竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

何もないとこでつまずく猫じゃらし  中原幸子

2018-09-30 | 


何もないとこでつまずく猫じゃらし  中原幸子


【狗尾草】 えのころぐさ(ヱノ・・)
◇「猫じゃらし」
イネ科の一年草。「えのころぐさ」と読む。粟に似て小さい緑色の穂をつける。その穂を子犬の尾に擬した名。子猫をじゃらせるので、
「猫じゃらし」とも。

例句 作者

よい秋や犬ころ草もころころと 一茶
娘たち何でも笑ふゑのこ草 浦野光枝
猫じやらし臥す子の気儘すてておく 北村和子
ゑのころ草抜きざま湧くよ女知恵 手塚美佐
田の神も狗尾草も星明かり 阿波岐 滋
猫ぢやらし触れてけものゝごと熱し 中村草田男
奥伊那の日のさわさわと猫じやらし 名和未知

無住寺の門に陣取り猫じゃらし たけし

長屋門風になびかぬ猫じゃらし たけし

猫じゃらし井戸跡だけの生家かな たけし


何もないとこでつまずく猫じゃらし  中原幸子

こういうことが、私にもたまに起きる。どうしてなのか。甲子園で行進する球児のように、極度の緊張感があるのならばわかる。足並みを揃えなければと思うだけで、歩き方がわからなくなるのだ。だから、チームによっては極度に膝を高く上げて歩いたりする。普段と違う歩き方を意識することで、これは存外うまくいくものだ。しかし、一人でなんとなく歩いていてつまずくとは、どういう身体的な制約から来るのだろうか。やはり、突然歩き方がわからなくなったという意識はある。そう意識すると、今度は意識しているから、余計につまずくことになる。道端で「猫じゃらし」が風にゆれている。くくっと笑っているのだ。コンチクショウめが……。そこで、またつまずく。「猫じゃらし」の名前は一般的だが、昔は仔犬の尻尾やに似ていることから、どちらかというと「狗尾草(えのころぐさ)」のほうがポピュラーだったようだ。たいていの歳時記の主項目には「狗尾草」とある。「良い秋や犬ころ草もころころと」(一茶)。この句は、仔犬の可愛らしさに擬している。『遠くの山』(2000)所収。(清水哲男)
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今年より吾子の硯のありて洗ふ 能村登四郎  

2018-09-29 | 


今年より吾子の硯のありて洗ふ 能村登四郎 



【硯洗う】 すずりあらう(・・アラフ)
◇「硯洗」 ◇「洗硯」(せんけん)
七夕の前日に常用している硯や机を洗い清めること。硯に梶の葉を添えて、京都北野天満宮の神前に供える神事にならったもの。手跡の上達を願う意。七夕がもともと水にちなむ「七夕流し」の祭りであったことによるとされる。

例句 作者

句に生きて慾なき硯洗ひけり 田口雲雀
硯洗ふ墨あをあをと流れけり 橋本多佳子
誰がもちし硯ぞ今日をわが洗ふ 水原秋櫻子
硯洗ふ妻居ぬ水をひびかせて 石田波郷
今年またひとつの硯洗ひをり 石川桂郎
志存して洗ふ硯かな 池上浩山人
硯洗ふやりんりんと鳴る山水に 新田 豊




今年より吾子の硯のありて洗ふ 能村登四郎 
                           
今日は陽暦の七夕。七夕の前日に、日ごろ使っている硯(すずり)や机を洗い清める風習から、季語「硯洗(すずりあらい)」が成立した。ただし、季節は七夕とともに秋に分類されるのが普通だ。このあたりが季語のややこしいところで、梅雨期の七夕はいただけないにしても、現実には保育園や幼稚園、学校などの七夕は今日祝うところが大半だろう。陰暦の七夕だと、夏休みの真っ最中ということもある。私は戦時中から敗戦後にかけての小学生だけれど、学校の七夕行事はやはり陽暦で行われていた。すなわち、陽暦七夕の歴史も短くはない。だから、私たちのイメージのなかで七夕が夏に定着してもよさそうなものだが、どうもそうじゃないようだ。いま行われている平塚の七夕祭などはむしろ例外で、仙台をはじめ大きな祭のほとんどは陰暦での行事のままである。やはり、梅雨がネックなのだろう。私が小学生のころは、風習どおり前日にはきれいに硯を洗い、七夕には早く起きて、畑の里芋の葉に溜まった朝露を小瓶に集めて登校した。この露で墨を擦って短冊を書くと、なんでも文字がとても上手になるという先生のお話だったが……。さて、掲句では、子供がまだ小さいので父親が洗ってやっている。洗いながら「吾子」も自分の硯を持つようになったかと、その成長ぶりを喜んでいる。控えめで静かな父親の情愛が感じられる、味わい深い句だ。実際、学校に通う子は学年が上がる度に新しい道具が必要になる。それを見て、親は子供の成長を認識させられる。私の場合には、娘が水彩絵の具とパレットを持ち帰ったときに強く感じた。あとはコンパスとか分度器とか、すっかり忘れていた算数の道具のときも。いずれも「どれどれ」と手に取って、しげしげと眺めた記憶がある。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


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仲よしの女二人の月見かな  波多野爽波

2018-09-28 | 


仲よしの女二人の月見かな  波多野爽波

女性の読者には、案外難解に写るかもしれない。詠まれている情景ではなく、なぜこんな句を詠むのかという作者の心持ちが……。男同士の「仲よし」だと、こんな具合の句にはならないだろう。ここで爽波は、「仲よしの女二人」の姿に、単に微笑を浮かべているのではない。月見の二人は、作者の家族である姉妹か母娘か。いずれにしても、血の通った女同士だと読める。他人同士と読めなくもないが、そうすると、その場に居合わせている作者との関係に無理が生じる。自宅の庭先での「月見」とみるのが自然だ。作者は二人から少し離れた位置にあり、もちろん微笑はしているが、他方でかすかな疎外感も覚えている。作者は、女たちの「仲よし」ぶりに入っていけない。べつに入りたいわけじゃないし、無視されているのでもないけれど、どこかで「月見」の場が彼女たちに占拠されているような、そんな不思議な気分なのだ。だから、自分もその場に存在するのに、あえて「二人の月見」と詠んだわけである。我が家は私と女三人の家族だから、こういう感じは日常茶飯に起きる。毎度のこと。「つまるところ、女同士は血縁しか信じない」と言った女性(誰だったかは失念)の言葉を、たまに思い出す。「仲よし」の構造が、どうも男とは違うようだ。その意味から言えば、武者小路実篤の「君は君、僕は僕、されど仲よき」なんて言いようは、まさに男ならではの発想であって、これまた女性には、なかなかわからない言葉ではないかと愚考する次第。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)

【月見】 つきみ

◇「観月」(かんげつ) ◇「月祭る」 ◇「月を待つ」 ◇「月の宴」 ◇「月の座」 ◇「月見酒」 ◇「月の宿」 ◇「月の友」 ◇「月見舟」

陰暦8月15日と9月13日の月を眺めて賞すること。すすき、団子、里芋、豆、栗などを供えて月を祭る。酒宴を催したり、茶会、句・歌会などを催すことも多い。近江の石山寺や信州の姨捨山(田毎の月)は月見の名所。

例句 作者

岩鼻やここにもひとり月の客 去来
月の座の一人は墨をすりにけり 中村草田男
月見舟くゞりし橋を渡りけり 前田普羅
同門に異派ありてよし月見酒 千田百里
この山の神も一座に月見かな 永方裕子
月見るや相見て妻も世に疎く 山口草堂
米くるゝ友を今宵の月の客 芭蕉
大雨や月見の舟も見えて降る 一茶


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雨の日の客と出でたつ秋袷 原石鼎

2018-09-26 | 


雨の日の客と出でたつ秋袷 原石鼎


【秋袷】 あきあわせ(・・アハセ)◇「秋の袷」 ◇「後の袷」

秋になって着る袷のこと。昔は陰暦10月1日、袷から綿入に衣替えをした。和服離れがすすんで実感が薄れたが、季節の変化に合わせた趣向が込められた語である。

例句  作者

つゝましや秋の袷の膝頭 前田普羅
秋袷着て端然と痩せゐたり 日下部宵三
啄木のむかしの人の秋袷 富安風生
秋袷酔ふとしもなく酔ひにけり 久保田万太郎
ちかぢかと富士の暮れゆく秋袷 綾部仁喜
秋袷火の見櫓の鐘しか 飯田龍太
秋袷激しき性は死ぬ日まで 稲垣きくの
人は憂ひを包むやうにも秋袷 細見綾子

秋袷たぎる憤怒をもてあます たけし




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父母を呼ぶごとく夕鵙墓に搖れ 飯田龍太

2018-09-25 | 



父母を呼ぶごとく夕鵙墓に搖れ 飯田龍太


【鵙】 もず
◇「百舌鳥」(もず) ◇「鵙の高音」 ◇「鵙の贄」(もずのにえ) ◇「鵙日和」 ◇「鵙の声」
モズ科の鳥で、山野、平野、人家付近にも繁殖し、高い木の頂や電柱に止まって、キーッ、キーッと鋭い声で鳴く。縄張りの確保のためといわれる。肉食どん欲である。「百舌鳥」とも書く。また、鵙は昆虫、蛙、蜥蜴、鼠などを捕獲し、それを尖った木の枝や有刺鉄線などに刺して蓄えるので「鵙の贄」という季語もある。

例句 作者

鵙日和手話の二人が通りけり 角川春樹
鵙鳴くや寝ころぶ胸へ子が寝ころぶ 古沢太穂
鵙鳴くや口紅ケース実弾めく 村山砂田男
朝鵙に鑿を置きたる仏師かな 小澤 實
かなしめば鵙金色の日を負ひ来 加藤楸邨
鵙啼くや医師に見らるる妻の肌 猿山木魂
初鵙や血判黒き起請文 安達光宏
鵙の贅叫喚の口開きしまゝ 佐野青陽人
鵙日和床机を足して陶を干す 岩城久美
殺戮もて終へし青春鵙猛る 松崎鉄之介

鵙の贄無縁墓のまた積み上がる たけし

てっぺんの風に干したる鵙の贄 たけし

鵙鳴くや墓石を吊るクレーン車 たけし

句にならぬソーラーパネル鵙の声 たけし
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物分かりよすぎて弱気とろろ汁 中村 苑子

2018-09-24 | 


物分かりよすぎて弱気とろろ汁       中村 苑子

【薯蕷汁】 とろろじる
◇「とろろ」 ◇「麦とろ」 ◇「とろろ飯」

自然薯、長薯、大和芋などの皮を剥き、おろし金ですり下ろし、煮汁または味噌汁ですりのばしてご飯にかけて食べる。

例句 作者

幼時父はなにを夢みしとろろ飯 河原枇杷男
とろろ汁宵に照り合ふ古柱 古舘曹人
とろろ汁付く定食のAとB 蛯名八月
裏富士の冷えのかぶさるとろろ汁 山上樹実雄
闇の中山の闇あるとろろ汁 森 澄雄
佛門に入りそこねてとろろ飯 原 赤松子
とろろ汁吾に齢の高さなし 山口誓子
天狗の面赤し高尾のとろろ汁 藤原小簑


最終バス来ぬ間に名代とろろ汁 たけし
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秋の海町の画家来て塗りつぶす  森田透石

2018-09-22 | 



秋の海町の画家来て塗りつぶす  森田透石

作者の気持ちは、とてもよくわかる。秋晴れの日ともなると、我が家の近所の井の頭公園にも、何人もの「画家」たちがやってきて描いてゆく。絵に関心はあるほうだから、描いている人の背後から、よくのぞき見をする。たいがいの人はとても巧いのだけど、巧いだけであって、物足りなさの残る人のほうが多い。でも、なかには写実的でない絵を描く人もいて、巧いのかどうかはわからないが、大胆なタッチの人が多いようだ。作者が見かけたのも、そんな「町の画家」なのだろう。海の繊細な表情などはお構いなしに、あっという間に一色で塗りつぶしてしまった。ぜんぜん違うじゃないか。愛する地元の海が、こんなふうに描かれるとは。いや、こんな乱暴に描かれるのには納得がいかない。さながら自宅に土足で踏み込まれたような、いやーな感じになってしまった。この海のことなどなんにも知らない「町場」の他所者めがと、しばし怒りが収まらなかったに相違ない。まっこと、ゲージュツは難しいですなあ。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)

【秋の海】 あきのうみ
◇「秋の波」 ◇「秋濤」(しゅうとう) ◇「秋の浪」 ◇「秋の浜」(あきのはま)
台風期を過ぎると海も急速に秋らしく深い色となる。寄せる波も波音も夏に比べて清澄である。海水浴客でにぎわった浜辺も人影が絶え、浜辺には静けさと寂しさが広がる。夏の喧騒の後だけに、より一層その感が強い。
例句 作者
群来村といふ一二軒秋の浜 遠山壺中
秋の波身を広げては引きにけり 藤木倶子
秋の浪見て来し下駄を脱ぎちらし 安住 敦
少年一人秋浜に空気銃打込む 金子兜太
ひとりになるため秋浜を遠く踏む 杉野炭子
秋の海見えて温泉の町坂多き 近藤咲木男
秋の海航くのみなるに旗汚る 津田清子

秋の波片方だけのハイヒール  たけし

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水澄むや日記に書かぬこともあり   杉田菜穂

2018-09-21 | 


水澄むや日記に書かぬこともあり   杉田菜穂

季語は「水澄む」。こうして読んでみるとこの季語は、「日記」という語によく似合います。水が澄んでいるかどうかを確かめるために水面にかぶせた顔と、日記を書くために過ぎた一日にかぶせた顔が、どこか重なってきます。大串章さんはこの句の選評で、「日記に書かれないのは、忘れたいためか、それとも秘密にしておきたいためか」と書いています。どちらにしても、読者の想像は心地よい刺激を受けます。でも、どちらかというと秘密のほうなのかなと、ぼくは思います。自分のほかにはだれも読むことのない日記の中にさえ、明かしたくないことがあるなんて。そんなに秘めやかなことがあるんだなと、それだけで感心してしまいます。なんだか日記が、旧来の友人ででもあるかのように感じられ、静かな呼吸をしながら、秘密をいつ明かしてくれるのかをそばで待っているようです。昨今の、未知の人にさえ公開して、コメントを待っているブログ日記とは、なんと大きな隔たりがあることかと、思われるわけです。『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年9月21日付)所載。(松下育男)

秋(三秋)・地理
【水澄む】 みずすむ(ミヅ・・)

秋は夏に比べ水が澄んでくる。夏の間濁っている沼なども、底の石まで透けて見える。河川、湖沼、池から井戸水まで水が澄む。

例句 作者

水澄むや竜神今は留守らしく 東浦佳子
水澄みて金閣の金さしにけり 阿波野青畝
やうやうに水澄む思ひありにけり 藤田あけ烏
山荒れののちの白樺水澄めり 辻 直美
さざなみをたゝみて水の澄みにけり 久保田万太郎
これ以上澄みなば水の傷つかむ 上田五千石
水澄みて四方に関ある甲斐の国 飯田龍太
水澄むやとんぼうの影ゆくばかり 星野立子
故山いよよ日強くいよよ水澄めり 中村草田男


水澄むは蒼天映す身ごしらえ たけし

水澄むや素顔を見せぬ面ばかり たけし

水澄むを胸の芥が澱ませる たけし
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秋灯の交し合ひたる閾かな  上野 泰

2018-09-20 | 


秋灯の交し合ひたる閾かな  上野 泰

馬鹿みたい。次の間との襖が開けっぱなしになっていて、こちらの部屋と次の間とに灯されている電灯の光が、閾(しきい)の上で交差しているというのだ。「秋灯」ならずとも、いつでもこうした現象は見られるわけで、珍しくも何ともない。「秋灯」だから多少の情緒があるにしても、わざわざ表現するほどのことでもあるまいに。私の言葉で言えば、「それがどうした句」の最右翼に分類できる。いい年の大人が、こんなことを面白がって、どういうつもりなのか。と、ほとんどの読者もそう思うに違いない。俳句だから、こういう馬鹿が許されるのだ。ついでに言えば、虚子門だからとも……。なあんて酷評しながらも、最近はこうした「馬鹿みたい」な句に魅かれてしまう。才気溢れる句も好きではあるが、すぐに飽きてしまう。こういうことを言うと、「年齢(とし)のせいだ」と反応されそうだが、正直に言って「年齢のせいだ」と丸くおさめる気にはなれない。「年齢のせいだ」という理屈は、それこそ馬鹿みたいな屁理屈なのであって、とりわけて高齢者が溺れてはいけない言葉の一つだと思う。この句を得たときに、きっと作者も「馬鹿みたい」と感じただろう。あえてそんな「馬鹿」を表現する姿勢に、いまの私は魅力を覚える。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)

【秋の灯】 あきのひ
◇「秋の燈」 ◇「秋燈」(しゅうとう) ◇「秋燈」(あきともし)
秋の夜は大気が澄んでおり、灯も清明な感じが強い。静けさ、人懐かしさがある。秋の灯に照らされるのは花の淡いは、枯芝生などでわびしさが漂う。

例句 作者

秋の灯にひらがなばかり母の文 倉田紘文
秋灯下新刊書より正誤表 新津むつみ
夫旅にある夜秋燈をひきよせて 山口波津女
秋の燈に母老いしかば吾も老ゆ 相馬遷子
急行通過駅の秋灯に石蹴りを 菊地龍三
秋の燈の糸瓜の尻に映りけり 正岡子規
秋灯のくるしきまでに明るきに 京極杞陽
秋の燈の遠くかたまるかなしさよ 富安風生
燈も秋と思ひ入る夜の竹の影 臼田亞浪
一つ濃く一つはあはれ秋燈 山口青邨

秋灯捨てる本などさがしてる たけし

虫偏にまた囚われて秋灯下 たけし

言い訳のようにあとがき秋灯下 たけし

秋灯し遺せし文の箇条書  たけし

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表紙絵の明治の女秋の声  杉本 寛

2018-09-19 | 


表紙絵の明治の女秋の声  杉本 寛

まずもって、字面がきれい。漢字の間に配された「の」が、見事に利いている。日本語ならではの美しさだ。翻訳不能。こういうところを、俳句作家はもっと大切にすべきだろう。句意は涼しいほどに明瞭だが、これまた翻訳不能。訳したとしても間抜けとなる。ところで、誰にとっても「母」の世代を四季のどれかになぞらえるとすれば、「秋」となるだろう。大正生まれの作者は、表紙絵の明治美人に、どこかで若き日の「母」も感じているのではあるまいか。だから「秋の声」なのである。もちろん、この句をそのまま素直に受け取っておいてもよいのだが、読んでいるうちに、だんだんそんな気がしてきた。『杉本寛集』(自註現代俳句シリーズ・俳人協会)所収。(清水哲男



秋(三秋)天文【秋声】 しゅうせい(しう・・)

◇「秋の声」
雨の音、風の音、木の葉のそよぎにも秋の気がこもって、その響きはしみじみと心を打つ。空気が澄んでいることもあり、耳が敏感になっ
たように感じる。具体的な物音ではなく、秋の気配を「秋の声」として詠まれることもある。

例句 作者

灯を消して夜を深うしぬ秋の声 村上鬼城
湧き水の影のゆらめく秋の声 市村究一郎
聞き耳を立てしが秋の声ならず 相生垣瓜人
死魚なぶる波打際の秋の声 白井房夫
北上の渡頭に立てば秋の声 山口青邨
苔をうつ雨や深山の秋の声 宗祇
寺掃けば日に日にふかし秋の声 中川宋淵
補聴器を外せば秋声庭闇に 富田潮児


秋の声樹木医の所作まねて聴く たけし
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冷まじや鏡に我といふ虚像   細川洋子

2018-09-18 | 


冷まじや鏡に我といふ虚像   細川洋子

冷まじは「すさまじ」。具体的な冷気とともに、その語感から不安や心細さなどを引き連れてくる。「涼しい」より荒々しく、「寒い」より頼りない季節の隙間には、この時期だけそっと鏡に映ってしまう何かがあるのではないかと思わせる。鏡は見る者の位置、微妙な凹凸などによって、真実の姿であるにもかかわらず、さまざまな像を結ぶ。鏡(ミラー)と不思議(ミラクル)とが密接な関係を持つといわれているように、この目も鼻も本当の顔とはまったく別のものが映っているように思えてくる。掲句の作者もまた、鏡に映し出された姿を漠然とよそよそしく感じながら、我が身を見つめているのだろう。右手を上げれば向かい合う左手が上がり、右目をつぶれば向かい合う左目がウインクする。それはまるで動作を真似るゲームのなかで、向こう側の人が慌てて動かしているように見えてくる。人間でもこんがらがってくるこの現象に動物は一体どう対処するのだろう。イソップ物語に登場する肉をくわえた犬の話しを思い出し、飼い猫に鏡を見せてみると、においを嗅いだり、引っ掻いたり、しきりに裏側に行きたがる。目の前にいる動くものが、まさか自分だとはまったく思っていないようだが、手出しせずすぐに引っ込む相手に勝ち誇った様子であった。猫にとっては、鏡の向こう側に住む無害の生き物として認知したのかもしれない。『半球体』(2005)所収。(土肥あき子)

【冷まじ】 すさまじ
◇「秋すさぶ」
秋の深まる頃の寒さ。ものすごい、心細い、荒涼としているなどの意があり、秋気凄冷の感じがある。 「すさまじ」と読む語感に荒涼が込められている。

例句   作者

冷まじやひとりの酒に酔ひつぶれ 草間時彦
冷まじく愚かなるものに仕へをり 清水基吉
山畑に月すさまじくなりにけり 原 石鼎
冷まじき青一天に明けにけり 上田五千石
冷まじや軍艦のそば下駄流れゆき 納漠の夢
冷まじや一葉遺品に頭痛薬 館 容子

冷まじや東京駅に凶弾痕  たけし

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斬られ役また出て秋を惜しみけり 泉田秋硯

2018-09-17 | 


斬られ役また出て秋を惜しみけり   泉田秋硯

季語は「秋惜しむ」。山口県の萩市で開かれた中学の同窓会に出席した後で、三十年ぶりに故郷(山口県阿武郡むつみ村)を訪れてみた。快晴のなかの村の印象はいずれ書くとして、村を離れる前に友人宅に立ち寄って二時間ばかり話をした。私がいろいろ昔の思い出を確認する恰好の話のなかで、秋祭のことを尋ねたら、いまでも昔と同じ形式で続けられているという。奉納されるメインイベントのお神楽も、伝統を守って昔ながらに演じられているようだ。ただ子供の私には神楽はたいして面白いものではなく、その後に行われる村芝居が何よりの楽しみだったのだけれど、さすがにこちらは途絶えてしまっていた。集落単位で何年かごとの交代制で一座をこしらえて、主に国定忠次や石川五右衛門などの時代劇を上演したものだ。これが、いろいろな意味で面白かった。日頃無口な近所のおじさんが舞台に上がって「絶景かな、絶景かな」なんて叫んでいたりして、大いにたまげたこともある。句は、そんな芝居の事情を詠んでいる。なにしろ出演者が少ないので、ちょっとしか出ない「斬られ役」は、すぐに別のシーンで別の役を演じざるを得ないわけだ。ついさっき情けなくもあっさり斬られて引っ込んだ男が、また出てきて、今度は神妙な顔つきで月を見上げたりして行く秋を惜しんでいる図である。なんとなく妙な感じがして可笑しいのだが、一方ではどことなく哀しい。村芝居には、素人ならではの不思議な魅力がある。むろん作者の力点も、この不思議な味にかけられているのだろう。『宝塚より』(1999)所収。(清水哲男)


【秋惜しむ】 あきおしむ(・・ヲシム)
◇「惜しむ秋」
秋の季節が去ってゆくのを惜しむ気持ち。「行く秋」より直接的、主観的である。古来、主に春・秋について「惜しむ」という。
例句 作者
引き波の速きに秋を惜しみけり 酒井十八歩
ながき橋わたりて秋を惜しむかな 長倉閑山
秋惜しみをれば遙かに町の音 楠本憲吉
戸を叩く狸と秋を惜しみけり 蕪村
好晴の秋を惜めば曇り来し 鈴木花蓑
熔岩に立ち湖上の秋を惜しみけり 勝俣泰享
藤棚の下に安らぎ秋惜しむ 鈴木真砂女


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まつすぐの道に出でけり秋の暮  高野素十

2018-09-16 | 


まつすぐの道に出でけり秋の暮  高野素十

なんだい、これは。おおかたの読者は、そう思うだろう。解釈も何も、それ以前の問題として、つまらない句だと思うだろう。「で、それがどうしたんだい」と、苛立つ人もいるかもしれない。私は、専門俳人に会うたびに、つとめて素十俳句の感想を聞くことにしてきた。私もまた、素十の句には「なんだい」と思う作品が多いからである。そんなアンケートの結果はというと、ほとんどの俳人から同じような答えが帰ってきた。すなわち、俳句をはじめた頃には正直いって「つまらない」と思っていたが、俳句をつづけているうちに、いつしか「とても、よい」と思うようになってきた……、と。かつて山本健吉は、この人の句に触れて「抒情を拒否したところに生まれる抒情」というような意味のことを言ったが、案外そういうことでもなくて、このようにつっけんどんな己れの心持ちをストレートに展開できるスタンスに、現代のプロとしては感じ入ってしまうということではあるまいか。読者に対するサービス精神ゼロのあたりに、かえって惹かれるということは、何につけ、サービス過剰の現代に生きる人間の「人情」なのかもしれないとも思えてくる。みんな「まつすぐの道」に出られるのならば、今すぐにでも出たいのだ。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)

【秋の暮】 あきのくれ
◇「秋の夕暮」 ◇「秋の夕」
かつては、秋の日の暮れ方、或いは、秋の終りと受け取ったり、また両義を内包しながら曖昧に用いられたりした。今は大方、「秋の夕暮」の意で用いられ、秋の終りをいう「暮の秋」と区別している。『枕草子』でも「秋は夕暮れ」としているように、日本人は秋の夕暮や夜には特別な趣を感じ取り、実に多くの句や歌が詠まれている。
例句 作者
夢さめておどろく闇や秋の暮 水原秋櫻子
童部の独り泣き出て秋の暮 許六
泣けば子が何故に泣くかと秋の暮 野見山ひふみ
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
門出でて十歩すなはち秋の暮 安住 敦
引く浪の音はかへらず秋の暮 渡辺水巴
水入れて壺に音する秋の暮 桂 信子
乗り替へるだけの米原秋の暮 北川英子
山見ても海見ても秋の夕かな 一茶
一人湯に行けば一人や秋の暮 岡本松濱

たけし 秋の暮


産土に知らぬ町の名秋の暮 2017/9/15

家数に不足の灯り秋の暮 2015/10/15

老人の口一文字秋の暮 2015/10/15

秋の暮無人駅舎の時計音 2016/9/15

稜線の険の兆しや秋の暮 2016/10/27

豊満な縄文ヴィーナス秋の暮 2017/8/16




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鰯雲故郷の竈火いま燃ゆらん 金子兜太

2018-09-15 | 


鰯雲故郷の竈火いま燃ゆらん 金子兜太

竈火は「かまどび」と読ませる。望郷の歌ではあるが、作者はまだ若い。だから、そんなに深刻ぶった内容ではない。私が特別にこの句に関心を持つのは、若き日の兜太の発想のありどころだ。何の企みもなく、明るい大空の様子から故郷の暗い土間の竈の火の色に、自然に思いが動くという、天性の資質に詩人を感じる。兜太の作品のなかでは、あまり論じられたことがない句のひとつであろうが、私に言わせれば、この句を抜いた兜太論など信用できない。ま、そんなことはどうでもいいけれど、故郷の竈火もなくなってしまったいま、私などには望郷の歌であると同時に「亡郷」の歌としても読めるようになってきた。時は過ぎ行く。『少年』所収。(清水哲男)

【鰯雲】 いわしぐも
◇「鱗雲」(うろこぐも) ◇「鯖雲」(さばぐも)
巻積雲のこと。白い雲片の集まりで、さざ波のように空に広がっている。鰯が群れるのに似ており、鰯の大漁の予兆ともいわれる。「鱗雲」「鯖雲」ともいう。波のような白斑が、魚の鱗、あるいは鯖の背の斑紋に似ているためにそう呼ばれる。


たけし 鰯雲

熱気球みな受け止めて鰯雲 2013/12/2
あのときとおんなじかたち鰯雲 2013/9/15
大竜の腹の白さや鰯雲 2013/10/15
コンバイン追う鷺の群れ鰯雲 2015/10/15
鰯雲パンクしている散水車 2016/7/5
古宮に奉献の旗鰯雲 2016/10/6
ちゃあちゃんの半分溶けて鰯雲 2016/11/2
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原爆の街停電の林檎つかむ    金子兜太

2018-09-14 | 


原爆の街停電の林檎つかむ    金子兜太

林檎(りんご) (秋の季語:植物)
     りんご 紅玉 ふじ

季語の意味・季語の解説
==============================
 言わずと知れた赤くて甘い果実。
 切って食べたり、丸かじりにしたりするほか、ジュースや菓子の材料ともなる。
 青森や長野で生産量が多い。


季語の用い方・俳句の作り方のポイント
==============================
 林檎はとてもなじみ深い果物ですが、俳句の季語としては扱いづらい曲(くせ)者です。

 林檎はたくさんの顔を持っています。
 時には愛らしい赤い実であり、
 時には硬くて大ぶりな果物であり、
 時には寒い東北の田舎から都会へやってきた小娘であり、
 時にはどこか西洋の気品がある大人の女でもあります。

 あまりに多くの顔を持つだけに、「林檎」といったらこの俳句というような名句はまだ生まれてないように思います。

 ですから、あなたの詠んだ林檎の佳句が、日本のすべての林檎の句を代表する不朽の名句になる可能性もあります。

 とにかく多作を心がけ、いろいろな林檎の魅力を引き出してみましょう。

   牧の娘は馬に横乗り林檎かむ    小野 白雨

   青林檎置いて卓布の騎士隠る      能村研三

   原爆の街停電の林檎つかむ    金子兜太

   夕映えへ林檎流るる最上川 (凡茶)

   酸き林檎かじりてチェスの一手得る (凡茶)


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