まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

富士吉田の御師の町(その1)

2010-07-25 20:48:22 | 建築まち巡礼大学院 Research Tour

私たちの研究室では羽黒手向の宿坊町についての研究提案を受託しています。その中では手向の宿坊集落を他の宿坊集落との比較の視点で捉えることも必要となります。そこで今回は、研究室メンバーで富士講の宿坊集落富士吉田の御師の町で合宿を行い、御師の街なみやくらしの実態を調査しました。

 

 

吉田の富士講の旦那所(御師が世話をする檀家のある場所)は関東一円に広がっており、出羽三山の羽黒・手向の関東旦那場とも重なり合っています。実際今回の視察で見学した御師外川家の旦那所である千葉県では富士講(浅間講)と同じように(出羽)三山講が盛んだったようで(富士吉田市歴史民族博物館だより、2006.10)、ある意味ではライバル関係にあった土地にお邪魔したともいえます。

 現地では、721日に御師の家大国屋に宿泊し、もと富士吉田市の職員で歴史資料の収集などにも尽力されてきた御師田辺四朗氏のお話を伺いました。翌22日には財)ふじよしだ観光振興サービスの小山田さんの案内で一日をかけて御師の街なみ、御師の家旧外川家、富士吉田市歴史民族博物館(以下歴民博)を見学しました。歴民博では学芸員の方に御師の街なみを中心に解説していただきました。 

 ここでは、備忘のため見学した内容などをメモしておきたいと思います。

 

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町を歩くと御師の屋敷を示す門があります

 

<信仰の山・富士山>

御師宿坊を理解する前提として富士山信仰のことを簡単に記します(この項目は主に歴民博学芸員氏の解説、歴民博旧外川家住宅パンフレットの記述によります)。

富士信仰の当初の形態は麓から山体を仰ぐ遥拝信仰でした。後に平安以降仏教の影響で修行の山となっていきます。仏教的な見方が強かった頃は、山頂も8つの峰に8つの仏を割り当てそして中央に大日如来を置くと89尊という密教曼荼羅に対応した捉え方がなされていたそうです(今お鉢めぐりといわれるお参り方はもともと8葉巡りのこと)。その後阿弥陀信仰の拡大に対応して、山頂に極楽浄土を見るという考え方が流布します。阿弥陀如来の来迎する場所として山頂を見るわけです。これは庶民に分かりやすく、富士山登拝の大衆化と併行した現象であったと思われます。

その後江戸末期から神道色が強まり、頂上の象徴としても木花開耶姫命(富士本宮浅間神社のご神体)が描かれたりしますが、明治の神仏分離令によりさらに仏教色が消えていくことになります。しかし、山頂に極楽浄土を見るという浄土信仰のような分かりやすさがなくなったことは事実です。そもそもは富士の山体そのものが遥拝対象であったわけですが、現在では神道であがめられる太陽を富士から拝むという形式に庶民は意味を見出しているのかも知れません。時代とともに富士信仰のあり方も変化しているのです。

 

<上吉田宿の成立>

富士山信仰が一般化し富士山登拝が庶民のものとなるのは室町以降であり、江戸時代後半の富士講の隆盛により多くの道者が富士を目指すようになります。富士山への登拝口は現在と同じように4口以上ありましたが、関東からの道者は甲州街道から大月を経て吉田口から登拝することが基本でした。江戸の富士講の盛んな時期には富士北口に当たる吉田口から登拝し、帰りは東口の須走におり御殿場に抜け大山経由を取ることが流行していたようです。

 富士吉田の町には「富士講の最盛期だった江戸末期から明治の初期にかけては86軒の『御師宿坊』があり、「辺りは道者で大変にぎわった」といいます(富士吉田市パンフレット、ふじよしだ歩楽百景)。御師とは「浅間神社の神職を勤めながら、信仰目的で富士山に登る「道者」の案内や宿泊を賄った人」であり、私たちがお世話になった大黒屋も御師宿坊のひとつです。

 

 

 

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320~350年前に建ったという立派な屋敷

 以上のように見てくると、富士登拝の隆盛にあわせて本宮であり登山口である北口浅間神社の門前に自然発生的に作られたのが宿郷町・吉田町と考えそうですが、実はこの町は極めて計画的につくられたまちなのです。

 

 御師田辺四朗氏も開口一番に話してくれましたが、上吉田の集落は元亀3年(1572)今より何キロが東にあった古吉田から現在地に移転してきました。理由は雪代の害を避けるためです。雪代の害を避けるためには浅間神社の正面の地も避けられました。それで上吉田のまちの中心軸である表参道が浅間神社の参道の軸と大きくずれているのです。またこの町は東西に間堀川、神田堀川という堀(堀と呼ぶのは普段はあまり流れがないためで、常に水のあるモノを川と呼んだ)を持っており、上、中、下の三宿からなる上吉田まちの中央部の中宿には土塁や堀があったそうですから、防災だけではなく防御も考慮してつくられているようです(歴民博だより、2010.03)。

 

<宿坊まちの町割り>

上吉田の町は後に拡張された下宿を含めると南北方向に1.1キロほど街なみが続きます。

 南北方向(富士に向かう方向)の表参道をはさんで、両側に奥行き80間(旧外川家)前後の東西方向に細長い敷地割がされています。間口方向は大国屋さんのように16間余りあるものもありますが10間に満たないものもとくに新しく拡張されて出来た下宿には多く存在しています。

 

Photo

町割り図を地図に合成してみました

 

 御師の敷地は先ほど述べたように南北方向の2つの堀にはさまれています。上吉田地割図(歴民博旧外川家住宅パンフレット)のよると上、中宿の西側の宅地は神田堀にまで到達していますが、東側は間堀川まで到達していないように見えます。しかし、御師田辺氏の話では大国屋の敷地は間堀川までということでしたので、宅地ではなく農地として分割されていたと思われます。

 

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学生が歩いているのがタツミチです

 

 特徴的なのはタツミチです。タツミチとは2間前後の幅の、表の参道から奥の屋敷までの細長い引き込み道です。今で言うと旗竿敷地ということになります。これは、当初の短冊状の敷地の内、参道に面した部分を次第に使用人や強力(富士登拝には4人に一人の強力が必要です)の人たちが使用権そして所有権を獲得していったことによるそうです。江戸時代の前期にはすでにタツ道を除いて分筆が進み参道に面した宅地が出来ていたようです。当初は奥にいる御師から分けてもらった宅地ということでしたが、参道に面しているということで表にいる人たちのほうが経済的にもうまくいくようになってきたようです。また、後には参道に面した土地が御師の家となることもあったそうです。それは御師から株を買ったり旦那場の権利を買って御師になったりすることがあったからで、奥に屋敷を構える本御師と区別して参道に面した屋敷を持つ御師を町御師と呼びます。

 

 

 

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コーヒー店を開く中雁丸は町御師です

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


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