「自由の創設」としての大東亜戦争
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戦後70年の2015年、中国が歴史問題で攻勢を強めている。
国連安保理で中国の王毅外相は2月、議長の立場を利用してわざわざ公開討論を催した。「今年は反ファシズムの勝利」の年だとして、「過去の侵略のごまかしを試みる者がいる」と暗に日本を批判した。
中国はこの日本へのレッテルを永遠に定着させようとしているようだ。
アジア諸国の解放・独立をめざした日本
そもそも先の戦争は、ファシズムの日本と民主主義の米英との戦いだったのだろうか。
1941年12月、開戦直後の閣議で、この戦争の名を「大東亜戦争」とすることを決めた。「東亜新秩序の建設を目的とする」という理由からだった。その新秩序の中身は、大戦中の1943年11月の「大東亜宣言」に盛り込まれている。
「アメリカやイギリスは、自国の繁栄のためには、他国や他民族を押さえつけ、特にアジア諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、アジアの人々を隷属化する野望をむき出しにし、ついにはアジア諸国の安定を根底から覆そうとしている」
「そこでアジア各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放し、その自存自衛をまっとうする」(現代語訳)
この宣言は、日本軍が米英軍を駆逐して独立したフィリピンやビルマ(ミャンマー)などの首脳が東京で一堂に会した史上初のアジア・サミット「大東亜会議」で採択された。
宣言は、大戦の原因が米英による「飽くなき侵略と搾取」が大戦の原因だと指摘し、人種差別の撤廃など5原則を掲げた。そして、大東亜戦争の目的は、欧米による植民地支配からのアジア各国の解放にあることを明確にうたった(文末に「大東亜宣言」の現代語訳)。
史上初の有色人種のサミット
1868年、明治天皇が明治政府の基本方針として「五箇条の御誓文」を示した。写真:近現代PL/ アフロ
議会の設置や四民平等社会に道を開いた。この精神は、先の大戦中の大東亜会議にも受け継がれている。写真:毎日新聞社/ 時事通信フォト
日本が主導した大東亜会議に参加したのは、白人国家の植民地主義に苦しんできた中国国民政府(汪兆銘行政院長)、満州国(張景恵首相)、フィリピン(ラウレル大統領)、ビルマ(バー・モウ首相)、タイ(ワンワイタヤーコーン親王)。インド(自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース)もオブザーバーとして加わった。
基本的に、日本がイギリスやフランスなど旧宗主国を追い払った後に独立した各国の首脳が集まったものだ。
この会議の発案は、1943年4月に外相に就任した重光葵。同氏はその狙いについて、こう語っている。
「日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現が即ち戦争目的であり、この目的を達成することを持って日本は完全に満足する」
大東亜宣言は、アメリカとイギリスが発表した「太平洋憲章」に対抗する意味もあった。ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は1941年8月、民族自決の原則をうたったこの憲章に署名した。しかしルーズベルトもチャーチルも民族自決はアジア・アフリカには適用されないと考えていた。重光外相はこの矛盾を突いたのだった。
重光外相は、「アジア解放の方針で東南アジア全部に向かわなければならない」と昭和天皇や東條英機首相らを説得し、開催にこぎつけた。有色人種だけで一堂に会した首脳会議は歴史上初めてだった。
欧米によるアジアでの「飽くなき搾取」
大東亜宣言にある、欧米によるアジアでの「飽くなき侵略と搾取」「アジアの人々の隷属化」は、世界の多くの人々からはもう忘れ去られているが、筆舌に尽くしがたいものがあった。
イギリスは、インドの綿織物を本国に輸入して利益を得ていたが、産業革命でイギリスの綿製品生産が盛んになると、今度はイギリス製品をインドに輸出し始めた。それは、インド製には関税をかけ、イギリス製には免税するという強制的なもの。
インド人の職人の手を切断するという凄惨なことまでやって、インドの紡績業を壊滅に追いやった。
イギリスは、清国から紅茶と陶磁器を輸入していたが、清国側はイギリスから買う物品がほとんどなかったという。これではイギリスが常に貿易赤字になってしまうので、インドにケシ栽培を強制し、麻薬の一種のアヘンを清国に売りつけることにした。
清国中に麻薬中毒者が広がる一方、アヘン取り締まりも始まり、イギリスと利害が衝突。1840年のアヘン戦争へと発展した。
オランダは、インドネシアでコーヒーや砂糖など欧州向けの作物の栽培を強制したため、インドネシア人が食べるための水田や畑が減少。
ジャワ島では人口が3分の1になる町も出るほどだった。先住民を支配しやいよう、教育を行わず、文盲のまま放置。
そのため識字率は数%にとどまった。300以上の各種族の言語をそのまま使わせ、インドネシアとしての統一意識を持てないようにした。
独立王国のハワイ・カメハメハ王朝を武力で滅ぼしたアメリカは同じ年の1898年、スペインとの戦争(米西戦争)を始めた。
その際、フィリピン人の独立革命家たちにフィリピン独立をいったん約束し、米軍への協力を取り付けた。
ところが、米軍と革命軍がスペイン軍を打ち倒すと、約束を覆し、フィリピンを併合してしまった。その後の革命軍による抵抗戦争(米比戦争)は1913年まで続き、フィリピンの民間人60万人以上が虐殺されたという。
大東亜戦争は、まさにこうした「アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放」するための戦いだった。
「善政」だった朝鮮・台湾統治
一方、「日本も朝鮮半島や台湾を支配し、搾取したではないか」という見方がある。しかし実態はその逆で、朝鮮と台湾では、日本から多額の政府資金を持ち出され、衛生や教育、産業のインフラに投資され、急速に「近代化」が図られた。
朝鮮総督府の歳入の10~20%は日本政府からの補助金。
これでは「搾取」のしようがない。その資金で、まずは病院を建てるなどして劣悪な衛生環境を改善。伝染病を根絶し、乳児死亡率を大幅に低下させた。
教育制度も全域に普及させ、李氏朝鮮の1400年代に創られていたハングルを復活。「朝鮮の二宮金次郎の大量輩出」の目標を掲げた。
1910年の併合時に公立小学校に通う生徒は約2万人だったのが、1937年には約900万人にもなった。加えて、京城帝大を大阪・名古屋帝大に先駆けて設立するなど高等教育も重視した。
コメの生産量を倍増させるなど食糧事情も改善し、朝鮮の人口は併合前の980万人から2400万人へと倍増。1910年の併合時は「日本の源平時代のようだ」と言われた貧困状態を30数年で克服した。
台湾でも同じように医療・衛生、教育、産業のインフラが整備された。初等教育の就学率は1944年には71%になり、アジアでは日本の内地に次ぐ高い水準となった。まともな教育を与えなかった欧米の植民地とは正反対だ。
日本による統治が始まった1895年と終戦前の1943年を比べると、台湾の平均寿命は約30歳から約60歳へと伸び、人口も約260万人から約660万人に急増した。
「飽くなき侵略と搾取」「アジアの人々の隷属化」によって、虐殺されたり、産業や生活が破壊されたりした欧米支配の植民地とは、まったく正反対の「善政」だったことが分かる。
そもそも当時の日本は、イギリスがウェールズ、スコットランド、アイルランドで構成されるのと同様、朝鮮、台湾とでつくった「合邦国家」だった。
当時こうした国家は珍しくなく、第一次大戦後に崩壊したオーストリア・ハンガリー帝国や、1992年まであったチェコスロバキアもそうだった。合邦ならば、「植民地支配をして、搾取した」という議論自体、的外れだ。
日本は戦争目的において「勝った」
さて、大東亜戦争の目的は、欧米植民地からのアジア各国の解放だったわけだが、その結果はどうだったのか。
第二次大戦前までに独立を保っていたのは、アジアでは実質的に日本だけだった。1800年代後半までさかのぼれば、東アジアで植民地獲得競争を展開していた欧米(米英独仏蘭露)に対し、日本はひとり立ち上がって反転攻勢をかけ、1904年、日露戦争を戦った。
その後、中国大陸の権益をめぐってアメリカと対立。アメリカは他の欧米諸国と共に日本を経済封鎖するに至って、日本はやむなく米英などとの大東亜戦争に踏み切った。
大東亜戦争の後、世界は一変した。戦前の独立国は世界で50カ国程度だったが、戦後、アジア・アフリカで植民地からの独立が相次いだ。独立国は1960年前後には100カ国を越え、現在は約190カ国になった。多くが欧米植民地の「束縛から解放」されたものだ。
あまり知られていないが、日本軍はアフリカ大陸の西にあるマダガスカル島で、イギリス軍および南アフリカ軍と戦っているので、日本がアフリカ人に与えた衝撃は大きかった。
南アフリカ政府は、日本がアフリカまで攻めて来たことで、アパルトヘイト(人種隔離政策)をその時点でやめなければならないと真剣に考えたほどだという。
19世紀の戦略論の大家クラウゼヴィッツは、「戦争の勝敗は戦争目的を達成したかどうかで決まる」と定義した。
日米戦争の発端は中国大陸での権益をめぐる日本との対立だったが、戦後、共産中国が成立し、アメリカの権益はいったんゼロになった。
イギリスはインドやマレーシアなど世界中の植民地をすべて失い、当時の首相チャーチルは「無用の戦争だった」と嘆いた。
その結果、戦後の1960年代から90年代にかけて、韓国や台湾、東南アジアなどが奇跡的な経済成長を遂げた。
さらには、先進国と新興国のGDPが逆転しつつある近年の「東西逆転」にもつながっている。
日本が欧米と戦ったために、中国も国土を切り売りしていた植民地状態から脱し、現在の“繁栄"を築くことができている。インドもイギリスからの独立を果たし、人口12億人の繁栄がある。
こうした戦後世界の大きな変化からすれば、日本は、アメリカとの戦闘では負けたが、「植民地支配からの解放」という戦争目的においては「勝った」と言える。
「自由の創設」としての明治維新
アメリカ独立やリンカンによる奴隷解放の精神が、実は日本の明治維新に大きな影響を与えている。
明治政府をつくった維新の志士たちは、ワシントンやリンカンの思想や行動を強く意識し、士農工商の身分をなくし、四民平等の社会を築いた。
アメリカの南部諸州で黒人への社会的・法律的差別が取り払われたのが1960年代であることを考えれば、日本はアメリカに100年先んじていた。
明治政府の基本方針は、1868年(明治元年)の「五箇条の御誓文」に示されている。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(広く会議〔あるいは議会という解釈〕を開き、重要事項は開かれた議論によって決定されるべきである)
「上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし」(身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国の政策を遂行すべきである)
この中に政治参加の思想が一部盛り込まれている。江戸時代はすべての人が「生まれ」によって、その人生が決まってしまっていたわけだが、武士という特権階級がなくなり、政治参加の道が開かれていった。
世界に人種差別廃止を求めた日本
さらに付け加えれば、日本人は、「白人に支配されず、自分たちのことは自分たちで決められる政治体制」を世界に広げようとした。
第一次大戦後、1919年のパリ講和会議で国際連盟規約を話し合う委員会で、日本は規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という表現を盛り込むよう提案した。
国際会議で人種差別の撤廃を明確に主張したのは日本が初めてだという。
ところが、委員会の議長を務めるウィルソン米大統領が提案を取り下げるよう主張。これに対し日本は採決を要求した。
それが通って投票が行われ、フランスやイタリア、中華民国などの代表11人が賛成。イギリスやアメリカなどの代表5人が反対した。人種差別撤廃が圧倒的多数。ところがウィルソンが「全会一致でないため、提案は不成立である」と宣言し、葬り去ってしまった。
パリ講和会議では、人種差別をめぐって日本とアメリカが真っ向から対立した。この図式はその後も続き、先の大東亜戦争で軍事的に雌雄を決することとなったのだった。
「インドネシア人と日本人は兄弟」
このようにアメリカ建国の「自由の創設」の理念は、リンカンの独立戦争や日本の明治維新とその後の議会開設などに大きな影響を与えた。
アメリカ人なら当然、国が独立することの意義や建国の理念をよく理解できるはずだ。しかし、「日本は先の戦争で、アジア各国が“自分たちの責任で自分たちの国を発展させる"ことを目指した」と言ったら、それを理解できる人はそう多くない。
1941年の開戦後、日本軍はイギリス領のマレー(マレーシア)やシンガポール、ビルマ、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンを半年ほどで陥落させた。東條英機首相は、マレーシアは防衛拠点として確保しつつ、フィリピンとビルマは独立を認めると表明した。
ただ、最終的にすべての日本軍の占領地で独立を目指したことは、インドネシアでオランダ軍を駆逐した第16軍司令官・今村均中将の言葉にも表われている。
今村司令官は、オランダ軍との戦いのさなか、差し入れなどをしてくれたインドネシア人にこう語ったという。
「我々日本民族の祖先の中には、こっちの島から船で日本へ渡ってきたものがいる。君たちと日本人は兄弟なのだ。我々は、君たちの自由が戻るようにするために、オランダ人と戦うのだ」
今村司令官は軍政を敷いて初めて発した布告にも、その精神がうたわれている。
「一、日本人とインドネシア人は同祖同族である。
一、日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする。
一、同一家族・同胞主義に則って軍政を実施する」
日本が各占領地で目指したものは、現地の人たちを奴隷扱いし、ひたすら搾取した欧米の植民地とはまったく異なるものだった。
東南アジアで日本軍政で青少年の教育を最優先した
日本はそれぞれの地で軍政を敷き、独立に向けての準備を始めた。
最優先で取り組んだのは青少年の教育だった。
独立国家に軍隊がないと困るので、若者に軍事訓練を行い、独立軍を組織した。インドネシアでは「祖国防衛義勇隊(PETA)」を設立し、これが国軍の母胎となった。ビルマでは戦前から独立派を国外で訓練し、開戦後は「ビルマ独立義勇隊」としてイギリス軍と戦った。
イギリスの植民地インドについては、独立運動の指導者チャンドラ・ボースの「自由インド仮政府」を全面支援した。英軍のインド人兵を投降させるなどして「インド国民軍」を組織した。
欧米の植民地では、宗主国が現地の人たちに軍事訓練を施すなどということは一切なかったし、武器を渡すこと自体あり得なかった。その意味で、日本は現地の人たちを信頼し、一緒になって「独立」を実現しようとした。
次に注力したのが、政治指導者や行政官の養成だった。官吏学校、農工業学校、商船学校、師範学校などを各地で設立。
インドネシアでの軍政を担当した原田熊吉司令官は、「明治維新政府の軍隊は3万5千人だった。
独立インドネシアの軍隊も3万5千人とし、それを含めて10万人のエリートをさっそく養成するよう努めよ」と命じ、3年余りでそれをやり遂げた。
政治参加は植民地下ではあり得なかった。オランダ占領下のインドネシアでは、一切の集会や3人以上での立ち話まで「反乱罪」として禁止されていた。
日本軍政下では一転して政治参加が認められ、議会が開設された。
そのうえで国民教育にも力を入れた。それぞれの植民地では、宗主国の言語によって教育されていたが、日本の軍政では現地語による教育を行った。
インドネシアでオランダが教育を行わず、現地人を文盲のまま放置したり、300以上の種族語を使わせ、統一の標準語を許さなかったことは先に述べた通りだ。
そのため、現地の人たちには「インドネシア人」という意識が育たなかった。これに対し、日本統治下では、言語をインドネシア語に統一し、インドネシア人としての国民意識が育つよう導いた。
ただ、こうした独立への準備にかかわらず、現地の指導者からは「なぜすぐに独立させないのか」と反発も大きかった。しかし国の指導者がすぐに育つわけではない。
アメリカが170年かかった独立を、日本は東南アジア各国で、結果的にわずか数年でもたらしたのだから、世界史上の奇跡ではないだろうか。
日本は「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」という心を目覚めさせた
日本が敗戦した後、イギリスやオランダ、フランスは、植民地支配を続けようと、日本から追い出された植民地に再び軍を送り込んできた。
しかし現地には日本軍が教育した独立軍や政治指導者が育っており、「自分たちの責任で自分たちの国を発展させることができるはずだ」という自信も生まれていた。
戦時中、マレーから日本の陸軍士官学校に留学し、戦後に上下院議員として活躍したラジャー・ダト・ノンチック氏は、マレーシア人にとっての大東亜戦争の意義についてこう語っている。
「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、長い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に感動と自信とを与えてくれました。
長い間眠っていた“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう"という心を目覚めさせてくれたのです」
マレーシアは戦後、再びイギリスの植民地とされたが、独立を求める国民の声と行動を押しとどめることはできず、1957年、マレーシアは独立を果たした。
敵として戦ったイギリスのマウントバッテン東南アジア連合軍司令官らは、日本軍政を高く評価している
。欧米の植民地化では独立の意志も能力もないと思われていた植民地の人々を、短期間に組織的な訓練を行い、愛国心を育て、軍事力も行政能力も見違えるように変貌させた、と報告書で書いたという。
独立をもたらした「自由な言論空間」
戦時中なので日本統治下では言論の自由は制限されていたが、トマス・ペインの『コモン・センス』のような「公的空間の自由な議論の場」は存在し、それぞれの国民の心に火を点けた。
1943年5月、東條首相がフィリピンを訪れ、マニラ市内で数万人の聴衆を前に演説し、改めて独立を約束した。
その年の10月にフィリピンは独立。日本の軍政下でフィリピン憲法が制定されたが、そこには「1年以内に普通選挙を実施し、60年以内に新憲法の起草および採択のための会議を開催する」と盛り込まれている。
アメリカ軍政下で決まったマッカーサー憲法にはこんな規定はなかったが、日本軍は「フィリピン憲法はフィリピン国民が自分たちで議論して決め、自分たちの責任で国づくりをしていくべきだ」ということを十分理解していた。
インドネシアでも「自由な議論」は存在した。日本はインドネシアに対し1945年9月の独立を承認していたが、その前に日本が敗戦。
すかさず独立運動の指導者で後の初代大統領のスカルノが独立宣言を行った。
その時点で日本軍がまだ治安を担っており、街頭での演説や集会を抑え込むこともできたが、スカルノらにジャカルタ市内の広場で演説することをあえて許した。
「国民全員が命を賭けて独立を勝ち取ろう」というスカルノの呼びかけに、インドネシア人はオランダ軍との4年間にわたる戦争に立ち上がり、独立を勝ち取った。
チャドラ・ボースの演説がインド独立の発火点
インド独立をもたらしたのも「自由な言論空間」だったと言える。
インド独立派の志士チャンドラ・ボースは、インドの解放・独立も同時に目指した日本軍、インド国民軍が共に戦った1944年3月からのインパール作戦で、インド国民にラジオでこう演説した。
「外国侵略軍(イギリス軍)をインドから放逐しない限り、インド民衆に自由はなく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ、イギリスの帝国主義戦争の収束もなし」
全軍総崩れになって撤退せざるを得なくなる直前にも、インド人群衆を前に決意を促した。
「我々に残されたただ一つの願いとは、インドを生かすために死ぬということである。殉教者として死ぬことによってのみ、独立への道は開かれる。血のみが独立への代償となりうる。我に血を与えよ。諸君に独立を約束する」
ボースの叫びが発火点となってインド国内の独立運動が爆発した。
終戦後、イギリス軍がインド国民軍の指揮官3人を「反逆罪」で軍事裁判にかけた。しかしインド国民は指揮官らを「独立戦争の英雄」と見ていた。
連日、デモや焼き討ちが起きた。イギリスはもはや収拾できなくなった。1947年8月15日、200年におよぶイギリス支配の鎖を解き、インドは独立した。
フィリピンやインドネシア、インドではまさに、アーレントが言うような、「自分たちの国をどう素晴らしいものにしていくかを自由に議論し、決定し、行動する」という公的幸福がほぼ実現していたと言える。
アーレントは大東亜戦争について何も語っていないが、しっかり研究したら、「日本は東南アジアやインドで『自由の創設』をした。それが戦後100カ国以上に広がった」と言うのではないだろうか。
さらに言えば、アーレントは明治維新にも言及したことはないが、もし研究していたら、明治維新とその後の民主主義もアメリカ革命と並ぶ「自由の創設」と評価しただろう。
日本は、アジア独立の英雄たちの「母」
ビルマの独立運動家バー・モウは著書でこう書いている。
「日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた(中略)日本ほど誤解を受けている国はない」
実際、イギリス軍やオランダ軍などが行ったBC級戦犯の裁判で、無実の罪やまともな弁明ができないなかで処刑された日本軍人は多い。
先に触れた、インドネシア軍政に携わった原田熊吉司令官も戦後、死刑となった。
アジア諸国が独立を勝ち取ったのはもちろん、それぞれの国に独立戦争の英雄たちがいたからだ。日本が何も「独立させてやった」などと言う必要はない。
ただ、そうした英雄たちを育み、助け、勇気を与えたのは、日本軍や日本の指導者だったことは間違いない。
タイ首相だったククリット・プラモード氏は、ジャーナリストだった時代の1955年、新聞紙上に「12月8日」という題の詩を発表した。
「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。
さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない」
日本は、アジア諸国の独立の英雄たちの「母」であったということは言ってもいいだろう。
対英蘭軍に対するインドネシアの独立戦争では、残留した日本軍の将兵も助太刀を買って出た。約2000人が戦闘に加わり、その半数が戦死した。参戦しなかった将兵も、インドネシア軍に対し、「日本軍の武器を渡すのは軍命令に反するから、自分たちの部隊を殺してくれ」と頼み、死んでいった部隊もあった。
そんな「身を殺して仁をなした」人たちが日本には、300万人もいたということになる。
「世界精神」が生み出した大東亜戦争とアジア・アフリカの独立
大東亜戦争が始まった時、幕末を知る世代の人たちは「吉田松陰の言った通りになった」と口々に語ったという。
松陰が「敵を知る」ために渡米を試みたことから、「いったん開国し、欧米の文明を採り入れ、その後に攘夷を断行する」のが松陰の真意で、結局、大東亜戦争でその「攘夷」が実行されたという見方だ。
結局、明治維新の根底にある精神は「尊王攘夷」のほうであり、「開国・文明開化」は手段だったというわけだ。大東亜戦争は明治維新の総仕上げだったということになる。
幕末の動乱は、吉田松陰を“教祖"とする長州藩と、官僚化し意思決定できない江戸幕府との対立ではあるが、考え方のうえでそう大きな差があったわけではない。
井伊直弼大老が登場する前に老中首座を務めた堀田正睦は、「日本は開国して欧米の文明を取り入れ強国となり、世界を『八紘一宇』の精神で統一すべきだ」と語っていたという。
「八紘一宇」は、初代の神武天皇が即位式で「八紘(あめのした)をおおいて、宇(いえ)と為さん(天下をくまなく治め、一つの家のようにしたい)」と宣言した建国の理念だ。
それまで地域の豪族間で戦争が続いたが、それを終わらせ、家族のようになろう、と呼びかけたのだった。
この日本民族の原点にある平和思想は、討幕派の吉田松陰にも幕府の堀田正睦にも共有されていた。
そして、この「八紘一宇」の精神が、「欧米の侵略と搾取から開放し、アジア諸国の共存共栄を実現する」という1943年の「大東亜宣言」に結実した。インドネシアで軍政を担った今村司令官が「インドネシア人と日本人は兄弟なのだ」と語ったのも、「八紘一宇」からきている。
フランス革命後、皇帝に即位し、ヨーロッパのほぼ全域を制圧したナポレオンをその目で見た哲学者のヘーゲルは、「世界精神が馬に乗って通る」と語った。
1806年、プロセインがフランス軍に征服され、ナポレオンがイエナに入城した際の話だ。
この戦争の結果、封建領主の力が弱まる一方、ナポレオン軍への抵抗を通じてナショナリズムが高まり、近代的な国民国家への道を開いた神の意志を、「世界精神」と呼んだのだった。
大東亜戦争を戦った結果、数多くの独立国を生んだ日本もまた、ナポレオン同様、「世界精神」を体現していたと言っていいだろう。
その意味で、明治維新、大正デモクラシー、大東亜戦争、アジア・アフリカ諸国の独立は、「世界精神」が生み出した巨大な潮流だった。
戦後70年の日本の行動
大戦中に開かれた、初のアジアの独立国サミット「大東亜会議」。アジア諸国の解放・独立の目的が確認された。毎日新聞社/時事通信フォト
アメリカ独立戦争もまた、植民地支配からの解放のためだった。共に自分たちの責任で自分たちの国を発展させようという「自由の創設」を理想とした。 戦後、ビルマの独立運動家バー・モウは著書でこう書いた。
大東亜戦争は、アメリカ革命と並ぶ「自由の創設」である。それは「世界精神」という名の神の意志であり、日本はその意志の下、「身を殺して仁をなした」。
しかしながら、日本への「誤解」は、今も変わっていない。中国は「日本はファシズム国家」と叫び続け、誤解を助長している。
アメリカやイギリスなども中国に同調するどころか、むしろ中国以上に「日本は悪かった」と信じている。
戦後70年の今年、もういい加減にこうした誤解を解かねばならない。日本人は大東亜戦争はアジアを解放する「自由の創設」だったという立場に立ち、以下の行動を起こすべきだろう。
(1)アメリカが歴史認識を見直すよう説得する。現在はアメリカの反対もあって河野談話や村山談話を見直せない。
しかし、アメリカ独立戦争と大東亜戦争の理想は同じである。アメリカが未だに日本を犯罪国家扱いするなら、それこそ人種差別である。
(2)「英霊たちはアジア解放の尊い仕事を成し遂げた」という国民的な認識をつくり、まだ成仏していない方々を供養する。
先の大戦では2百数十万の人たちが戦火に倒れたが、その方々は、アジア・アフリカの人たちの、「自分の国を自分たちの責任で発展させたい」という願いをかなえたもので、本来尊敬の対象である。
(3)憲法9条をすぐにでも改正する。今、日本は国防を他人任せにし、「自分たちの責任で自分たちの国を発展させる」ことができない。日本にも「自由の創設」をしなければならない。
大東亜戦争の理想は生き続ける
(4)共産党の方針に反する人々を投獄している中国こそ、ファシズム国家である。中国を民主化へと導き、国民が政治参加できる「自由の創設」を実現する。
中国自体がファシズムであるし、中国国内に「植民地」が存在する。2013年11月に行われた大東亜会議70周年記念大会で、中国に支配されているウイグル出身の人権活動家ラビア・カーディル氏のメッセージが読み上げられた。
「日本が70年前に打ち出していた、抑圧され虐殺され植民地化されているアジアの諸民族を解放するという崇高な国家理念に立ち戻り、強力な民主主義国家として、わがウイグル民族を支援してください」
ウイグルやチベット、内モンゴルを中国共産党政権の植民地主義から解放する「自由の創設」もまた実現しなければならない。
(5)敗れたとはいえ、大東亜戦争の理想とそのもたらした結果は正しかった。この理想を今後も追求し、アジア・アフリカの国々がもっと発展するよう日本として責任を果たすべきである。
インドネシア独立戦争の指導者の一人ブン・トモ氏は情報相として訪日した際、当時の岸信介首相にこう訴えた。
「日本の失敗は、たった一度の敗戦でアジア・アフリカ解放の志を捨てたことだ」
「私は日本に切望したい。アジア・アフリカの有色人種が欧米並みの自由と繁栄を獲得するまで、日本には使命がある。どうか指導・援助を続けてくれ」
幕末から明治・大正・昭和を通じ、国内でも世界でも「自由を創設」してきた日本が果たすべき役割は明らかだ。政治参加し、自分たちの運命を自分たちで決めることができる自由をそれぞれの国で実現し、「自由からの未来創造」という幸福を手にしてもらう――。
大東亜戦争の理想は、21世紀にも生き続ける。
(綾織次郎)