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永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(185)

2017年04月24日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (185) 2017.4.24

「三月になりぬ。かしこにも女方につけて申しつがせければ、その人の返りごと見せにあり。『おぼめかせたまふめればなむ。これかくなん殿のおほせはべめる』とあり。見れば、『<この月、日悪しかりけり。月立ちて>となん、暦御覧じてただ今ものたまはする』などぞ書いたる。いとあやしう、いちはやき暦にもあるかな、なでふことなり、よにあらじ、この文かく人の空言ならんと思ふ。」

◆◆三月になりました。右馬頭は兼家宅にもあちらの女房を頼って、養女の件を取り次がせていたので、その女房の返事を見せに寄こしました。右馬頭からの『ご不審にお思いのようでしたから。このように殿の仰せがございましたので。』とあります。見ると、「『この月は日が悪いね。月が改まってから』と、暦をごらんになって、たった今も、おっしゃっていられます」などと書いてあります。どうも奇妙なこと。強引な暦勘定だこと。そんなことは断じてないはず。この手紙を書いた人の作り事であろうと思う。◆◆

【解説】 蜻蛉日記 下巻 上村悦子著より
(前略)右馬頭遠度(うまのかみとおのり)は、兼家の異母弟であるから相当な年齢であるはずである。(四十歳前後)親子ほど年齢のちがう養女に求婚の意向をもらしたので作者も最初は信じなかったのも無理がない。(中略)
そもそも遠度に養女のことを漏らした張本人は兼家自身に違いない。(中略)作者は養女に后がねとして十分な教養をつけ、出来るなら宮中に入内させるか、章明(のりあき)親王のような妃をたいせつにする、しかるべき宮に縁づけたいと考えていたのではないかと思われる(憶測に過ぎないが)。


蜻蛉日記を読んできて(184)その3

2017年04月19日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (184)その3  2017.4.19

「さて返りごと、今日ぞものする。『このおぼえぬ御消息は、この除目の徳にやと思ひたまへしかば、くなはちもきこえさすべかりしを、<殿に>などのたまはせたることのいとあやしうおぼつかなきを、たづねはべりつるほどの、唐土ばかりになりにければなん。されどなほ心えはべらぬは、いときこえさせんかたなく』とてものしつ。端に、<曹司にとのたまはせたる武蔵は、≪みだりに人を≫とこそきこえさすめれ>となん。さて後、同じやうなることどもあり。返りごと、たびごとにしもあらぬに、いたうはばかりたり。」

◆◆さて、返事はやっと今日したためました。「この思いがけないお手紙は、この度の除目のためかと存じましたので、ただちにお返事申し上げねばなりませんでしたが、『殿に』などとおっしゃいました事がとても気になりましたので、訊ねておりました間に、唐土へ問い合わせるほどの時間がかかりました次第でございます。けれどもやはり納得できませんことで、何とも申し上げようもございません」と書きました。そして端に、「お部屋にとおっしゃいます武蔵は、『みだりに人を』と申しているようでございます。と書き添えました。さて、その後も同じような便りが幾度もありました。返事はその度ごとには必ずしもしませんでしたので、右馬頭は遠慮がちでありました。◆◆


■「みだりに人を」=後撰集「白河の滝のいと見まほしけれどみだりに人は寄せじものをや」右馬頭に協力する意思のないことをいう。


蜻蛉日記を読んできて(184)その2

2017年04月14日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (184)その2  2017.4.14

「おぼつかなうもやありけん、助のもとに『切にきこえさすべきことなんある』とて、よび給ふ。『いまいま』とてあるほどに、使ひはかへしつ。そのほどに雨ふれど『いとほし』とて出づるほどに、文とりて帰りたるを見れば、紅の薄様ひとかさねにて、紅梅に付けたり。言葉は、「石の上とふことは、知ろしめしたらんかし、
<春雨にぬれたる花の枝よりも人しれぬ身の袖ぞわりなり>
あが君あが君、なほおはしませ』と書きて、などにかあらん、『あが君』とある上は、書い消ちたり。助、『いかがせん』といへば、『あなむつかしや、道になん逢ひたるとて、まうでられね』とて出だしつ。」

◆◆右馬頭のほうは気がかりだったのであろうか、助のもとに、「是非申し上げたいことがございます」と言ってお呼びになります。「すぐ参ります」といってとりあえず使いの者を帰しました。そのうちに雨になって、「お待たせするのは申し訳ない」といって助が出かけて、お手紙を手にして戻ってきたのをみますと、紅色の薄様をひとかさねにして、紅梅の枝につけてありました。文面は、「『石の上(いそのかみ)』という古歌をごぞんじでしょうね。
(右馬頭の歌)「春雨に濡れた紅梅よりも、人知れず血に染まった私の袖の方がひどい」
あが君あが君、やはりお出でください」と書いて、どうした訳かしら、「あが君」と書いてあるところはそのうえを墨で消してあります。助が「どうしましょう」と言うので、「まあ、面倒なこと、途中で使いに逢ったと言ってお伺いしていらっしゃい」と言って兼家邸に送り出しました。◆◆



「帰りて、『<などか、御消息ここえさせ給ふあひだにても、御かへりのなかるべき>と、いみじううらみきこえ給ひつる』など語るに、いま二三にちばかりありて、『からうして見せたてまつりつ。のたまひつるやうは、<なにかは、いま思ひさだめてとなん言ひてしかば、返りことははやう推し量りてものせよ。まだきに来むとあることなん、便なかめる。そこに娘ありといふことは、なべて知る人もあらじ。人、異様にもこそ聞け>となんのたまふ』ときくに、あな腹だたし、その言はん人を知るはなぞ、と思ひけんかし。」

◆◆助は帰って来て、「右馬頭さまは『どうして、殿にお問合せをなさっている間でも、ご返事いただけない筈はないでしょうに』と大変お恨みになってお出ででしたよ」などと話して、さらに二、三日くらい経って、助が、「やっと父上にあの手紙をお見せしました。そしておっしゃるには、『なに、かまわない。そのうちにこちらの返事はすると言っておいたから、そちらから返事は早くよいように書いておけばよい。まだ年頃でもないのに、通って来たいなどと言っているのは具合が悪い。第一、そちらに娘がいるなどとは世間では知っていないだろう。変な噂がたっては困るよ』とおっしゃっていました」ということを聞いて、何と腹立たしいこと。その誰もが知らないはずの娘のことを右馬頭が知っているのはなぜ?そもそもあの人が漏らしたからではないかと思ったことでしたよ。◆◆


■『石の上(いそのかみ)』=古今集「石上(いそのかみ)ふるとも雨にさはらめや逢はんと妹にいひてしものを」(雨が降っても来て欲しいという気持ちをあらわしている)

蜻蛉日記を読んできて(184)その1

2017年04月11日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (184)その1  2017.4.11

「からうして帰りて又の日、出居のところより夜ふけて帰りきて、臥したる所に寄り来て言ふやう、『殿なん、<きんぢが寮の頭の、去年よりいと切にのたうぶことのあるを、そこにあらん子はいかがなりたる。おほきなりや、心ちつきにたりや>などのたまひつるを、又、かの頭も<殿はおほせられつることやありつる>となんのたまひつれば、<さりつ>となん申しつれば、<あさてばかりよき日なるを、御文たてまつらむ>となんのたまひつる』と語る。いとあやしきことかな、まだ思ひかくべきにもあらぬを、と思ひつつ寝ぬ。
 
◆◆ようやくの思いで帰って来ての次の日、練習場から助(道綱)が夜更けて帰って来て、私の寝ているそぼにきて言うには、「殿(父・兼家)が、『お前の役所の長官(右馬頭)が、去年からひどく熱心におっしゃる事があるが、そちらにおいでになるあの女の子はどうしておいでかな。大きくおなりか、娘らしくなってきたか』などとお聞きになりました。また、その長官も『殿から何かおっしゃっられたことがおありでしょうか』とおっしゃられましたので、『はい、ございました』と申し上げますと、『明後日は佳き日にあたるので、御文をさしあげましょう』とおっしゃっていました。」と話します。まあ、奇妙なこと、まだ恋文などをもらうほどの年頃ではないのに、と思いつつ寝たのでした。◆◆



「さて其の日になりて文あり。いと返りごとうちとけしにくげなるさましたり。中の言葉は、『月ごろ思ひたまふることありて、殿に伝へ申させはべりしかば、<ことのさまばかりきこしめつ。いまはやがてきこえさせよとなんおほせ給ふ>とうけ給はりにしかど、いとおほけなき心のはべりけるとおぼし咎めさせ給はんを、つつみはべりつるになん。ついでなくてとさへ思ひ給へしに、司召しみ給へしになん、この助の君のかうおはしませば、まゐりはべらんこと、人見咎まじう思ひたまふるに>など、いとあるばかしう書きなし、端に、『武蔵といひはべる人の御曹司に、いかでさぶらはん』とあり。返りごときこゆべきを、まづこれはいかなることぞとものしてこそは、とてあるに、『<物忌みやなにやと折悪し>とて、え御覧ぜさせず』とてもて帰るほどに、五六日になりぬ。』

◆◆さてその日になって、長官(頭=かみ)から手紙が届きました。お返事をば、気を許して書けそうにもないような手紙です。中の言葉は、「幾月も前から、考えております(養女への求婚のこと)ことがありまして、殿に申し上げるようにいたさせましたところ、『殿は、事のあらましはお聞きとりくださいました。今はもう直接お話申し上げるようにと仰せになっておられます』と承りましたが、まことに身分不相応な望みを抱いていると、お咎めあそばすであろうと、遠慮申し上げていた次第でございます。その上良い機会もなくてと存じておりましたが、このほどの司召しの結果をみますと、この助の君が、このように同じ役所の勤めになられましたので、お宅に参上いたしますことを、誰も不審には思うまいと存じまして」などと、もっともらしく書いてあって、端に、「武蔵と申します人のお部屋に、是非とも伺候したいとものです」と書いてあります。◆◆


■武蔵といひはべる人=作者の侍女か。右馬頭に縁のある者であろうか。

蜻蛉日記を読んできて(183)

2017年04月08日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (183) 2017.4.8

「あるところに忍びておもひ立つ。『なにばかり深くもあらず』といふべきところなり。野焼きなどするころの、花はあやしう遅きところなれば、をかしかるべき道なれどまだし。いと奥山は鳥の声もせぬものなりければ、鶯だに音せず、水のみぞめづらかなるさまに湧きかへり流れたる。いみじう苦しきままに、かからである人もありかし、憂き身ひとつをもてわづらふにこそはあめれと思ふ思ふ、入相つくほどにぞ至りあひたる。」

◆◆あるとことにこっそりと出かけようと思い立った。「なにばかり深くもあらず」と言ってみたいような場所です。野焼きなどするころで、桜は今が咲く時期なのに、どうしたものか、本来は道々美しい桜の見られるところのはずなのに、まだまだでした。実際山の奥深いところでは鳥の声もしないものでしたから、鶯の声も耳にせず、川の水だけが勢いよくほとばしって流れています。(山奥なので徒歩)たいそう苦しくてたまらないままに、こんな苦労を味わわない人も世の中にはいるのだろう。私はつらい憂き身ひとつを持て余しているんだわ、と思い思いして、入相の鐘がなるころに寺に到着したのでした。



「御灯明などなてまつりて、ひとときばかり立ち居するほど、いとど苦しうて、夜あけぬときくほどに、雨降りいでぬ。いとわりなしと思ひつつ、
法師の坊にいたりて『いかがすべき』など言ふほどに、ことと明けはてて、『蓑、傘や』と人はさわぐ。」

◆◆み仏さまにお灯明などを上げて、数珠をひとつずつ繰っては立ったり座ったりして礼拝している間に、ますます苦しくなってきて、「夜が明けた」という声を耳にするころに雨が降ってきました。ああなんと困ったことだと思いながら、庫裏に行って、「どうしたらよいかしら」などと言っているうちに、夜がすっかり明けきって、「蓑だ、傘だ」と供人たちが騒いでいます。◆◆



「我はのどかにてながむれば、前なる谷より雲しづしづとのぼるに、いとものがなしうて、
<おもひきやあまつ空なるあま雲を袖して分くる山踏まんとは>
とぞおぼえけらし。雨いふかたなけれど、さてあるまじければ、とかうたばかりて出でぬ。あはれなる人の、身に添ひて見るぞ、我がくるしさもまぎるばかり、かなしうおぼえける。」

◆◆私自身はおちついた気分で、ぼんやりと外を眺めていると、前の谷から雲がしずかに登ってきて、それをみているとひどくもの悲しくなって、
(道綱母の歌)「思いもしなかったことです。空に浮かぶ雨雲を袖で押し分けて奥山に詣でようとは。そんなはかない身の上になろうとは。」
という歌が心に浮かんだようだった。雨がいいようもなくひどく降っているけれども、そのまま寺にいるわけにもいかず、あれこれと雨を防ぐ用意をしながら、出発しました。あのいじらしい養女が、私の身に寄り添っているのを見ると、自分の苦しさも忘れてしまうくらい、いとしく感じたことでした。◆◆


■『なにばかり深くもあらず』=「何ばかり深くもあらず世の常の比叡を外山(とやま)と見るばかりなり」大和物語43による。この歌は横川を詠んだもの。

■奥山は鳥の声もせぬもの=古今集「飛ぶ鳥の声もきこえぬ奥山の深き心を人は知らなん」

■鶯だに音せず=古今集「春やとき花やおそきと聞きわかむ鶯だにも鳴かずもあるかな」

■あはれなる人=養女。ここで養女同伴での参詣であったことが分る。



蜻蛉日記を読んできて(182)

2017年04月05日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (182)  2017.4.5

「廿五日に、大夫しも、ひんがしなどにそそきおこなひなどす。などぞすらんと思ふほどに司召しのことあり。めづらしき文にて、『右馬助になん』と告げたり。ここかしこによろこびものするに、その寮の頭、叔父にさへものしたまへば、まう出たりける、いとかしこうよろこびて、ことのついでに、『殿にものしたまふなる姫君はいかがものし給ふ。いくつにか、御年などは』と問ひけり。」
◆◆二十五日に、大夫(道綱)が、東の廂の間で熱心に勤行に励んでいます。なぜかと思っていると、司召しのことがあったのでした。あの人から珍しい手紙がきて、「右馬助になったよ」と知らせてきた。助があちこちに任官のお礼回りをしたときに、その役所の長官は叔父に当る方でもあったので、大変喜んでくださって、話のついでに、「お宅においでになるという姫君はどういうお方でしょうか。おいくつですか、お歳は」と尋ねるのでした。◆◆



「帰りて、『さなん』と語れば、いかで聞き給ひけん、なに心もなく、思ひかくべきほどしもあらねば、やみぬ。」
◆◆助が帰宅して、「これこれでした」と話すので、いったいどうしてあの娘のことを聞くのかしら、あの娘はまだまだ子どもっぽく、懸想の相手にされるような歳ごろではないからと思って、そのままにしておきました。◆◆



「そのころ院の賭弓あべしとてさわぐ。頭も助もおなじ方に、出居の日々には行きあひつつ、おなじことをのみの給へば、『いかなるにかあらん』など語るに、二月廿日のほどに夢にみるやう、(本)」
◆◆そのころ、院の賭弓(のりゆみ)のことがあるというので大騒ぎしています。長官も助も同じ組で、助が練習に出かける日ごとに、長官と顔を合わせると、その度に長官が同じことばかり仰るので、「どうしたことでしょうか」などと私に話していましたが、二月二十日ごろ、夢に見たことは、(以下本文脱落か)◆◆


■司召(つかさめし)=官吏の任命をいうが、特に京官任命の公事(くじ)をさす場合が多い。

■右馬助(むまのすけ)=右馬寮の次官。馬寮(めりょう)は宮中の御厩の馬・馬具・および諸国の牧場を司る役所。左右に別れ、長官をそれぞれ左馬頭(さまのかみ)、右馬頭(うまのかみ)という。

■叔父=藤原遠度(とおのり)=兼家の異母弟。道綱の叔父にあたる。

■院の賭弓(のりゆみ)=「院」は冷泉院。賭弓は宮中で弓射の試合をして天覧に供する行事。年中行事では一月十八日に行われる。ここはそれに準じて院でも行われ、冷泉院がご覧になる。

■(本)=原本のまま写したとの意の注記が本文に竄入(ざんにゅう)・この箇所に夢の記事があったと思われるがだつらくしたのか。底本、以下行末まで空白。一説では何人(なんぴと)かの故意の削除か。残念である。

蜻蛉日記を読んできて(181)

2017年04月02日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (181) 2017.4.2

「帰りて三日ばかりありて、賀茂に詣でたり。雪風いふかたなう吹りくらがりてわびしかりしに、かぜおこりて臥しなやみつるほどに、霜月にもなりぬ。しはすもすぎにけり。」

◆◆帰ってからまた三日ばかり後に、賀茂神社にお参りをしました。雪と風がひどくふぶいて、あたりが暗くなり、とても辛かったうえに、風邪をひいて寝込んで悩んでいるうちに、十一月にもなり、やがて十二月もすぎてしまいました。◆◆



「十五日、地震あり。大夫の雑色の男ども、『地震す』とてさわぐを聞けば、やうやう酔ひすぎて『あなかまや』などいふ声きこゆる、をかしさに、やをら端のかたにたち出でて見やりたれば、月いとをかしかりけり。」

◆◆一月十五日には儺火がありました。道綱の召使いたちが、「儺火をする」といって騒いでいるのを聞いていると、だんだん酔いが回って、「しっ、静かに」などという声が聞こえてくる。興味をそそられて、そっと端近に出て外を見てみると、月がたいへんきれいでした。◆◆



「東ざまにうち見やりたれば、山かすみわたりていとほのかに心すごし。柱により立ちて、思はぬ山なく思ひ立てれば、八月より絶えにし人、はかなくてむ月にぞなりぬるかし、とおぼゆるままに、涙ぞさくりもよよにこぼるる。さて、
<諸声にまくべきものを鶯はむつきともまだ知らずやあるらん>
とおぼえたり。

◆◆東の方を見わたすと、山一面に霞が渡ってほんのりとして見え、一段と寂しい気持ちになるのでした。柱に寄りかかって、どこでもいい、山に姿を隠してしまおうかと思いながら立っていると、八月以来訪れのないあの人は、あのまま音沙汰なくてとうとう正月になってしまったのだなあと思うと、涙がしゃくりあげるようにこみ上げてきました。そこで
(道綱母の歌)「一緒に泣いてくれるはずの鶯はまだ正月になったことを知らないのだろうか。私はただ独りで泣いてばかりいます」


■地震(なゐ)あり=儺火か? 確実なところは分らない。一説には、正月十四日の夜から十五日にかけてと十八日に行われた。陰陽師による悪魔祓いの行事。火祭り、だとも言う。

■うぐいす=正月は鶯が山から里に出てくる時という。

蜻蛉日記を読んできて(180)

2017年03月30日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (180) 2017.3.30

天延二年(このあたり暦日が前後している)であれば、
兼家  四十六歳
作者  三十八歳
道綱  二十歳


「『忍びたるかたに、いざ』と誘う人もあり、『なにかは』とてものしたれば、人おほう詣でたり。誰と知るべきにもあらなくに、われひとり苦しう、かたはらいたし。払へなどいふところに、垂氷いふかたなうしたり。をかしうもあるかなと見つつ帰るに、大人なるものの、童装束して、髪をかしげにて行くあり。見れば、ありつる氷を単衣の袖に包み持たりて食ひゆく。」

◆◆「人目につかぬところへご一緒に」と誘う人があって、「では参りましょう」といって出かけますと、大勢の人が参詣しています。私を誰と知る人がいるはずもないけれど、自分ひとりが苦しく気恥ずかしい思いがしました。払所に、氷柱(つらら)が、言いようのないほど見事に垂れ下がっています。それをすばらしいなあと眺めて帰る途中に、大人でありながら、子供の装束をして、髪をきれいに整えて行く者がいます。見ると、さっきのつららを単衣の袖に包み持って食べながら歩いて行きます。◆◆



「ゆゑあるものにやあらんと思ふほどに、わがもろともなる人、ものを言ひかけたれば、氷くくみたる声にて、『丸をのたまふか』と言ふを聞くにぞ、なほものなりけりと思ひぬる。頭ついて、『これ食はぬる人は思ふことならざるは』といふ。『まがまがしう、さ言ふものの袖ぞ濡らすめる』とひとりごちて、又思ふやう、
<わが袖の氷ははるもしらなくに心とけても人の行くかな>

◆◆どこか由緒ある身分の人かと思っていると、一緒の人がものを言いかけると、氷をほおばった声で、「私に仰せでございますか」と言う。それを聞くと、取り立てて言うほどの者でなさそうな下賎の者だなあと思われました。頭を地面につけてかしこまり、「これを食べない人は、願いごとがかなわないのですよ」という。私は心の中で「縁起でもない、そう言う自分が袖を濡らしている様子だこと」とつぶやいて、それからまたこんな歌を、
(道綱母の歌)「私の袖で凍った涙は春の来たことを知らず、少しも溶けないのに、人々は何の物思いもないように参詣していることよ」



【解説】 蜻蛉日記 下巻  上村悦子著から

 (前略)寺社(どこか不明)へ参詣したところかなりの人ごみでにぎわっていた。こうした壷装束(境内は徒歩であろう)微行の参詣ゆえ、誰も自分を大納言兼右大将兼家公の
北の方という素性を知るまいと思う(彼女の心中では兼家の北の方であるという誇りと、今では彼の北の方とは名のみで顧みが少なく大手を振って北の方としての外出もできない自分を寂しくも感じる。我の強い人だけにこうした思いが彼女を苦しめたであろう)と「われひとり苦しうかたはらいたし」のことばとなる。(中略)
 社寺のつららを食べないと、せっかくお参りしても願いごとがかなわないですよというので、作者はすっかり軽べつしてしまう。つららを食べたからって願いが成就するという俗信を、単純に信じて実行する直者(ふつうの者)に反発を感じる。
 自分はこれまで多くの神社仏閣に参籠したり、幣や歌を奉納して誠心誠意祈願したが願いがかなわず、以前から袖は涙で濡れどおしで寒い今それが凍っている身である。そういえば見かけたところ、その直者だって袖が氷の水か涙かしらないが濡れているではないか!

蜻蛉日記を読んできて(179)

2017年03月26日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (179) 2017.3.26

「さてこの霜月に、県ありきのところに産屋のことありしを、えとはで過ぐしてしを、五十日になりにけん、これにだにと思ひしかど、ことごとしきわざはえものせず、ことほきをぞさまざまにしたる、例のごとなり。白う調じたる籠、梅の枝につけたるに、
<冬篭り雪にまどひし折すぎてけふぞ垣根の梅をたづぬる>
とて、帯刀の長なにがしなどいふ人、使ひにて、夜に入りてものしけり。使ひつとめてぞかへりたる。薄色の袿ひとかさねかづきたり。
<枝若み雪間に咲ける初花はいかにととふににほひますかな>
など言ふほどに、行ひのほどもすぎぬ。」

◆◆さて、この十一月に、地方官歴任の父の所でお産のことがありましたが、お祝いもできずに過ごしてしまったので、五十日(いか)のお祝いの時になったかしら、せめてこの機会にでもお祝いをとおもいましたが、大仰なことはようせずに、心をこめてお祝いをしました。しきたりどおりの事として。白い色で作った籠を、梅の枝につけたのに、
(道綱の母)「冬の間、雪で外出もままなりませんでしたが、春になって今日、若君のお祝いを申し上げます」
と言う歌を添えて、帯刀の長(たちはきのおさ)なにがしという人を使いにして、夜になってから届けました。使いは翌朝帰ってきました。薄紫色の袿ひとかさねを祝儀をしてもらってきました。
(父倫寧の歌)「若枝に雪間から顔を出して咲く梅の初花のような子は五十日をお祝いを頂いただいて、一段と光輝いています」
などと返歌が届くうちに正月のお勤めの時期も過ぎました。◆◆


【解説】 蜻蛉日記 下巻 上村悦子著より

出産の祝いのあったのは「父のところ」と考えられるが、理能(まさとう)が作者より四歳ほど年長とすると天延元年四十一、二歳となるので、倫寧は六十一、二歳となる。清少納言は清原元輔五十九歳の時の子であるから、子どもが生まれてもおかしくはない。(中略)
倫寧が若い女性を妻にして出来た子であろうか。
 ところで、「冬こもり」の歌は出産のお祝い、あるいは五十日の時のお祝いの歌としてはあまりにも祝意があふれていない感じがする。子宝を種々の寺社に祈願した作者であったが、ついに道綱以外には授からなかった作者の寂しい心情の反映でもあろうか。



蜻蛉日記を読んできて(178)

2017年03月22日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (178) 2017.3.22

「さて廿よ日にこの月もなりぬれど、あと絶えたり。あさましさは、『これして』とて冬のものあり。『御文ありつるは、はや落ちにけり』といへば、『おろかなるやうになり、返りごとせぬにてあらん』とて、なにごとともえ知らでやみぬ。ありしものどもはして、文もなくてものしつ。そののち、夢の通ひ路たえて、年暮れ果てぬ。」

◆◆さて、二十日過ぎにこの月もなってしまったけれど、あの人からの訪れも絶えてしまったのでした。あきれたことには「これを仕立ててほしい」などといって冬の着物をよこしてきました。使いの者が「御文があったのですが、落としてしまいました」というので、「随分ぞんざいに扱ったせいで、落としたのでしょう。こちらからも返事を添えないでおこう」ということで、結局はどういう内容だったのか分らずに終わってしまったのでした。寄こした着物は仕立てて、手紙も添えず届けました。その後は、夢の中でもあの人と会うこともなく、その年も暮れてしまったのでした。◆◆



「つごもりにまた『<これして>となん』とて、はては文だにもなうてぞ下襲ある。いかにせましと思ひやすらひて、これかれに言ひあはすれば、『なほこのたびばかり心みにせよ、。いと忌みたるやうにのみあれば』など、さだむることありて、留めて、きたなげなくして、ついたちの日、大夫に持たせてものしたれば、『<いときよらなり>となんありつる』とてやみぬ。あさましといへばおろかなり」

◆◆(九月の)下旬になってまた、使いの者が「これを仕立ててください」との仰せですといって、今度は手紙さえも無くて装束の下襲ねをよこしてきました。いったいどうしたものかと思案して、何人かに相談しますと、「やはり、今度だけは、殿のご様子をみながら、なさいませ。お断りしては、本当に忌み嫌っているみたいですから」などと言うことになって、受け取って、こぎれいに仕立てて、十月の一日に、大夫に持たせて届けたところ、「大層きれいにできた、との仰せでした」とのことでしたが、そのままそれっきりになってしまいました。あきれてしまったというくらいでは、胸が収まらない。◆◆


■御文ありつるは、はや落ちにけり=使いが主人の手紙をぞんざいに扱ったため落としてしまった。兼家の手紙を見ていないので作者は返事のしようがない。大事な手紙なら、「これは大切な手紙だから」というべきで、落すことはなかったであろう。しかし勘ぐれば、最初から手紙は無かったのかもしれない。作者は兼家の愛情につながるものを感じなかったので、返事をする気にもならなかったのではないか。


【解説】蜻蛉日記 下巻  上村悦子著から

 作者が広幡中川に移居してから兼家の訪れはもちろん、やさしい便りさえない。一説にはこの移転を「床離れ」と見る。そうとも考えられるが、いずれにせよ、兼家はまったく無沙汰を続けてわれ関せずの有様であるにかかわらず、相変わらず仕立物を次から次へと頼んでくる。しかも依頼状やねぎらいの手紙さえもないので、(中略)このように夫らしい義務や責任にはそっぽを向いて権利のみ行使するする相変わらずの身勝手者の兼家である。