2011. 11/15 1026
四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(87)
「やうやう腰いたきまで立ちすくみ給へど、人のけはひせじ、とて、なほ動かで見給ふに、若き人『あなかうばしや。いみじき香の香こそすれ。尼君の焚き給ふにやあらむ』とおどろく」
――(薫)そろそろ腰が痛くなるまで立ち尽して見ておられましたが、人の気配をさせまいと、そのままじっと動かずにいらっしゃると、若い女房が、「なんとよい匂いでしょう。素晴らしい香の薫りがしますよ。尼君が焚いていらっしゃるのかしら」と驚いて言います――
「老い人、『まことにあなめでたの物の香や。京人はなほいとこそみやびにいまめかしけれ。
天下にいみじき事とおぼしたりしかど、東にてかかる薫物の香は、え合わせ出で給わざりきかし。この尼君は、住ひかくかすかにおはすれど、装束のあらまほしく、鈍色青色といへど、いときよらかにぞあるや』などほめゐたり」
――老女房が、「ほんとうに何とまあ結構な香りですこと。さすがに京の人は尼になっても、やはり雅やかで華やかですね。常陸守の北の方は、ご自分こそは世にもたいした暮らしぶりだと思っておられましたが、東国ではとてもこのような薫物など、調合なさることはできませんでしたよ。こちらの尼君は、御住いはささやかでいらっしゃるけれども、お召し物は素晴らしく、鈍色や青色のお召し物も、ほんとうに垢ぬけしていらっしゃる」などと、誉めております――
向こうの簀子から女童がやってきて、「お薬湯でも差し上げてくださいまし」と、折敷などを次々に運び入れます。女房たちは果物を取り寄せなどして、
「『ものけ給はる。これ』などおこせど、起きねば、二人して、栗などやうの物にや、ほろほろ食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらいたくて退き給へど、またゆかしくなりつつ、なほ立ち寄り立ち寄り見給ふ」
――女房が、「もしもし、これを召し上がれ」などと姫君をお越しになりますが、お目覚めになりませんので、女房が二人して、栗などでありましょうか、ほろほろと音をさせて食べています。そんな音など聞いた事もない薫は、はしたなく思って居たたまれず立ち退かれましたが、なお未練が残って、何度も立ち寄られては御覧になっております――
「これよりまさる際の人々を、后の宮をはじめて、ここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここらあくまで見あつめ給へど、おぼろげならでは、目も心もとまらず、あまり人にもどかるるまで、ものし給ふ心地に、ただ今は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり」
――(薫は)この女(浮舟)より優れたご身分の方々、明石中宮をはじめとして、あちこちでご器量の良い方、気品の高い方など、大勢見飽きるほど見ておられますので、余程の美人でなければ、目にも心にもとまらず、それではあまりのことと、人から非難されるほど謹直でいらっしゃるご性分ですのに、今日という今日は、それほど優れているとも思えない人を、このように立ち去りがたく、無性に気になっていらっしゃるのは、何とも妙なお心というものです――
◆なほいとこそ=なほ・いと・こそ=すべて強調
◆ものけ給はる=ものうけたまわるの意
では11/17に。
四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(87)
「やうやう腰いたきまで立ちすくみ給へど、人のけはひせじ、とて、なほ動かで見給ふに、若き人『あなかうばしや。いみじき香の香こそすれ。尼君の焚き給ふにやあらむ』とおどろく」
――(薫)そろそろ腰が痛くなるまで立ち尽して見ておられましたが、人の気配をさせまいと、そのままじっと動かずにいらっしゃると、若い女房が、「なんとよい匂いでしょう。素晴らしい香の薫りがしますよ。尼君が焚いていらっしゃるのかしら」と驚いて言います――
「老い人、『まことにあなめでたの物の香や。京人はなほいとこそみやびにいまめかしけれ。
天下にいみじき事とおぼしたりしかど、東にてかかる薫物の香は、え合わせ出で給わざりきかし。この尼君は、住ひかくかすかにおはすれど、装束のあらまほしく、鈍色青色といへど、いときよらかにぞあるや』などほめゐたり」
――老女房が、「ほんとうに何とまあ結構な香りですこと。さすがに京の人は尼になっても、やはり雅やかで華やかですね。常陸守の北の方は、ご自分こそは世にもたいした暮らしぶりだと思っておられましたが、東国ではとてもこのような薫物など、調合なさることはできませんでしたよ。こちらの尼君は、御住いはささやかでいらっしゃるけれども、お召し物は素晴らしく、鈍色や青色のお召し物も、ほんとうに垢ぬけしていらっしゃる」などと、誉めております――
向こうの簀子から女童がやってきて、「お薬湯でも差し上げてくださいまし」と、折敷などを次々に運び入れます。女房たちは果物を取り寄せなどして、
「『ものけ給はる。これ』などおこせど、起きねば、二人して、栗などやうの物にや、ほろほろ食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらいたくて退き給へど、またゆかしくなりつつ、なほ立ち寄り立ち寄り見給ふ」
――女房が、「もしもし、これを召し上がれ」などと姫君をお越しになりますが、お目覚めになりませんので、女房が二人して、栗などでありましょうか、ほろほろと音をさせて食べています。そんな音など聞いた事もない薫は、はしたなく思って居たたまれず立ち退かれましたが、なお未練が残って、何度も立ち寄られては御覧になっております――
「これよりまさる際の人々を、后の宮をはじめて、ここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここらあくまで見あつめ給へど、おぼろげならでは、目も心もとまらず、あまり人にもどかるるまで、ものし給ふ心地に、ただ今は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり」
――(薫は)この女(浮舟)より優れたご身分の方々、明石中宮をはじめとして、あちこちでご器量の良い方、気品の高い方など、大勢見飽きるほど見ておられますので、余程の美人でなければ、目にも心にもとまらず、それではあまりのことと、人から非難されるほど謹直でいらっしゃるご性分ですのに、今日という今日は、それほど優れているとも思えない人を、このように立ち去りがたく、無性に気になっていらっしゃるのは、何とも妙なお心というものです――
◆なほいとこそ=なほ・いと・こそ=すべて強調
◆ものけ給はる=ものうけたまわるの意
では11/17に。