蜻蛉日記 下巻 (144) 2016.9.20
「あくれば二月にもなりぬめり。雨いとのどかに降るなり。格子などあげつれど、例のやうに心あわただしからぬは、雨のするなめり。されどとまるかたは思ひかけられず。」
◆◆明ければ二月にもなったらしい。雨がしんみりと降っています。格子などを上げたけれど、いつものように急き立てられるような気分でないのは、雨のせいで、あの人がのんびりしているせいらしい。けれどこのまま、ここに留まるということは考えられません。◆◆
「と許りありて『男どもはまゐりにたるや』などいひて、起き出でて、なよよかなる直衣、しをれよいほどなる掻練の袿ひとかさね垂れながら、帯ゆるるかにてあゆみ出づるに、人々『御かゆ』などけしきばむめれば、『例食はぬものなれば、なにかはなにに』と心よげにうちいひて、『太刀とくよ』とあれば、大夫とりて簀子に片膝つきてゐたり。」
◆◆しばらくして、「供人たちは参っているか」などと言って、あの人が起き出して、やわらかな直衣に、糊けのとれてしなやかになった紅の練絹の袿を一かさね指貫の上に垂らし、帯をゆったりと結んで、足を運んでくると、侍女たちが、「ご飯を」などと勧める様子、すると、「いつも食べないものだから、なあに、いらないよ」と、機嫌良さそうに言って、「太刀を早くな」というので、大夫(道綱)が取って、縁側に片膝をついて控えています。◆◆
「のどやかにあゆみいでて見まはして、『前裁をらうがはしく焼きためるかな』などあり。やがてそこもとに雨皮張りたる車さしよせ、男ども軽らかにてもたげたれば、はひ乗りぬめり。下簾ひきつくろひて中門よりひきいでて、先よいほどに追はせてあるも、ねたげにぞきこゆる。」
◆◆あの人は足を運んで、あたりを見回して、「植え込みを乱雑に焼いたようだな」などと言っています。やがてそこに雨覆いをつけた車を近寄らせて、供人たちが軽々と車の轅を持ち上げますと、乗り込んだようでした。下簾をしっかりと下ろし、中門から引き出して、先払いをほどよくさせて遠ざかった幾野も、ねたましく感じるほど立派な様子でした。◆◆
「日ごろいと風はやしとて、南面の格子はあげぬを、今日かうて見出してとばかりあれば、雨よいほどにのどやかに降りて、庭うち荒れたるさまにて草はところどころ青みわたりにけり。あはれとみえたり。昼つかた、かへしうちふきて晴るる顔の空はしたれど、ここちあやしうなやましうて、暮れはつるまでながめくらしつ。」
◆◆数日来、とても風が強いというので、南面の座敷の格子を上げずにいましたが、今日このようにあの人を見送ったまま、しばらく外を見ていると、雨がほどよくのどやかに降って、庭は大分荒れた様子で、草がところどころ青く萌え出ています。しみじみと感慨をもよおされるのでした。昼ごろになって、吹き返しの風が吹いて雨雲を打ち払い、晴模様の空にはなったけれど、私の気持ちはすぐれず、この日の暮れるまでぼんやりと外を眺めて暮してしまったのでした。◆◆
「あくれば二月にもなりぬめり。雨いとのどかに降るなり。格子などあげつれど、例のやうに心あわただしからぬは、雨のするなめり。されどとまるかたは思ひかけられず。」
◆◆明ければ二月にもなったらしい。雨がしんみりと降っています。格子などを上げたけれど、いつものように急き立てられるような気分でないのは、雨のせいで、あの人がのんびりしているせいらしい。けれどこのまま、ここに留まるということは考えられません。◆◆
「と許りありて『男どもはまゐりにたるや』などいひて、起き出でて、なよよかなる直衣、しをれよいほどなる掻練の袿ひとかさね垂れながら、帯ゆるるかにてあゆみ出づるに、人々『御かゆ』などけしきばむめれば、『例食はぬものなれば、なにかはなにに』と心よげにうちいひて、『太刀とくよ』とあれば、大夫とりて簀子に片膝つきてゐたり。」
◆◆しばらくして、「供人たちは参っているか」などと言って、あの人が起き出して、やわらかな直衣に、糊けのとれてしなやかになった紅の練絹の袿を一かさね指貫の上に垂らし、帯をゆったりと結んで、足を運んでくると、侍女たちが、「ご飯を」などと勧める様子、すると、「いつも食べないものだから、なあに、いらないよ」と、機嫌良さそうに言って、「太刀を早くな」というので、大夫(道綱)が取って、縁側に片膝をついて控えています。◆◆
「のどやかにあゆみいでて見まはして、『前裁をらうがはしく焼きためるかな』などあり。やがてそこもとに雨皮張りたる車さしよせ、男ども軽らかにてもたげたれば、はひ乗りぬめり。下簾ひきつくろひて中門よりひきいでて、先よいほどに追はせてあるも、ねたげにぞきこゆる。」
◆◆あの人は足を運んで、あたりを見回して、「植え込みを乱雑に焼いたようだな」などと言っています。やがてそこに雨覆いをつけた車を近寄らせて、供人たちが軽々と車の轅を持ち上げますと、乗り込んだようでした。下簾をしっかりと下ろし、中門から引き出して、先払いをほどよくさせて遠ざかった幾野も、ねたましく感じるほど立派な様子でした。◆◆
「日ごろいと風はやしとて、南面の格子はあげぬを、今日かうて見出してとばかりあれば、雨よいほどにのどやかに降りて、庭うち荒れたるさまにて草はところどころ青みわたりにけり。あはれとみえたり。昼つかた、かへしうちふきて晴るる顔の空はしたれど、ここちあやしうなやましうて、暮れはつるまでながめくらしつ。」
◆◆数日来、とても風が強いというので、南面の座敷の格子を上げずにいましたが、今日このようにあの人を見送ったまま、しばらく外を見ていると、雨がほどよくのどやかに降って、庭は大分荒れた様子で、草がところどころ青く萌え出ています。しみじみと感慨をもよおされるのでした。昼ごろになって、吹き返しの風が吹いて雨雲を打ち払い、晴模様の空にはなったけれど、私の気持ちはすぐれず、この日の暮れるまでぼんやりと外を眺めて暮してしまったのでした。◆◆