお話をすればよいのかと考えました。ここにお集まりの皆さん方と行ってきたまちづくり活動、研究活動、設計活動などを振り返るのも良いのかと思いましたが、それらについてはこれまでに随時、講座内川学やシンポジウムの形で発表してきました。また今日はその資料もお持ち帰りいただけるよう用意してあります。

 そこで今日はいつもの授業やシンポジウムではお話しすることのない、私自身のはなし、自分がどのような経緯で建築や都市デザインの仕事をするようになったのか、また庄内との出会いが、自分の考えに何をもたらしたのか、そんなことを話してみます。私の身勝手な思い込みの話になりますが、なにとぞお付き合いのほどお願いします。

 

2.瀬戸内時代:四国高松のこと

 私は1952年、小さな電気店を営む両親のもとで長男として生まれました。電気店といいましても父親は店をやっているという意識はほとんどなかったと思います。職人気質の人でいらっしゃいませとかありがとうというのを聞いたことがありません。全く無口で、一人でラジオをつくったり修理したりするのが好きだったということだと思います。

 私も、そういうのが大好きで高校時代までは、真空管でラジオや無線機を組み立てていました。しかし突然興味を失う時が来ます。当時はそういうラジオ少年がたくさんいたのでしょう。そのあたりのことは、当時芥川賞作家柴田翔さんが真空管の話として小説に描いています。

 母親の方は親戚も含め、父親とは対照的によくしゃべる人たちです。あったことのない祖父の話もしてくれます。私の祖父は今の四国電力の技術屋だったそうです。曾祖父は、幕末に生まれ大阪の医学校や東京の開成学校で医学や語学を学んだ医者ですが、和歌と茶道をたしなむ文化人として有名だったようです。残念ながら私はその資質は全く受け継いでおりません。良くしゃべって社交的なところも、私の姉が受け継いでしまい、私には残っていませんでした。

 私自身は父親の影響、血というものでしょうか、人付き合いが苦手で、自分の世界にこもる職人のマインドがべっとり染みついています。それが自己分析です。

 そんな自分は高松で高校時代までを過ごし、1971年に東京の大学に入りました。

 

3.勉強、修業時代:都市工学科から槇事務所まで

(1)都市工学科

 大学では都市工学科を選択しました。都市計画と都市デザインを学ぶ学科です。

 建築をやろうと思った時期もありましたが、入門書を読んで、建築家には芸術的な才能が必要だというので自信がなくなり、あきらめました。また都市計画が先進的な社会変革の思想との関連が深いと思われるという当時の風潮も影響したかもしれません。巷のベストセラーは羽仁五郎さんの『都市の論理』でした。

 ただそれらとは別に単純な憧れもあったかもしれません。一つには都市設計講座の教授が丹下健三先生だったことです。私の高校の隣に丹下先生が設計された香川県庁がありました。世界遺産になるであろう20世紀の名作代々木体育館に次ぐ最高傑作だと私は思っています。また今保存問題で揺れている香川県立体育館もあります。また、香川県には丹下先生の薫陶を受けた人々のいる建築課があり、ほかの自治体とは違った雰囲気があったと思います。課長の山本忠治さん(ヘルシンキオリンピックの陸上選手)の設計した瀬戸内民族資料館は建築学会作品賞も得ています。また、丹下先生ゆかりということでは、世界的に有名なイサムノグチさんのアトリエもありました。今のように公開される前のアトリエでお話ししたことがあります。少し前にまちキネでイサムノグチさんの映画もやっていました。丹下先生は香川県では尊敬される存在でした。

 また都市設計講座をついで教授になったのが大谷先生。代表作は気候変動問題の京都議定書の会場でもあった京都国際会議場です。私は、このコンペのことを中学時代に知り、コンペでできた建物という印象をずっと持っておりました。その先生に教えてもらえるというのは私にとってはこれも嬉しいことでした。大谷先生は、厳しい方でしたが、どこかやさしく見守ってくださる雰囲気がありました。結婚式でもお祝いの言葉をいただきました。「駒場から進学してきた高谷君の顔を見たとたんに、四国の顔がいると思った。やっぱり私の感は当たっていた。すごいだろう」というお話しでした。建築関係以外の方には謎の言葉だったと思います。私にとっては励ましでした。というのは、大谷先生にとっての「四国の顔」というのは愛媛県出身の丹下先生に他ならないと思ったからです。

 

(2)槇総合計画事務所 

 都市工学科では当時槇文彦先生も非常勤で教えておられ、私は卒業後槇文彦先生の事務所に入れていただきました。槙事務所で13年間過ごせたことは本当に私にとっては幸運でした。建築と都市デザインの両方を学ぶことができ、その後の道を決めてくれました。

 槇事務所は大学の研究室の延長のような雰囲気でした。槇さんご自身も都市工学科から、建築学科に移られ教授になられましたし、先輩同輩後輩には大学の教授になられた方も多く、私の前後だけでも20人くらいはいらっしゃるのではないでしょうか。槇先生も日本を代表する素晴らしい建築家ですが、所員も第一級の方々ばかりでした。そのような雰囲気の中で学ぶことができました。

 槇事務所では実務の傍ら、東レ科学振興財団から受託された研究をお手伝いし、その成果を「見えがくれする都市」(英語バージョンは”City with a hidden past”)に書かせていただきました。また、槇さんが海外講演でお使いになる図版(例えば日本とヨーロッパとアメリカの都市空間の特徴を一枚のスライドで表現するものなど)を描いたりしながら、槇さんのお考えを必死になって学ぼうとしていました。

 

(3)二人の先生から学んだこと

①都市空間は人々の小さな営みの集成であること:独立した個人の集合としての社会/都市

 大谷先生からは設計者としての原点ともいえる光景についてのお話しを聞いたことがあります。敗戦後、焼け野原の東京の丘の上に家が建っていく光景だそうです。ぽつぽつと一軒ずつ立ち上がっていくのですが、それらがお互いに会話しながら、あるバランスの下にまちができていく様子です。そこから、大谷先生は建築が一つずつ集まって都市空間ができていくという当たり前の事実に気付き、都市は一人一人の営みの集成されたものであるというとらえ方をするようになったとおっしゃっています。

 実は槇さんも違った形で建築の集合としての都市空間について語っておられます。槇さんが授業で、見せてくれたギリシャのイドラ島の写真です(これは私が後年撮ったもの)。建築はそれぞれ自立して建っていますが、その集合に何とも言えない調和があり、全体として一つの個性が表現されています。槇さんはこの島を見た時に建築と都市との関係にある種の啓示を受けたと語っておられます。

 このような体験がもとになっているのでしょうか、お二人とも建築の集合のあり方についての論文を発表されています。同じような都市の捉え方を出発点とされていますが、大谷先生のお考えは次のようです。建築は他者から自立して成立しうる条件、仕掛けを持っていないといけない。それが中庭だ。そして同時に都市として集まるためには都市空間との接点部分に媒体となる空間を持っていないといけない。そのことをメソポタミアやギリシャを例にとって説明してくれます。

 それに対し槇さんのアプローチはもっと抽象的です。「集合的形態についての考察」という論文において、明快なストラクチャーの下に建築を秩序付けるのでもなく(メガストラクチャー型の集合)、また全体を律する秩序が下敷きになった配置でもない(比例的秩序に基づく集合)、一つ一つの建築が自立性を持って集合するグループフォームという概念(群造形)を提示されています。建築と建築との関係性、あるいは隙間のあり方の中に建築と都市をつなぐ鍵があるとのお考えです。

 お二人の考えに共通するのは、構成要素である一つ一つの建築は自立するものでなくてはならないという前提です。 お二人とも、丹下先生の門下でありながら当時一世を風靡したメタボリズムには一歩距離を置かれていました。なぜでしょうか。メタボリズムは例えていうと大きな幹にとりつく葉っぱがどんどん新陳代謝していくことで大きな木は常にみずみずしくあるというイメージで語ることができると思います。しかし葉っぱの側に自己決定権はありません。お二人ともその葉っぱの側の自立性に意味を見出しておられるのではないか・・・・私は勝手に推論しています。

 皆様お気付きのようにこれは、建築都市論でもありますが、一つの市民社会論でもあると思います。個人の独立が保証され、独立した個人が同じ都市生活者である他者を思いやりながら社会を作っていくという大谷先生や槇先生の思想の反映がこの建築都市論であったと思います。

 自立し独立した個人/建築の集合したものとして都市空間をとらえること、このことは都市に対する私の基本姿勢ともなっています。

 

②設計することは思考すること、設計を通して都市を学ぶ

 これは主に大谷先生から学んだことです。

 都市のすべてを理解するのは無理。「都市とは膨大な複合体でしかも歴史的に積み重なったもの」、常に計り知れないものを持っているし、すべてを理解して建築や都市空間にかかわることは不可能だというのが大谷先生の認識でした。都市の構成原理を総合的、網羅的に理解していないのだから必要以上に介入しないでおきなさいということをおっしゃっていました。大谷先生は行政や大企業による再開発などには非常に批判的だったと思いますが、それは小さな営みが集合してできたごちゃごちゃした集合体、この原理や法則が分からないのに、一気にクリアランスして一つの高層建築とそれを取り囲む広場に変えてしまうことをひとまず留保したいということだと思います。

 では、どうやって複雑な都市を理解するのか。そのためには設計をしてみなさい。提案をしてみなさい、そして都市からの応答を分析する中で、少しずつ都市を理解するのです。したがって設計というのは思考、考えることなのだということをいつもおっしゃっていました。都市からの応答を見ながら、より確かなものにどうしたら近づくことができるのかを考えるのです。

 西洋医学のように診断をしてから処方をする、すなわち考えてから実行するのではなく、東洋医学のように処方をしながら、人体の反応を見る、すなわち処方のプロセスが考えるプロセスなのだと思います。

 三年の時に他の先生の課題でしたが、大谷先生にも図面を見ていただくと、「君の図面には思考の跡が見えない。よって君の論理が見えない」。本当はデザインがなっていないとおっしゃりたかったのだと思いますが、設計というものを思考としてとらえるという視点からのコメントは私にとって本当に新鮮な驚きでした。その後、実践できているわけではありませんが、設計というものを考える基本になっています。

 

③歴史の審判に耐える一貫性:設計者の倫理

 表記の内容について、大谷先生と槇先生の表現はだいぶ違いますが、おっしゃっていることは同じだと思います。

 あるプロジェクトを担当していたときのこと。発注者がお金のことは槇先生にお任せしますとおっしゃっていたのを聞いていたので、少し坪単価を高く見直してもよいのではないでしょうかというようなことを言ったとき、槙さんが「任せられたのだから、きちんとしたコストコントロールをして責任を持ってつくるのです。ここでの坪単価は私が最初に設定した○○万円/坪を超えてはいけません」と強い調子でおっしゃったことをよく覚えています。バブルの時には維持管理にお金がかかるようなものを作り、経済の衰退期に困ってしまうようなものを作る建築家も多いわけです。建築の設計者はバブルだろうが不景気だろうが自分の規律を持ちなさいということだと思います。

 また、ある高層建築の基本計画の打ち合わせで、電波法による規制で建物の角度を少し変えなければならないとの分析が示された時のことです。槇さんは「この建築の配置の理由が電波法にあるというのですか。私はエクスキューズ付きの建物は作りません」といって大変ご立腹になりました。

 槇さんがお考えの建築とは、その時々の技術的な条件で規定されてしまうようなものではない。もっと長期の社会の価値に対応し、歴史の審判に耐えるものをつくっているのだという意識なのだと思います。

 槇さんは、こんなような内容のこともおっしゃっています。ヨーロッパの町並みは美しく、日本はそれと比べると貧相に見えるけど、ヨーロッパを真似すればいいというものではない。日本は別の原理で行くべきでしょう。ただ、あちらに学ぶものがあるとすると、その街並みは都市が栄えていた時も衰退したときも人々により守られ続けてきたものであることだ。この点は尊敬されてよい。

 槇さんは、一貫して建築に「パブリックスペース性」を求めておられます。精神の高揚を感じ、その場所を一つのものとして皆で共有する感覚をもてるのがパブリックスペースです。その姿勢はバブルだろうと不景気だろうと、槇さん御自身の建築の好みが変わろうとずっと一貫しています。そういうものが歴史の審判に耐える建築を生み出しているのだと思います。

 大谷先生はどこかで、建築は雄々しいものだ、言い訳などしないとおっしゃっていたように記憶します。目先のことに左右されて、あとで言い訳が必要な建築をつくってはならない。長い年月を見据えて、恥ずかしくないものをつくりなさいということでしょう。大谷先生も同じことをおっしゃっていたのだと思います。

 以上の事柄は今でもまだ十分に理解したとは言えないのですが、自分の思考の基本的な部分を律しているように思います。

to be continued


庄内で建築を作るということ

2020-02-21 23:53:54 | 建築・都市・あれこれ  Essay

この3月で、東北公益文科大学を定年退職します。最終講義や懇親会を開くにあたり皆さんに庄内で作ってきた建築を紹介してはどうかという声があり、簡単な冊子にまとめてみました。

折り畳みでA4サイズになります。例のごとく池田さんに作ってもらいました。

 庄内で建築をつくること

静かなたたずまいと地域社会に根差した人々の暮らしが、途切れることなく続くこの地で建築を作るということは、歴史や 風土との連続性の中で今あるものを尊重しながら、これからの暮らしに必要なものを豊かな構想力と繊細なディテールで丹念につくり込んでいくことに尽きます。それは地域固有の風景にさらなる深みと「らしさ」を与えることにつながるはずです。

城下町鶴岡の城址公園に建つ藤沢周平記念館では雪国の風土が生んだ「さや堂」形式をとりいれました。また主要な空間軸や共用空間の配置を、内部からの論理ではなく歴史的なまち割りなど周辺環境条件との応答で決定するという設計方法を試みました。歴史の風景にうまくなじんでくれることを願っています。

鶴岡まちなかキネマでは築80年を超えた木造絹織物工場を4つのホールを持つ映画館にリノベーションしました。まちの中心部に映画館を含む文化拠点を作るという荘内銀行頭取(当時)の革新的なアイデアは、まちの中の産業文化遺産で多くの人々が映画を楽しむ風景となってたち表れています。

庄内町ギャラリー温泉町湯では、この地域に多く見られる土縁をもつ町家の形式を採用し、奥に細長く延びるギャラリーを作ることで、狭い敷地という不利な条件を逆手にとりました。

吹浦防災センターでは、仙台高専小地沢先生(当時)の指導の下で徹底的に地元の方々が何を望んでいるのかを考えました。それは同時に吹浦の人々のくらしかた、考え方を学ぶプロセスでもありました。楽しく使われているのを見ることは設計者にとっての喜びに他なりません。

鶴岡商工会議所会館では、内川に対しては開放的な階段、羽黒街道に面しては動きのある表層ゾーンを作ることで、歴史的な街角に歴史を尊重しながらも新しい表情を持つランドマークを作りました。あわせて隣接する天然記念物のタブノキの周りを人が利用することのできる街角の広場として再生しました。

風間家旧別邸無量光苑釈迦堂に付け加えた小さなお休みどころがティーハウスです。既存の朽ちかけていた四畳半の座敷を移設(新築)して茶室とし、そこに至る回廊に木の仕上げの小さなギャラリー的なお茶のみスペースを作りました。風間家の杉をふんだんに使いました。

日本遺産の松ケ岡開墾場では、入り口広場の整備、開墾士住宅のインフォメーションセンターへの改修を行うとともに、既存の公衆便所のコンクリートブロック壁体を残したまま、屋根の方向を90度回転して、木造の小屋組みの下の公共空間を作り出しました。

港町酒田で取り組んでいるのは、映画「おくりびと」で廃墟的な魅力が描かれた旧割烹小幡の再生です。大正期に名物女将が増築した洋館は、映画の背景となった現在の姿とは全く違い、当時流行したセセッション風のしゃれた外観を持ち、内装には輸出品であった和製マジョリカタイルが使用されていました。築地精養軒で修行したシェフたちにより本格的なフランス料理がふるまわれ、今に名高い「酒田フレンチ」の元祖ともいえる店であったのです。そのまま朽ちた廃墟の味わいを残すのが定石でしょうが、私は次の時代につながる生き生きとした風景を作りたいと考えました。私たちは「市民の記憶としての外観保存」という定型にとらわれることなく、映画ロケに使われた外観を一掃し女将の思いのこもった大正建築をテーマにデザインしました。まもなく工事が始まります。

鶴岡市中央児童館は、第二小学校の跡地に、かつての校舎の記憶をなんとなく感じてもらえるようなヒューマンスケールの木造平屋建てで設計しました。大断面構造と在来軸組を組み合わせた、私にとっては初めての木造公共建築で、建築の持っている可能性についてもいろいろ考えるきっかけとなりました。

荘内銀行の一連の支店は、國井頭取の「支店をいくつかのタイプに分類してそれぞれに特徴的な基本形を与えたい」というお考えに呼応したものです。私たちの基本設計を受けて、地元の設計事務所の皆さんの創意工夫でそれぞれ地域に親しまれる建築になっています。

この他、吹浦防災センターの第一次案や、庄内町のコンペ落選案など若干未練の残る計画案もありますが、今振り返ってみると、これだけ多くの設計に携われたことを本当にありがたく思うばかりです。

私たち人間は環境や風景との応答の中で自己形成を行う生物であり、環境や風景が安定した姿を保てないときに、よりどころを失ってしまいます。しかしその安定は不断の代謝、更新から成り立っていることも忘れてはなりません。環境を構成する一つ一つの建築が、地域の文化や風景にしっかりアンカーされることを心掛けながら、時代の新しい課題に答える自由な構想力を表現したいというのが私のかわらぬ思いです。

I have reached retirement age of our university! I was asked to show my works in Shonai region in the farewell party. You might see what I designed in this region by pictures above and my statement.

高谷時彦

東北公益文科大学大学院/鶴岡

設計計画高谷時彦事務所/東京

Takatani Tokihiko  architect/professor

Graduate School of Tohoku Koeki University/ Tsuruoka Japan

Takatani Tokihiko architect studio/ Tokyo