まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

前橋、蚕と広瀬川美術館

2010-06-26 22:34:05 | 建築まち巡礼関東 Kanto

用があって前橋に行ったついでに敷島公園の蚕種資料館などを見学しました。

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明治末期に建てられた擬洋風の建物です。まちなかキネマのもととなった松文産業鶴岡工場の古い建物にもたくさんの糸枠が保管されていました。糸枠は蚕から取り出した糸を最初にまいておくものです。

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この糸枠を照明器具に使えないかなどと話していましたが、なんとこの建物の前の松林にすでにありました。皆さん同じようなことを考えるようです。

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蚕種資料館のすぐ近くに萩原朔太郎の生家の一部が移築されていました。

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残念ながら、ほとんど展示品はありません。午後に用事があったので早々にここを出て、どうしても見たかった広瀬川美術館に立ち寄りました。

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前には広瀬側の豊かな水が流れています。

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すぐ近くにアーケード商店街もありますが、日曜の昼というのに、少々寂しい風景でした。

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しかし、広瀬川美術館は思った以上に密実な空間でした。階段室が大変狭いのですが、その分部屋が広く感じられます。ちょうど川が北側になるのでそちらに向けて大きな開口を取っています。広すぎず大変よいスケールです。

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全体は小振りなのに、一つ一つの空間が充実しています。壁の小さな棚や開口の位置など緻密に計算されています。アールトの自邸(古いほうの事務所)の食堂や居間を思い出しました。人の存在に実にきちんと対応した空間なのです。図面を手に入れて構成の巧みさをレヴューしたいと思っています。これが昭和22年築ということですから、資材の不足など設計の巧みさで十分カバーできるという見本といえるでしょう。

 

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


みそのグリルはもう見られなくなりました

2010-06-16 15:28:26 | 建築・都市・あれこれ  Essay

先日自転車で移動中に気づいたのが、下の光景。建物の解体工事です。

鶴岡城の前、バラ園の正面です。

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間違いであって欲しいと思いましたが、間違いなくみそのグリルの外壁タイルです(下の写真)。スクラッチタイルが見えます。

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昭和の初期前後に建てられたものだと思います。昭和の時代には、みそのグリルとしてソフトクリームやカリーを出す洋食屋さんだったそうです。2階の客席からはお城の中のバラ園が良く見てたようです。

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部分的には面白い左官仕事もみられます。

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残念ながら、またひとつ鶴岡らしいものが減ってしまいました。

 

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


青梅キネマ通り

2010-06-05 17:29:22 | 建築まち巡礼東京 Tokyo

久々に青梅のテニスに参加しました。やっと仕事が一段落したので土曜は「午後から出勤」のペースにもどることになりそうです。しかし、復帰はしたものの右肩が痛くて満足なプレートとはいきません。 昨年K邸とまちキネの現場が続いたため12月ごろからまったく運動をストップしましたがそのとき以来60肩状態です。

さてテニスが終わって青梅の町を駅に向かいますが、見慣れた映画看板を見ると「キネマ通り」という名前に気づきました。ここにも「キネマ」の名前が使われていたのでした。

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昔見た映画の看板が駅まで続きます。

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二人の不思議な出会いの場面から最後の悲しい結末までが少づつ思い出されます。

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これも悲しい最後でした。キャサリンロスをもう少し似せて描いてくれるとありがたいのですが。この映画の前に「夕日に向かって走れ」という似た題名の映画をみたことを思い出しますが、これもキャサリンロスでした。同じく主人公の死という結末。

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なんとメトロポリスまでありました。おじさんたちにはたまらない看板がならんでいるのが青梅の町です。

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


機能主義都市計画(CITY PLANNING)01

2010-06-05 16:45:16 | 講義・レクチャー Lecture

1.はじめに

今までは都市づくり、まちづくりの新しい潮流について紹介しました。新しいというからには今までは何であったのかということになります。それは19世紀に近代産業の発展とともに起こった都市問題解決を目的とした近代的な都市計画ということになります。より正確に言うと、その近代的都市計画が20世紀を迎え理論的にも整理される中で、建築の「モダニズム」「機能主義」「インターナショナリズム」などと結びついた「機能主義都市計画」であるといえます。

では機能主義都市計画が何であったのかを直接勉強しようとするとそれだけで、半年間以上かかってしまうことになりますし、本講義の目的でもありません。そこでここでは機能主義都市計画についてはその代表的なイメージをスライドでいくつか紹介するだけにとどめたいと思います。それから機能主義都市計画を正面から批判した2つの代表的文献を取り上げて、そこから照射されるものとして近代都市計画、機能主義都市計画が何であったのかを考えていきたいと思います。

 

 

文献

クリストファーアレクサンダー「都市はツリーではない」

Christopher Alexander  A city is not a tree, Architectural Forum,Vol 122,1965

 

ジェインジェイコブス著 黒川紀章訳 『アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会、1969

 

 

2.近代都市計画の終焉を象徴するイメージなど

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3.クリストファーアレクサンダーの視点

近代都市計画の中核にあるのは人々の暮らす環境は計画によってよきものとしてつくりうるという方法論上の前提です。これは新しい都市をどうつくるのかという場合にも、既存の都市をどのように作り変えるべきかという議論でも同じように考えられています。専門家、計画家の提示する理論、計画論にのっとれば都市は理想的に建設しうるということです。こうやって20世紀においても理想的な暮らしの環境のイメージが計画家、建築家によって提示されてきました。それらのいくつかのものは実現しています。また、近年においても東京の六本木ヒルズやミッドタウンなど機能主義都市計画の系譜上でたくさんのプロジェクトが実現しています。

これに対し、1960年代に方法論上の異議を唱えたのがクリストファーアレクサンダーです。骨格となる考えは、専門家が限定された人数で、限定された期間で計画案を作る場合には、社会や空間のシステムを極端に簡単に捕らえるツリー構造で理解することが前提となる。そこで専門家特に建築家や都市計画家による計画案は非常に単純な構造を持ったシステムとして都市をつくることが避けられない。それは人間の複雑な生活、社会に対応していない。実際にはセミラティス構造を持つ複雑な社会の実態と乖離しており、そのような計画案は人を幸せにすることがありえない。そこで計画の立て方から根本的に見直さないといけない、というのがアレクサンダーの意見です。彼の論文を紹介します。

 

前回の講義でも出てきたLevittown,シャンディガール、イギリスのニュータウンなど人工の都市はツリー構造。それに対して京都やシエナ、マンハッタンは自然発生的都市でありセミラティス構造であることを指摘しています。ツリー構造の都市には何か肝心なものが足りない。人間的な見方からして、人工都市は皆失敗作であると言い切っています。

 

ここでツリー構造、セミラティス構造というものを理解しておかなければなりません。計画者というのは人々の生活環境を考えるときに、もののエレメントの集合として捕らえます。人、葉っぱ、車などなどです。それらの中で一緒に機能するエレメントの集合したものをシステムと呼びます。都市のデザイナーはそのシステムの中でもものとして固定されているものを都市のユニットとよんでいるのです。

ここでアレクサンダーは、1から6までの数字からなる集合を考えます。その組み合わせには[1][25][345]など56通りのサブセット、くみあわせがありますが、彼はわかりやすい比喩も交えてその組み合わせの仕方がセミラティス構造になる場合とツリー構造の二通りあることを示してくれます。簡単に言うと前者は組み合わせの中にオーバーラッピングがある場合、後者はない場合といえます。

例えば20の要素からなるツリー構造は19のサブセットを持ちます。一方セミラティスははるかに複雑でかつ微妙で手の込んだ構造であることを、20の要素からなるセットは100万のサブセットが可能であることから説明します。

 

彼はこれまでの都市モデル、コミュニティモデルがすべてツリー構造であったことを一つ一つ例示します。図1コロンビアのコミュニティ調査の例。5つの近隣住区→村→まちというツリー構造です。図2クラーレンススタインのガーデンシティ。学校と駐車場住区から構成されるスーパーブロック→ガーデンシティのツリー構造です。このほか都市計画上大変有名な計画案を列挙しています。アーバークロンビーのロンドン計画、パオロソレリのメサシティ、丹下健三の東京計画、コルビジェのシャンディガール、ルチオコスタのブラジリア、ポールグッドマンのコミュニタス、ヒルベルザイマーの理論書『都市の性質』などです。

これらは建築や都市計画を目指すものが必ず勉強してきたものですが、すべてあっさり切り捨てられます。私たちにもっと身近な例を挙げれば、鶴岡の行政区を考えてもよいのではないでしょうか。旧鶴岡と櫛引、温海、羽黒などを思い浮かべてください。それぞれに区とか町とかの単位がありますがそれらをエレメントと考えてください。現在の行政システムがツリー構造ということは明白でしょう。たとえば温海の●●地区と櫛引の△△地区、羽黒の□□地区がひとつの単位(エレメントのセット)として捕らえられることはありえません。見事なツリー構造です。実際の町には何千というサブセットがあり、セミラティスとして考えれば何百万の組み合わせが発生するのでしょうが、行政組織としては極端な単純化が図られていることがわかります。

アレクサンダーは人のつながりを例にしてツリー構造のリアリティのなさを訴えます。住区単位ごとに人の付き合いが限定されるということはありえません。さまざまなオーバーラップがあるはずです。近隣住区の中にすべてのコミュニティ活動が修練することは現実にはありえないのです。

ツリー構造というのはひとつのファミリーに属している人がもうひとつのファミリーに属せないということです。計画においては強迫観念的にこのツリー構造が守られようとすることを指摘しています。

 

反面、ツリー構造の理解を脱しようとした試みも紹介されています。ルースグラスのミドルスブラ計画ではツリー構造が実態を反映していないことをちゃんと指摘しています。ミドルスブラは建築形式、収入、勤労形式で29地域に分けることはできる。しかしこのように分けられたフィジカルな区分が実態のコミュミティと一致するのかという疑問から出発しています。人々の活動は圏域ではなく活動のノード、中心的な場所(複数、クラブや組織、お店の所在地)に支配されていることが多いことが明らかになっています。いわゆる区分された近隣単位は活動とはあわないのです。

 

ルースグラスとは反対にコルビジェやカーンという巨匠たちの計画案は批判の対象となっています。彼らの計画では車の速度にあわせた道路体系があり人のルートとは分離されているけど、実生活でタクシーに乗れるのは両者が出会うからに他なりません。マンハッタンでは両者が同じところを走っているすなわちシステムのオーバーラップが保障されていることが街らしい町となっていることを指摘します。

 

次にアレクサンダーはCIAMの理論を検証していきます。例としてリクリエーションの分離が取り上げられます。リクリエーションの場は具体的には町の中に囲われたプレイグラウンドとして整備されます。プレイグランドを分離するということは、私たちの心の中でプレイ遊びを分離しているのではないかと問題提起がなされます。

遊びはその日その日で場所も方法も違うものです。廃墟で遊んだり川端で遊んだり、人のいない建築現場で遊んだり。これらの遊びの行為とそれに必要な対象物はひとつのシステムを構成する。このシステムは都市の中のほかの部分と連続的なものなのです。決して切り分けられない。囲われたプレイグラウンドの中での遊び(他のものとオーバーラップしないという意味でツリー構造)は実態と隔絶したものなのです。

同じような間違いはグッドマンのコミュニタスやパオロソレリのメサシティにもみられます。大学を都市のほかの部分から分離することです。都市の中で線を引いてここから内は大学外は非大学と区分する理由は何でしょうか。コンセプトとしては明快だが大学生活の実態とは離れています。自然発生的な都市ではそんな区分はないはずです。大学人もコーヒーを飲み、映画を見ます、移動もします。区域の切り分けに大きな意味はないはずです。

他にも例があります。ブラジリア、シャンディガール、最近の例としてパフォーミングアートの集合体であるリンカーンセンター。でもコンサートホールがオペラ劇場の横にないといけない理由は何でしょうか。一晩に二つの劇場をはしごすることがあるのでしょうか。自然発生的な場合にはそれぞれがあるべきところにある。

職住の分離はガルニエの計画に現れ、その後アテネ憲章に取り入れられましたが、現在では人工都市のすべてにとりいれられ、ゾーニングコードで堅く守られています。確かに20世紀の初頭にはあまりにも状態が悪かったので計画者が汚い工場を住宅から分離しようとしたことは理解できます。しかし、分離が多様性をなくしてしまっているのです。

最後に都市の中の住区を孤立したコミュニティに変えてしまったアーバークロンビーのロンドン計画が取り上げられています。実態はセミラティスなのに計画者の頭だけはツリー構造というわけです。

また、先ほど私も触れましたが実際の問題の起こり方や解決の仕方はセミラティス的にならざるを得ないにもかかわらず。行政組織はツリー構造だと指摘されています。

 

ではなぜ、デザイナーは都市をツリー構造として捕らえるのかということが疑問となります。じつは、セミラティスが複雑すぎてその複雑性を単純な思考では追いきれないために、わかりやすい理解可能なツリーにいってしまうのです。

わかりやすい例を挙げています。オレンジ、スイカ、サッカーボールとテニスボールの例です。色、形、大きさなどで分類可能ですがこのオーバーラップを心に浮かべるのは難しいですが、無理やりツリーにしてしまえば簡単です。グルーピングとカテゴライズは最も基本的な心理プロセスです。どうしても複雑なものあいまいなものを単純化して理解してしまう。都市のように複雑なものもツリーにして理解してしまうという傾向が避けられません。このことは図形認識の実験でも明らかにされている。複雑なセミラティス構造は単純でより理解しやすいツリー構造に置き換えられて理解されるのです。

 

ではいったい都市はどういうものなのかという根本的な問いです。この論文でアレクサンダーはきちんとした答えを用意しているわけではありません。

ただイメージに頼るとオーバーラップの効果を少しは理解しやすいということをサイモンニコルソンの作品で説明しています。この絵の魅力はまさに複雑なオーバーラップにあることを理解した上で、私たちが思考の手がかりにするのもこうした絵やイメージになることを示唆しています。また厳密な議論のためには現代数学の一部であるセミラティスも力になるようです。

 

最後にツリー構造の都市計画に厳しく警鐘を鳴らします。ツリー構造で考えるということは人間性や生きている都市の豊かさを、デザイナーや管理者の理解のしやすさのために犠牲にしているということになります。町の一部がなくなってツリー構造の町で置き換えられていくと都市の分裂(相互が無関係になること)が起こります。分裂は破壊の兆候です。社会的にはアナーキーです。一人の人間の中では分裂(dissociation)は分裂症や自殺の兆候ですが、同様に都市全体の分裂(dissociation)の不吉な前兆はリタイアーしたひとがアリゾナのサンシティのように都市生活と分離されることに見出せます。それは長く住んでいた人たちの仲間を若者から離すだけではない。一人の人間の中でも過去とのつながりが遮断されるということ。自分自身の人生が区分されることです。ツリー構造のまちを決してつくってはならないのです。

 

以上のように警鐘とともにアレクサンダーは新しい計画論の必要性を訴えているのです。

この主張はこの後にパターンランゲージなどの形で多くの人々の参加による時間とともに成長する計画論として提示されます。この方法は都市づくりだけでなく建築作りにも応用されます。今日に至るまで多くの人々の関心を呼ぶ方法論になっています。

 

 

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani

 


機能主義都市計画(CITY PLANNING)02

2010-06-05 16:43:00 | 講義・レクチャー Lecture

 

 

 

4.ジェイコブスの批判

 

近代都市計画、機能主義都市計画を方法論的に分析し、物事を単純化せざるを得ない宿命的な欠陥が、CIAMなどが提唱する機能分離を生み出したと批判したのが、「都市はツリーではない」という論文です。同様な視点を持ちつつも、近代都市計画の方法を具体の成果を検証することを通じて、その方法にまで到達する批判を展開したのが『アメリカ大都市の死と生』です。

 

 

ジェイコブスの扱う大きなテーマは機能純化です。これは、専門家による計画が物事を単純化しないといけないというアレクサンダーの批判と連動していますし、またアレクサンダーもセミラティス構造に不可欠のオーバーラップのない分裂dissociationとして機能分離とゾーニングの問題をすでに批判しています。

 

 

前回のニューアーバニズムの講義の中で純粋培養の郊外の家族像の話をしました。サラリーマンの夫は車で都心に通う。聡明な母は専業主婦。清潔な台所とおいしい料理。車でスーパーマーケットに買い物。子供たちはいろいろ問題を起こすが家族の見守りの中で解決。都市にあるような怪しげな界隈に出入りすることもなく子育てのための純粋な環境が作られているわけです。こういう家族像、郊外像、そういうものに対応したのが近代都市計画であるともいえます。その理想の郊外が今大きな問題となろうとしていることは前回議論しました。

 

近年都市の面白さとして路地などが評価されています。また東京の街でも下北沢のような雑駁なまちに人気があります。これは建築でも同じです。ピュアリズム、純粋な形態、機能に対応した理由のある形、あいまいなものの排除、きれいなもの=新しいもの、常に新しくしていけるシステムたとえばメタボリズムなどという近代主義的なものに変わる価値が求められています。

 

 

これらの多少のやい雑さも含めた中に都市の魅力もひいては活力もあるとしたのがジェインジェイコブスです。

 

ジェイコブスは本の最初に現在の都市計画野菜開発に対する挑戦をすると明記しています。今までの原理にまったく反対のことを提示するということです。

 

 彼女の議論は具体的です。計画家というものは金さえあれば都市の中で次のことを解決するというが字際には正反対の結果を生んでいることを指摘します。

 

 

 

1.10年でスラムを解決。

 

2.郊外のblight化をストップ

 

3.中産階級をまちに引き止める

 

4.交通問題の解決

 

 

実際には次のようになってしまっている。

 

 

1.スラムクリアランス→スラムより悪いバンダリズム、社会的虚無

 

2.中所得そう向け住宅建設→組織の停滞

 

3.高所得者向け住宅建設→個人の贅沢よりはましな程度

 

4.商店街→郊外のチェーンストアのまね

 

5.自動車道建設→都市の侵犯

 

6.人口密度によるゾーニング→正札を貼られた民衆、敵対孤立する地区

 

7.人のための計画家→征服者の家来、住民の追い立て屋

 

 

それをNYモーニングサイト一帯の再開発の例を挙げて具体的に説明しています。そこではスラムを一掃し「太陽、空気、緑、景観」プラスSCを作りましたが、その後衰退してしまったということです。これだけ失敗の明白な事実があるのに原因究明をしない。あるいは交通問題を解決するために道路をつくるという発想しかない。本当は自動車の是非の議論が必要なのにもかかわらずということです。

 

 

彼女から見ると現代の都市計画というのは昔の瀉血治療と同じで本人の健康をどんどんなくさせるものです。ノースエンド(ボストン)をスラムだと思い込んだら、豊かな暮らしぶりが見えなくなってしまっています。建築科の学生にスラムの一掃の絵を書かせて喜んでいる有様です。この町は移民の町で過密を克服して高い密度の中で良好なコミュニティ、低い死亡率を実現していることが実証されているにもかかわらずスラムと思い込んでいるわけです。

 

 

本当の都市計画の科学・都市デザインの技術をつくる必要をジェイコブスは訴えます。

 

ただし次のものに頼ったらだめだそうです。

 

・ハワードの田園都市→都市から逃げて田舎で低密に暮らすだけ。

 

・コルビジェの「輝く都市」→都市を田舎にするだけ。

 

・シティビューティフル、シティモニュメンタルの運動→リンカーンスクエアを作るだけ。

 

 

といったことを前提に、ジェーコブスはⅠ都市の特性の分析から本論をはじめます。彼女は歩道の持つ重要性をいろんな側面から指摘します。

 

 

まず安全な歩道について述べます。

 

都市は知らない人たちと接触する場ですから安全性が必要ですが、多くの人がいるから危険という通俗的な指摘は間違いでそのよい例がロスアンゼルスです。安全のためには歩道が多くの人に見られていることや常に使われていることが必要です。そのためにバーやレストランがあって人が集まる、その雰囲気がある。商店主がパブリックな役割を果たしていることが必要です。安全な歩道というものはゲイティッドコミュニティにもコルビジェの輝く都市にもないものなのです。

 

さらに歩道の役割として人と人の接触をあげます。

 

住み心地のよい家や休憩所があれば歩道に出ることはないだろうというのは大間違いです。歩道でのパブリックライフやインフォーマルな公共生活が重要なのです。都市生活を単純化して「他人と多くを分かち合うか、孤独か」と考えてはいけなくて、中間の関係性があること、そしてそれがあるのが都市であるととらえています。

 

また子供の場所としての歩道の重要性も強調されます。

 

都市計画家は計画された公園で子供を遊ばせたがります。この指摘はアレクサンダーとまったく同じです。都市計画家は街路を目の敵にして「健康な環境に囲まれ、子供たちの笑顔にみちた清潔で幸福な場所=芝生の公園」と思っています。実際にはそこはいじめの場所になっているのです。子供たちは大人の目の届く街路で遊んだほうが安全だし面白いことを知っているのです。

 

 

次に近隣公園の計画方法も近代都市計画は間違っていることを指摘します。

 

近隣公園も子供の遊び場と同じです。都市計画では近隣公園は重要なオープンスペースであり、都市の肺、不動産価値を上げるものと考えています。しかし「輝く都市」の公園だけでは逆効果を生んでいるのです。

 

生きている公園というのは

 

 

・複雑さ

 

・中心がある

 

・太陽の明るさ

 

・適当な囲い

 

 

ということでコルビジェの考えたものとは大いに違うものなのです。

 

 

近代都市計画の中心理論である近隣住区の考えも間違いであることを指摘しています。

 

この項目もアレクサンダーと共通するものがあります。ひとつの小学校区に対応してショッピングとコミュニティセンターのある7000人のまとまりが重要と教えているのは大間違いなのです。そんな単位は実態とは無縁です。意味のある単位は都市全体、街路をはさむ近隣など。線が引けるようなユニットはない。生活のアクティビティや社会ネットワークに着目すべきです。

 

 

ここで前半を終え、Ⅱにおいては都市の多様性の条件を力説します。

 

 

まずここではこの項目は非常に有名な次の4原則がかかれています。

 

 

・用途の混在

 

・小さなブロック(パーミアビリティということでしょうか)

 

・古い建物があること

 

・ある程度高い居住密度

 

 

用途混合の例としては、アレクサンダーと同じくリンカーンセンターへ施設を集めてしまったことは失敗だったと指摘しています。仕事画や住宅地の中にあったからよかったし、周りに波及効果もあったのです。

 

 

これに各項目の説明が続きます。まず、小規模ブロックにすることで、さまざまな人がさまざまな時間に街路を利用するようになります。「輝く都市」のような通過するだけの道はだめなのです。

 

 また古い建物があることで、安く起業できる。まちは孵化器となります。さらに古い建物には時間でしか作れない価値があることも述べられます。

 

密度の高さの必要性は強調されますが、足元に広場を持つ高層建物は、高密度とは相容れないもの、多様性を否定するものとして否定されます。高密の健全なコミュニティをイメージしているのです。

 

 

最後に多様性について、混雑とはまったく違うこと、単調さや均質化ではなく差異が必要であり、そこから豊かさが生まれることを強調します。多様なものがあるから歩いて行き来する必要も生まれるのです。

 

 

 ジェイコブスの主張は現代においてはほとんど首肯されていますし、以前見たようにクリエイティブシティの議論にも通ずる内容を持っています。ジェイコブスにしてもアレクサンダーにしても大変な先見性を持っていたといわざるを得ません。

 

 

 

5.近代都市計画の時代をおえたこと

 

アレクサンダーやジェイコブスのすごさは、都市がまだ拡大成長していた時代に、それにもっとも呼応していたといえる近代都市計画の根本原理を批判しているということです。その後時代は変わり、近代都市計画を成立せしめていた要因が変わってしまっています。新都市の建設(ブラジリア)も東京計画も不要の時代になっています。ツリー構造の近隣住区都市を新たに建設する時代でもありません。都市化を終えた現代社会の都市計画は、むしろ多くの識者の言う「編集」の時代になっているのでしょう。

 

そういった意味では機能主義都市計画、近代都市計画(そこでは建築家の役割が大きかった)は少なくとも先進諸国では主役の座を降りているようにも思えます。

 

また環境に配慮するという視点からも、機能純化されたゾーンとそれをつなぐ交通という発想は、環境エネルギーの増大が指摘されます。居住と仕事場が混在したほうがエネルギー効率はよいでしょう。また機能主義都市計画をデザインの面から支えていたインターナショナルスタイルの背後にあった世界中どこでも同じ品質の工場製品に対する信仰、崇拝も今はそれほど大きくはないのかもしれません。それよりもむしろ地域性、独自性の産品がもてはやされる時代です。また地域の産品を地域で生かしたほうがエネルギーの問題や地域らしさの問題が解決するということもあるでしょう。

 

 成熟の時代を迎え、「輝く都市」からイメージされる清澄で明晰、論理的なものだけでなく、赤ちょうちんの路地裏が評価され、歴史をきちんと背負った意味性に富、奥行きのある都市空間が評価されるようになった今、近代都市計画をきちんと総括しておく必要がありそうです。

 

 

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