まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

再び団地の近隣センターめぐり

2015-08-23 21:21:36 | 建築まち巡礼東京 Tokyo

カミさんの趣味でもありますが、二人で団地の近隣センターめぐり。2011年にもちょうどお盆の時期に行きましたが、ことしも近場の多摩ニュータウンへ。

まずは落合住宅(上左写真)。70年代に開発された供給公社団地。

谷筋の幹線道路で島状の団地を囲う。。尾根筋に歩行者専用道路を設けてその両側に居住地を貼り付ける。地形を利用した歩車分離。歩行者道路と谷筋の道の交差する部分にバス停(すなわち低いところ)、そして歩行者道路側(高いところ)に近隣センターを配置する・・・という(おそらく)セオリー通りの配置計画。お盆なのでお休みのところもあったが、空き店舗はなさそうです(上右写真)。

郵便局も機能しています。中華料理屋に入ると、ご高齢の方々が昼間からアルコール片手に談論風発。ここがコミュニティセンターとなっています。

しかし、バス停までの段差はきつそう(上写真)。

続いて豊ヶ丘(下左写真)。やはり70年代の開発。こちらはUR(旧住宅公団).お盆で休みなのかどうかわかりづらいところはありましたが、下左写真のスーパーマーケットはやっていないように見えました。

少し寂しい雰囲気。個店はちょうどお休みでしたが、NPOなどが運営している店が多いようです(下左写真)。このセンターも谷筋(低いところ)の車道と交差していますが、車道沿いのコンビニには多くの人が出入りしていました(下右写真)。

最後に聖ヶ丘(下左写真)。ここは80年代の団地です。図書館や公民館、ホールもあります。多くの人が出入りしています(下右写真)。その人通りの多いところで、子供たちがテニスごっこをやっています。団地ですから広い遊び場もあるはずです。やはり大人もいるところで遊びたがるのですね。計画者が決めた「遊び場」にはない魅力がこの場所にはあるのでしょう。

下左写真のスーパーは以前はいなげやでした。今は違う店が入っていますが、以前より売り場を少し小さくして、駐車場を増やしているようでした。減築が功を奏したように思います。また確か以前は店舗などの用地として分譲されていたように思いますが、そこに包括支援センターなどが建っています(下右写真)。2011年の写真を見ると建設中でした。

高齢者のかたたちの居場所がうまい形で近隣センターに挿入されたようです(下写真左、右)。立派な散歩道が高齢者の方々の生活インフラストラクチャーとして活きていくと思います。

設計計画高谷時彦事務所のHPへ

同じカテゴリーの他の記事へ

記事一覧へ

 


オスカーニーマイヤー:最後の巨匠

2015-08-23 19:43:43 | 建築・都市・あれこれ  Essay

オスカーニーマイヤー展を駆け足で見学。写真左はサン・フランシス・デ・アシス教会。右写真はイビラプエラ公園の模型。なんと1/30スケールです。故森稔森ビル社長の1/1000模型にも驚きましたが、これにも仰天。

ニーマイヤーが自作の形態のよって来るところを、スケッチを交えて解説するビデオがありました。昨今の建築は、人が集まる場を作ったり、行為を誘発する仕掛けとしての存在であったりと、形そのものの存在を前面に押し出すようなものが少ないように思います。建築は形であることには違いはないのだけれども、形から発想するという態度は慎重に避けられる傾向にあるといえます。しかしニーマイヤーは違う。堂々とかたちから入っていく・・・。美しい形を提示することに躊躇はない、逡巡もない・・・潔いです。

ニーマイヤーの建築の持つ美しい形ははブラジリアでもっとも純粋に存在しています。手元にある”Building Brasilia”のMarcel Gautherotの写真は息を呑むほどの美しい造形美を伝えています。何もない平原に建築が建っていき、都市ができていくプロセスは感動的です。しかもそれが極めて美しいのですからなおさらです。

ブラジリアは衆知のように鳥が羽を広げたような平面プランをしています。何もないあの平原のなかに、新しい暮らしの場を作ろうとすれば、誰かがああいうわかりやすい都市の形(一枚の絵)を提示するしかなかったのでしょう。ルチオコスタの描いた絵の中にニーマイヤーは美しい建築をちりばめました。鳥瞰すると人類史に残るすばらしい造形作品です。しかし地上での人々の生活の利便性や人間的なスケールという意味では、多くの問題を抱えています。

ここまで書いて、槇文彦先生の「ブラジリアという<一枚の絵>」というエッセイを思い出します。都市計画家や建築家の描く一本の線、一枚の絵の中にこめられた私たち(人類)の造形への欲望あるいは渇望。そして同時にその線が人々の生活を規定するという暴力性。「およそこれほどロマンチックな暴力行為はない」と槇文彦先生は言います。

心の奥底に美しい造形への渇望をもっていなければ、私たち設計者はがんばり続けられないように思います。しかし自らが描く絵の持つ意味を社会の中で客観的に見ようとする態度を持っていないとすれば、設計者たるべきではない・・・槇先生はそう私たちに教えてくれているように思います。

設計計画高谷時彦事務所のHPへ

このカテゴリーの他の記事へ

記事一覧

 

 

 

 


由利本荘文化交流館カダーレ

2015-08-23 17:24:50 | 建築まち巡礼東北北海道 Tohoku, Hokkaido

昨日遊佐に行ったあと、まだ少し時間があったので、由利本荘のカダーレまで足を伸ばしました。

大変印象に残る形態です(左写真)。基本的には1100席のホール、図書館、そして学習室や研修室、会議室などからなる公民館(あるいは生涯学習施設?)の3機能複合施設です。建築雑誌で見ると大変複雑な平面だというイメージがありましたが、実際には明快なゾーニングがありわかりやすいと思いました(ただし図書館の人が言うには迷う人が多いとのことでしたが・・)。上右写真は北から見ていますが、右の大きなボリュームがホール、左のドームを中心としたゾーンが図書館(2層)です。公民館ゾーンはホールの南側と3階のドーム(天体観測室)にあります。

上の写真がホールです。ホールはいわゆる多目的ホールとして作られています。この日はPAを使った民謡大会でした。

ホールのホワイエが不思議空間で大変印象的です(上の写真左、右)。光がいろんなところから落ちてきて、打ち放しコンクリートの重さがありません。なかなかよいと思います。

図書館もスリットが非常に効果的に光を導きいれます(上写真左、右)。複合施設にありがちな、閉鎖的で重い印象がまるでありません。

ちらちらと、ほかの階や吹き抜けの向こうの人が見えることが、この施設の楽しい雰囲気を作っています(上写真)。

また、当日は、展示用のギャラリー室を出演者の更衣室に使っていましたが、こういうことができるのも複合施設の良さでしょう。また市が一元的に管理しているということも使いやすさにつながっていると思います。・・・などと書いてきましたが、重いコンクリートが軽やかに空間を仕分けるというこの建築の最大の特徴は実物でないとおそらく伝わらないと思いました。

設計計画高谷時彦事務所のHPへ

同じカテゴリーの記事へ

記事一覧


遊佐町のにしん王青山留吉青山本邸

2015-08-23 13:50:10 | 建築まち巡礼東北北海道 Tohoku, Hokkaido

 

鰊王青山留吉の青山本邸を訪ねました。明治初期に北海道積丹半島の鰊漁で財をなした青山留吉が、故郷の遊佐に金に糸目をつけずに作ったといわれる豪邸です。青山翁は小樽にも鰊御殿を残しています。

解説パンフによると、明治20年から23年にかけて分家当主青山米吉の差配で棟梁土門市郎左ェ門が手がけました。切妻平入りで桁行き12間、梁間7間、下手に水周りが角屋で突き出ています。これも中門作りということになると思います(上左写真)。座敷周りは檜造り、春慶塗です(上右写真)。

「神庭」と呼ばれる庭には信じられないような大きさの岩があります(上左写真)。屋根は庄内には多いのですが妻側に出桁をしたせがい造りです。また、妻壁を見ると庄内地方(周辺)に特有の鏡梁が見られます。鏡梁あるいは鏡差とは棟を束ではなく上段梁で直接受けるものです(上右写真)。

所蔵品のなかには実に手の込んだ鳥かごがあります(上写真)。以前鶴岡の古い町家でも竹の鳥かご細工を見せていただいたことがあります。

この本邸から海は近いのだろうと思って外に出ました(上右写真)。

塀に沿って少し進むと砂丘を越える小さな峠があります(上左写真)。その先には日本海。絵に描いたような演出です(上右写真)。

記事一覧

設計計画高谷時彦事務所HPへ


前酒田市長のこと

2015-08-23 12:10:57 | 建築・都市・あれこれ  Essay

昨日(2015.0822)酒田市の前市長本間正巳様の葬儀に参列しました。

 

本間市長とは、副市長時代、新しく作る市役所のあり方検討委員会でご一緒させていただきました。あり方検討委員会には黒田東北公益文科大学学長(当時)に声をかけていただき参加しました。ちょうど文化的景観の議論が始まり、酒田の町の空間構成の面白さに引き込まれ始めていたころだったので、私にとっては酒田というまちを別の視点から考えるるよい機会でした。

 

本間正巳様とは公の場での議論が終わった後も、もう少し意見を聞きたいということで、別室で模型をはさんでいろいろお話させていただいたことを思い出します。ご自分の意見をお持ちでしたが、まずはいろんな意見を聞いてみようというお考えでした。お話をする中で、葬儀の中でも皆さんがおっしゃっていたように酒田のことをさらに元気で住みよい町にしたいとの強い思いを私も感じました。

 

市長になられてからは企業誘致などでも成果を着実に上げておられましたが、実は私が印象に残っているのは副市長時代の次のようなお言葉でした。「自分は誘致企業で100人の雇用が生まれるよりも、今の酒田の100の企業が一人ずつ従業員を増やせるようにしたい」。私はJ.Jacobsが『都市の原理』や『発展する地域、衰退する地域』などで主張するように地域での産業創造が持続的発展のためには必要だと思っていることもあり、本間正巳様のその発言に心の中で強く共感したことを思い出します。

 

昨日の葬儀の後、フリーの時間ができたので、前から行ってみたかった「鰊王」青山留吉の本邸を遊佐町青塚に訪ねました。その後、昼ごはんを遊佐町「道の駅鳥海」でたべたのですが、食堂に入ったとたん、その食堂が本間市長と最後にお会いした場所であることに気づきました。

以前事務所のものと2人で食事をしていたら、横をきちんとした身なりをされたかたがたの集団が通り抜けていきます。その中に本間市長がおられました。私がご挨拶をしようと、食べていた丼をあわてておいて立ち上がると市長が近づいてこられ「よろしく頼みますよ」と私の手を強く握られました。その翌日かよく翌日です。市長が検査入院をされたということを知りました。

そのときと同じ、「うにいくら丼」を食べながら、今日この道の駅に来たことにも不思議な因縁を感じざるを得ませんでした。本間市長が愛してやまなかった酒田のために、何かほんの少しでもお役に立てることができればよいなと改めて思う次第です。合掌。

 

記事一覧

設計計画高谷時彦事務所HPへ