永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(48)

2015年06月26日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (48) 2015.6.26

「さてきのふけふは関山ばかりにぞものすらんかしと思ひやりて、月のいとあはれなるにながめやりてゐたれば、あなたにもまだ起きて琴ひきなどして、かく言ひたり。
<ひきとむるものとはなしに逢坂の関のくちめの音にぞそぼつる>
これもおなじ思ふべき人なればなりけり。
<思ひやる逢坂山の関の音はきくにも袖ぞ朽ち目つきぬる>
など思ひやるに、年もかへりぬ。」

◆◆さて、昨日今日は、関所のある山あたりに差し掛かっているかしらと思いながら、月の美しい空を眺めていますと、あちらの叔母もまだ寝ずに起きておいでのようで、琴を弾いていてこのように言って寄こされました。
(叔母の歌)「琴を弾いても行く人を引き止めることも出来ず、今頃は逢坂の関の入り口あたりかと、琴の音に袖が濡れます」
叔母も姉の身を親身になって案ずる筈の人だからでしょう。
(道綱母の歌)「逢坂の関の姉に思いを馳せてお弾きになる琴の音は、聞いていると涙で袖が濡れ、朽ち目がついてしましました」
などと、お互いに思いあっているうちに、年も改まっていきました。◆◆

■兼家  38歳。 作者30歳くらい。 道綱12歳。

■逢坂の関=(あふさかのせき)山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、会坂関などとも書く。

東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。
近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

■朽ち目=(くちめ)は和琴の名器「朽目」、それに「関の口」をひびかせる。