続きです。
<御師の屋敷>
宿泊した大国屋と見学可能な外川家の御師住宅を見ました。
表通りにはタツミチを示す門があるのみです。こちらでは、貫きや笠木のないこのような門を冠木門と呼んでいます。現在は石で出来ていますが、これらの多くは大正時代前後に講の寄付で作られたものです。表に面した宅地が分筆された時点で冠木門が必要になったように思われますが、おそらく長く木製のものが使われていたのではないでしょうか。
またタツミチの終わりには御師屋敷の入り口を示す中門と呼ばれる門があります。
外川家の門です
このように立派な長屋門もあります
その先は庭ですが、東西方向に細長く南にいくにつれて高くなる雛壇上の敷地の中をヤーナ川という水路が流れています。敷地の高低差を利用して滝が設けられていますがここが、禊場だったそうです。
大国屋のヤーナ川。滝も見えます。
屋敷は四間取りの民家建築が基本になっているように思えます。戸川家のように間口が狭い場合には2列6室が縦に並び、大国屋の場合には間口と併行な桁行き方向となっています。
<河口にも御師住宅>
北口から登拝するのに中部方面の道者は河口(川口)を利用したため、川口にも御師の町がありました。歴民博だより、2008.03によると、一時は140を越える宿坊があったそうです。
興味を引かれるのは、まち割りの方法が河口でも同じであったことです。タツミチと短冊状の敷地割りは今でも残っているそうです。中門の富士吉田と同様の位置にあります。
以上備忘録として合宿調査の内容を記しました。手向の街なみを考えるうえで大いに参考になったように思えますが、河口や富士吉田を含む御師の町についてはきちんとした研究がなされていますのでこれから勉強していく必要があるようです。
高谷時彦記 Tokihiko Takatani
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