まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

羽黒修験の里-門前町手向の魅力

2016-01-25 19:33:02 | 講義・レクチャー Lecture

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私たちの研究室では羽黒修験の里-門前町手向のまち並み保全創造活動についての研究をこの数年間にわたって行っています。昨年の夏になりますが出羽三山魅力発信協議会(勝木会長)、手向自治振興会の「手向を知る講座」で次の内容のお話をする機会をいただきました。私の原稿の遅れからまだ冊子としてのまとめは準備中ですが、とりあえずお話した内容をここにメモしておきます。

なお1月25日にアップした原稿の中で手向の山伏のことを「里山伏」と間違って記述しておりました。里山伏というのは出羽三山を信仰する信者の住む集落に住む山伏のことで、手向の山伏のことではありません。私の間違いです。ブログ中でも引用させていただいている岩鼻先生から丁寧な解説とともにご指摘をいただきました。本日、1月27日訂正させていただきます。

 

門前町手向の魅力-過去・現在・未来-

20150711

東北公益文科大学大学院

高谷時彦

はじめに

 

1.手向との出会い

1)まずはカルチャーショック

2)修験の里としての手向

3)日々の暮らし、行事

4)まとめ 

2.手向らしいまち並みとは

1)地形・自然のスケール-山中の雰囲気-

2)まち・集落のスケール-門前町のまち割り-

3)屋敷のスケール-風土性×宗教性

4)まとめ

3.歴史的風致維持・向上における課題

(1)車庫、駐車場

(2)空き家、空き地)

(3)電線、電柱)

(4)ストリートファニチュア)

(5)まとめ・おわりに

 

 はじめに

手向は出羽三山の門前町です。修験道者である山伏が営む宿坊が並ぶ宗教集落として、羽黒山の開闢以来の長い歴史を持っています。霞場や檀那場と呼ばれる東日本の各地から道者を暖かく迎え入れ聖なる山々に先達しともに修行するという山伏の暮らしのかたちは、21世紀の今も変わることがありません。各地の講中の人たちとの親戚以上といわれる強い絆は、多くの霞場が被災した東日本大震災を経てなおいっそう強固なものになっています。手向の集落全体が羽黒修験の伝統とともにいきる門前町であり、信仰に裏付けられたひとびとのくらしが今なお変わらないことを、宿坊を中心とするまち並みが伝えてくれているのです。

江戸時代には360坊といわれた宿坊の数は明治の神仏分離や時代の流れとともに減少してはいますが、今なお30件余りの宿坊が並ぶまち並みは全国にここしかありません。もちろん、「土塁と木立に囲まれ立派な門構えのある茅葺屋根」という昔ながらの典型的な宿坊の数は減少していますが、注連縄の張られた貫通し門や軒下に引き綱の飾られた伝統的な様式の民家の連なりは、他のどこにも見られない精神性を感じさせる独自のまち並みを創りだしています。

ただ、この独特のまち並みも現代的な課題を抱えています。人口減少と高齢化の中で空き家や空き地が散見されるようになりました。また車社会に対応した車庫の設置が伝統的な風致との齟齬を起こしています。さらに、これまでは宿坊以外の建物も庄内の風土の中で培われた民家様式が多かったのですが、次第に現代的な素材や間取りの住宅が増えることで手向らしい風致が薄まることとなっています。

私たちの研究室では、2006年から「修験の里手向宿坊街のまち並み」に注目し、地元の皆さんや羽黒支所の方々と一緒に研究を行ってきました。この歴史的風致に富むまち並みは、長い間の修験道に関わる人々のくらしの中で育まれてきたものであり、世界に誇る文化遺産です。これを祭り、催事や修験道の日々の営みとともに生きた形で後世に伝えていくことは、現代に生きる私たちの使命だと考えています。

この間、歴史まちづくり法にもとづく歴史的風致維持向上計画(2013年)が認定され、手向地区が重点地区に位置づけられました。これを受け鶴岡市では景観形成の取り組みを助成する制度の創設を検討しています。

私たちは現代的な生活と手向独自の歴史的風致の維持向上は両立できると考えてきました。制度の創設は、実践のチャンス到来です。そのためにもまずはこのまちに住み、このまち並みをつくりあげてきた皆様に、まち並みの価値を再確認いただきたいと思います。今日のお話が人類共通の文化遺産として手向のまち並みを保全継承していくために少しでもお役に立つことを願っております(スライド1)。

 1.手向との出会い

私は、正真正銘のよそ者です。私の体験を語ることで、外の人に手向集落のまち並みがどのように映るのかをお伝えしたいと思います(スライド2)。

 

1) まずはカルチャーショック

私が初めて鶴岡に参りましたのは確か1994年です。その後数年かけて市役所の中堅、若手の職員の方々とともに鶴岡中心部の未来像についての勉強を続けました。そんな折、ふと時間が空いたときに、職員のTさんが見せたいものがあるといって連れてきてくれたのが手向でした。そのときには出羽三山については森敦の小説で知るくらいで、五重塔も三山神社も見ていませんでした。

まず感じたことは、鶴岡中心部から10分余り走っただけなのに、ずいぶん深い山の中に入り込んだということです(スライド3)。それが最初の驚きでした。何か異界に来たという感覚がしました。続いて私たちが普段暮らしている俗世界とは違う雰囲気を自分が感じていることに気付きます。それは注連縄飾りや立派な門が視界に入っていたからでしょう(スライド4)。

また格式の高い玄関は迎えてくれているようでまた、簡単に入ってはいけないのではないかという二律背反的な雰囲気を醸し出しています(スライド5)。

 

軒下の引き綱を見るとさらに驚きます(スライド6)。

印象の中心に「宿坊」があることは理解できましたが、それ以外のうちも荘厳な構えが感じられます(スライド7)。引き綱があるということに加え、屋敷としての凛とした構えがまち全体で共有されていることに気付かされます(スライド8)。

 

こんなまち並みが今もあるのか(スライド9)、「普通ではない」「ただならぬ場所」「不思議なまち」に迷い込んでしまった、というのが全体を通しての印象でした。

以上が私と手向の出会いです。これはよそから来た人がみなさん感じることではないかと思います。手向のまちの印象は消えることのないものになってしまいました。予備知識なしに私に手向を体験させたTさんの意図はまんまと成功したわけです。ただその時点ではこのまち並みの中に山伏が暮らしていることまでを想像することはできませんでした。

 

 2) 修験の里としての手向

手向との最初の出会いから10年ほどたった2005年、縁あって私は鶴岡の東北公益文科大大学院でまちづくりの研究室を持つことになりました。その関係で羽黒支所のSさんから声をかけられ、再び手向を訪れるようになったのです。

手向のまち並みを深く理解するために、戸川安章先生の研究書や啓蒙書、山大岩鼻先生の『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』(岩鼻通明2003、スライド10)などを導きとして、修験道や山伏のくらし、講などの信仰の仕組みについても少し勉強しました。

そういった中で、出羽三山信仰が日本社会に与えた影響力の大きさを知るとともに、背後にある信仰を理解せずして手向のまちの構成、成り立ちや、まち並みに現れてくるものの理解が進まないことを確信しました(スライド11)。また私の専門分野である建築的な視点からも宿坊を見ていきましたが、建築そのものは風土の中で生まれた建築の型を継承しており、庄内の民家建築をベースにしたうえで、道者を迎え入れるためのしつらえや祭壇が設置されていることを知りました。五百人講や千人講などに対応するために大型化はしているものの決して宿坊建築は特別のものではない、それが故に、宿坊の数が減ってもまち並みの雰囲気は残されているのだと思います(スライド12)。

3) 日々のくらし、行事

また、手向のまち並みを総合的に理解するにはそこでの日々の暮らしや行事を知る必要があります。この面ではまだまだ不十分ですが、少しずつ体験させてもらっているという状況です。道者さんが参列する護摩炊きを見学したり、精進料理をいただいたり(スライド13)、松例祭を見学したりすることを通して山伏の住む里のくらしの一端に触れ、理解を深めたいと考えています(スライド14)。

 

4) まとめ-継承すべき個性あるまち並み-

景観や風景とは、地形や気候などの風土の中で人々のくらしが作り上げてきた環境の立ち現れた姿です。手向の場合には修験道の営み、思想や行事、また講を通した霞場・檀那場との絆、道者を迎える仕組み・・・そういった人々の暮らしの形がまち並みに立ち現れています。そこには宗教的なものと風土的なものの混在した独特の風景があります(スライド15)。

しかし冒頭でお話ししたように車庫などが今までの歴史的風致に齟齬をきたしており、それらについては少しずつ変えていく必要があると考えています。ただ、これまで外観という「物」よりも、修験道の精神や、それに関わる暮らしのほうが大事だという皆さんの思いを何度となく感じることがありました。

 それに対しての私の考えを述べます。少し話がそれますが、私の専門は建築をデザインすることですので「いえ」をつくりたい方(建て主)とよくお付き合いします。建て主は直接的にはハードとしての住宅を建てるのですが、もちろん家作りの目的は住宅そのものではありません。住宅作りを通して自分の理想とするホーム(家族の生活する場所、家庭)をつくることです。したがって建て主はホームへの思いを住宅の形に込めようとします。当然出来上がった住宅には建て主の家庭のあり様、暮らし方、生活するうえでの価値観など方が反映されます。私たちは住宅の外観にその家族、家庭の姿が投影されていることをしばしば体験します。住宅の外観をみると住んでいる方や家族のかたちが髣髴されます。私は住宅の設計を依頼された場合には、いつも「建て主さん(の家族)らしい住宅を一緒に作りましょう」といいます。建て主の(しばしば言葉になっていないこともありますが)価値観や願い、家族に対する思いのあり様を建築というハードにうまく反映させ、住み手の個性がさりげなく表出する住宅をつくるお手伝いをするのが設計者の役割なのです。

まち並みも同様だと思います。手向には羽黒修験に対する共通の尊崇の念があります。また人々の暮らしもそこに価値を置いています。こんな集落はほかにはありません。そのような手向には手向らしい個性があるまち並みがふさわしいと思います。ほかの町と同じようになってはいけない部分もあるはずです。羽黒山開闢以来の伝統文化を担ってきたように、歴史的風致に富んだ手向らしいまち並みを保全継承していくお手伝いをしたいというのが私たちの願いです。

 

2.手向らしいまち並みとは何か、歴史的風致を構成するものは何か

では、手向らしいまち並みとは何を指すのでしょうか(スライド16)。

私たちは、地形や自然を扱う大きなスケール、まちや集落のスケールそして一つ一つのお屋敷のスケールのいう3段階で手向らしいまち並みというものを考えています。

1) 地形・自然のスケール-山中の雰囲気-

まず大きなスケールの中で手向というまちの特徴をとらえてみたいと思います。

この写真をご覧ください(スライド17)。出羽三山絵日記の写真です。戦前の写真ですが、まるで深い山道のようであることに驚かされます。はっきりと一般の里とは違う山に入るという区切り感を創りだしています。この鳥居は古いものではありませんが、手向の集落自体が平地の世界とは違うという観念が人々に共有されていることは十分に推測できます(スライド18)。

また手向のメインの道は坂道です。徐々に高くなっていきます。上るに従い俗界から聖なる世界に近づいていく(道行の感覚)のです。

断面図から分かるように(スライド19)集落は尾根道沿いにあります。したがって道路に並ぶ屋敷の背後には斜面の深い樹林が見えます。敷地の中にも多くの植栽を植えていますが、樹林を背にすることでさらに下の世界とは違う山中の雰囲気がつくられます。気温や雪の降り方も下のまちとは異なります(スライド20)。

 

2) まち・集落のスケール-門前町のまち割り-

次に少し小さなスケールで見てみます。町や集落のスケールです。

近世の地図を見ますと計画的に門前町のまち割りがなされたまちであるということが分かります(スライド21)。このまち割りは別当宥俊(1580~1661)、天宥(1592~1674)により始められたものです(羽黒町1991、p571)。道路に沿って一定の間口(たとえば桜小路では間口10間奥行きは制限なし)で整然とした敷地割がなされています。またそれぞれのには神社が配置されています(エアハート1994,p188)。これも宥俊がまち割りに伴って配置したものと考えられます(羽黒町1991、p571)。

手向の集落は、岩根沢などと同じく信仰対象である羽黒山と距離を置いてつくられた独立位置型の門前町です(藤本1970、p63)。山岳信仰の門前町に多いタイプですが、他の門前町とどのように違うのか、どこが共通しているのか、いつどういう原則で誰により町割りがされたかなどきちんと整理しないといけないことがたくさん残っています。

また、手向のまちは松例祭のおりに顕在化するように、上と下のまちに分かれています。桜小路が御恩分の集落と呼ばれ、霞場も近場が集まる傾向があるように、町割りと住む人の間にも対応が想定されていたことと思います。間口や奥行き寸法の原則や、まちの折れ曲がり、案内所の配置、途中に置かれた神社の配置などにも計画的な意図があるはずです。このあたりの解明も今後の課題ですが、少なくとも計画的な町割りが手向のまち並みの基本的な構造に大きく関与していることは確認しておきたいと思います(スライド22)。

3) 屋敷のスケール-風土性×宗教性

次にまち並みを構成している一つ一つの建築や敷地のスケールでの特徴を考えます。

 <家屋の3タイプ>

まず建築のことから話します。一般的に特徴のあるまち並みというのはある時代に建てられた同一形式の建築がある程度並ぶという例が多くあります。手向も宿坊というタイプの建築様式が並んでいるという印象はあるのですが、実態としては宿坊建築という特別なものがあるわけではありません。このことは1950年代に調査した横山先生も指摘しています(横山秀哉1955)。風土の中でつくられた建築が門などの宗教的要素と絡みついて独特の風致を醸し出しているのです。ここではまず宗教的な要素を切り離してみます。

手向の歴史的風致を建築に絞って考えてみます。皆さんが手向らしいと感じる建築はおおむね築50年以上(昭和30以前)の家屋が担っています。この家屋には概ね3つのタイプがあることが分かってきました。

 

茅葺民家のタイプ

一つ目が典型的でしょうが、茅葺屋根の民家タイプの宿坊です(スライド23)。いわゆる宿坊というとこのタイプを思い浮かべる方が多いと思います。古い写真にもこの茅葺の宿坊が登場します(スライド24)。茅葺屋根の民家タイプということになりますがこれは屋根の形式としては寄棟になります。

明治18年の手向村建物帳というのが残っています。桜小路分だけですが35の敷地のうち32の家が茅葺であったことが分かる。また平屋も32であったので、実に35の家屋のうち32が平屋の寄棟茅葺建築であったと思われます(スライド25)。また35棟のうち28棟が平入ですからスライド22のような家屋の並びが続いていたと推測できます。この状態が明治の初期までは続いていたわけです。一度この時の状態を図面に起こしたいと思います。この寄棟茅葺屋根はおそらく庄内地方一円の民家の一般的な住居タイプであったと推測できます。ただ現代においては寄棟茅葺屋根の家屋は4つしかありません。

 

妻壁化粧民家のタイプ

次のタイプは妻壁化粧民家のタイプと仮に呼んでいるものです(スライド26)。寄棟と違い、切妻屋根や入母屋屋根の場合には妻側に壁ができます。ここに寄棟ではできなかった通風や採光用の窓を取ることができます。この壁を妻壁、妻壁が道路に対して正対している場合を妻入りとよびます(スライド26)。妻入りの場合にはこの妻壁が建物の顔のようになりますがそこにたたみ上げと呼ばれる梁(横方向の材)や束(縦方向の材)で化粧を施したものが見られます。このタイプは明治末期、あるいは大正から昭和の前期にかけて多く見られるもので、手向に限らずこれも庄内地方の建築傾向と軌を一にしていると考えています。庄内地方のたたみ上げ建築には鏡梁(鏡差し)という特徴がある(御船達雄2004)のですが、やはり手向においてもその特徴を見出すことができます。ただここではディテールを区別することなく、大正、昭和初期を中心に建築された妻壁化粧民家のタイプが手向らしい風致を構成する要素であることを確認します。

 

二階建て入母屋タイプ

さらに3つ目は二階建て入母屋(作り)タイプと仮に呼んでいるタイプです。主に昭和の前期に建てられた二階建ての建築タイプです(スライド27)。このタイプの特徴は2階に天井の高い立派な座敷を持つことです。2階を立派に見せるためだと思われますが、入母屋の屋根であることが多く、妻を道路に向けています。

以上、タイプ1:茅葺民家、タイプ2:妻化粧壁民家そしてタイプ3:二階建て入母屋(スライド28)となります。

 <外構・構え>

手向の場合、まち並みとは言っても建築が道路際に並んでありわけではありません。道路を歩いていると、敷地の道路際の要素が一番目に入ります(スライド29)。土塁、石垣、あるいはそれに絡んだ植栽。とくに桜小路はこの土塁にかつては桜が植えられていたようです。もう一つの大きな要素は敷地の中に多く植えられた樹木、木立です。この木立が背後の山々に連なることでこれが山中の雰囲気を作り出しています(スライド30)。

 

以上の家屋と外構が風土的要素を構成します。

 

<宗教的要素>

手向の歴史的風致は以上の風土的要素に宗教的なものが加味されて構成されます。その両者が相まって作り出しているのが手向らしい雰囲気です。

 まず立派な門があげられます。この門にも3種類がありあります。入り口の両側に柱が建つ門柱、そして貫通し門(スライド31)。それからこれは、手向の中ほどにある正善院に限られていますが長屋門。門はかつて宿坊をしていたうちにも残っています。

 次に注連飾り。これは宿坊に欠かせない設えです(スライド32)。

 また道者さんを迎え入れる立派な破風付き玄関とそこに飾られる注連縄(スライド33)。破風付き玄関はこの地域では特に珍しいものではなくその意味では風土的要素でもありますが、道者さんを迎え入れるという意味合いから格調が高い入母屋破風が多いようです。

 また多くは妻壁の棟下に飾られることの多い引き綱(スライド34)。これが現代的な家の軒先にもあることは先ほども述べた通りです。この引き綱は例えば鶴岡のまちなかでも見ることができますが、ここ手向ではほとんどの家屋に設けられています。

 

2-4 まとめ

以上をまとめた歴史的風致構成要素の表です(スライド35)。この表を見ると、手向のまち並みの持つ歴史的風致が、自然や風土によって作り上げられたものと、宗教的(中でも宿坊)な要素によるものとが複合したものであることが理解できると思います。その理解にあたっては、地形や気候などの大きなスケールから、建築や外構などの小さなスケールまで、分けて考えると理解しやすいことも説明しました。

 これを概念図的にまとめたものがこの模式図です(スライド36)。

 また屋敷スケールでの歴史的風致を構成する要素を持っているかいないかで一軒一軒の建物を数値化してみました(スライド37)。歴史的風致や手向らしさはいろいろな要素が複合して感じられるものなので、必ずしも要素に分解しての点数化は評価項目としてふさわしいものではありませんが、数値化することで大きな傾向が読み取れるだろうということでやってみました。

 まとめの表です(スライド38)。横軸(黄色)には左から右へ風土的要素の低いものから高いものへと並びます。縦軸(オレンジ)には下から上に行くにしたがって宗教的要素を多く持つものが並びます。

 したがって右の上隅に近づくほど総合点が高いものが並びます。黄色で表記されたものは宿坊ですが、その多くは右の上方にあることが分かります。右の上隅に赤枠で囲われた6点以上の家屋は20件あります。このうち黄色で表記された宿坊が半数の10軒を占めます。また、赤字で表記された昭和35年(1960年)以前に建てられた家屋が8軒入っています。やはり宿坊や古い家が歴史的風致の形成に大きな役割を占めているということが分かりますが、そうではない一般の家屋でも歴史的風致に関わっていると思われるものが一定程度あるということが分かります。

 次にこの点数評価をまち並みの地図に落とし込んでみました。先ほども言いましたように点数付けそのものに意味があるというよりも大きな傾向をみるものです。桜小路のほうには歴史的風致を構成する要素を多く持っている家屋が集中しているゾーンがあるということが分かります(スライド39)。その他では概ね分散していることが分かります(スライド40)。

 以上手向らしさあるいは手向の歴史的風致を構成している要素とは何かという観点で、今私たちが考えている内容をお話ししました。今日のお話の趣旨は手向のまち並みの特徴を皆さんと再確認するということでした。私の話はほぼ終了ですが、最後にこの歴史的風致に富むまちを今後、現代的な生活スタイルも満足させる中でどのように継承していけばよいのかという点について少しだけ触れさせていただきます。

3.歴史的風致維持・向上における課題

この街並みを維持していくうえでの課題を4つほど上げさせていただきました(スライド41)。中でも最もこの街並みの質に影響を与えている、逆にいうとその改善によりもっとも効果が得られるのではないかと考えているのが、道路際に建てられる車庫や駐車場です。

できるだけ簡単に触れます。 

 1)車庫、駐車場

私たちはまち並みを道路上から体験しますが、現在、道路際には様々なタイプの車庫や駐車場が立ち並んでいます(スライド42)。私たちの視界に入るのはこの車庫などです。この状態はモータリゼーションの発達した70年代から続いているのだと思います。80年代の写真にもすでに多くの車庫が映っています(スライド43)。ちなみに数年前になりますが桜小路に関しては車庫を全数調べたことがあります。この赤いしるしのところです(スライド44)。

車庫は住居となる部分と違ってなるべく簡便に、安く建てるというのが一般的です。どうしても維持管理が容易で簡単に取り替えることのできる、いわゆる新建材とシャッターでできた車庫が多くなってしまいます。これが、歴史的に形成されてきたこの地域の風致との齟齬を起こしているのです。後ろの道がある場合には車庫を後ろに設けることもできますが、表の道にだけ接道している敷地が大半です。

 ただこれ以上車庫が増えるのかというとそうでもなさそうです。以前私たちの大学院に所属した桜小路出身のKさんが皆さんに聞いたところ、もう必要な車庫はほとんど作り終えているという実態が明らかになりました。

 この車庫が手向らしい歴史的風致と著しい齟齬を起こしているのです。もうそんなに増えないのであれば、今あるものを修景して地域の風致との調和を図ることが解決手段になります。実際に、車庫が面していてもまったく問題ない家屋もあります(スライド45)。また近年改修されたお宅もあります(スライド46)。そういう事例に学びながら、歴史的風致と共存する車庫の在り方を模索していくことが次年度以降のテーマとなります。現在私たちのほうではこのような修景方法をイメージしています(スライド47,48)。

 とはいえ、建物の表層だけを化粧し、あたかも周辺の歴史的なものに「カモフラージュ」させることにどれだけの意味があるのかという疑問もなくはありません。車庫は車庫らしく、安価に機能性を追求するのが合理的ではないか、そこに美しさを見出すことはできないのかという声も聞こえてきそうです。仮に先ほど申し上げたように手向らしさを保つためにまち並みに手を加えることは賛同いただいたとしても、表面だけを整えるという方法に関しては、正直なところ私自身迷いがあります。私としては次のように考えています。

 車庫という建築は機能性のみを重視し、無機的な大量生産の材料を用いた20世紀型の建築の代表です。工業製品ですからどこでもいつでも同じものが手に入りますから、日本中で同じ表情をしていますし、取り換えも容易です。しかしこれこそが日本中の町から個性をなくし、画一的な表情のまちを創りだしてきた一因です。今大事にしようとしている歴史的な風致とは固有の自然条件の中で地域の人々が地域の材と工法を使い地域らしい個性ある風景をつくってきた、そのことを大事にしようという考え方です(スライド49)。今後は車庫といえども、機能性を踏まえつつも風土性とのうまい調和を持つありかたを見つけていくべきだと思います。今その答えがあるわけではありませんが、自然や環境に対する私たちの態度そのものを深く省察する中で一つの解が見つかると思っています。手向の皆さんの前でこんなことを言うのは僭越ですが、修験道や山伏が昔から大切にしてきたものの中に解決のヒントがあるような気がしています(スライド50)。

 とはいえ、本質的なあり方に到達するまでは、たとえ表層のお化粧なども含めてより歴史的風致との齟齬の少ない方法も試みなければならないと思います。車庫において目に見える成果を出していくことが重要なのです。

冒頭申し上げましたように、歴史まちづくり法ができて、地域の皆さんの気持ちが同一方向に向かえば、いろいろな街並み修景の制度も応援してくれます。そのための第一歩として私たちの研究室で考えました、まち並み協定の素案を読み上げまして私のつたないご報告を終了させていただきます(スライド51)。

ご清聴ありがとうございました(スライド52)。

 

 

<参考文献>

岩鼻通明2003『出羽三山信仰の圏構造』岩田書院

戸川安章編著1975『出羽三山と東北修験道の研究』名著出版

戸川安章2005『出羽三山と修験道』戸川安章著作集Ⅰ岩田書院

戸川安章2005『修験道と民俗宗教』戸川安章著作集Ⅱ岩田書院

羽黒町編纂、戸川安章他著1994『羽黒町史上巻』鶴岡印刷

藤本利治1970『門前町』古今書院

御船達雄2004『庄内地方民家史の研究』早稲田大学学位論文

横山秀哉1955「羽黒修験手向宿坊の建築(1)」日本建築学会研究報告N030

エアハート.H.Byron1994 岡田重精他訳『日本宗教の世界』朱鷺書房

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani