退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

’12GW8

2012-05-07 02:54:13 | Weblog
くもりのち晴れ。少し雨も降る。

小中千昭「ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言」を読む。

「ホラー」と呼ばれる作品は数多いけれど
著者によれば意味不明なまま「コワイ」ものこそがいいのだと。

殺人鬼の「コワさ」は「ショッカー=驚かすもの」であり
「13日の金曜日シリーズ」におけるジェイソンを思い出せばわかりやすいか。

同じ殺人鬼ならジョン・カーペンター「ハロウィン」(’78)の
何度でも「復活」する主人公による「理由なき殺人」の方が「コワイ」らしい。

たとえば画面の隅でぼんやりしたものがじっと立っていたりするのが
実は「コワイ」のだという「感覚」は当初は理解されにくかった模様。

わが国において「ホラー」という言葉はたしか
来日したヒッチコックが自作の「鳥」(’63)をそう呼んだことから始まったと記憶している。

「カリガリ博士」(’20)のコンラート・ファイトや「魔人ドラキュラ」(’31)のベラ・ルゴシも「懐かしい」。
「エクソシスト」(’73)や同年の「ヘルハウス」はリアルタイムで観たはず。

「たたり」(’63)「悪魔のいけにえ」(’74)「悪魔の追跡」(’75)「家」(’77)など
あれこれと見た記憶もよみがえる。

個人的には「リング」(’98)より「呪怨」(’02)の方が好み。
前者は「『不幸の手紙』のビデオ版」だという思いが勝ちその後の作品も「理に落ちすぎて」今ひとつ。

それとは別にビデオの画面の雰囲気と好みの俳優を選べない「制約」が
「疑似ドキュメンタリー」という「形式」を採用させたあたりが興味深いところ。

ただし「ブレアウィッチ・プロジェクト」(’99)には全く乗れなかった。
「人が怖がっている様子」によって「コワイものを描く」という方法は理解したものの。

ある時期以降は見るに堪えないものが多くなったので最近はご無沙汰している。
マニア向けには黒澤清「地獄の警備員」(’92)の主人公の圧倒的な「理由のなさ」をおすすめしておく。

引き続き宇野常寛・濱野智史「希望論」を読む。

三十代の「気鋭の若手」はどうやらネットに「希望」を感じている模様。
「現実」をむしろ「ゲーム」として捉えて「共同体」を作るという視点に納得する。

いたずらに「理想」を抱いて「現実とのギャップ」に悩むより
「現実」を受け入れた上で「いかに好ましいものを作るか」という「未来」を見る「姿勢」は「若者」らしい。

「こうだからダメだ」から「こうしたらこうなるだろう」へ。
要は「民度の低さ」を嘆くよりその「体質」を「利用」して「いいもの」を作る方策を見つけるのだと。

「理想」を「担保」する「余裕」がない「環境」が
おそらくはそうした「姿勢」を生み出しているのだろうと推察する。

いたずらな「二項対立」こそ「現実」を「停滞させる」という指摘はもっとも。
彼らの「リアル」にもっと耳を傾けても悪くはないはず。

「文句なしの承認」が他人から与えられないのであれば
「いろんな場所」で少しずつ承認を得られるように動けばいいじゃないかと。

いかにも「不況」が色濃く反映された考え方で当面はそれでいいとして。

ただし人は「圧倒的な印象」を求めるものでもあるので
そこのところの「兼ね合い」が微妙に難しいのかも。

ある「一瞬」がその後の道筋を決めることも案外少なくなかったり。
それを「ロマンチック」だと言えはしても「現実」を左右する「力」でもあり。

「まったり」と「強度」は「両立」するのかというと
どうやらしないような「予感」もしつつ。

お互いの「危惧」を煮詰められたら「しあわせ」。
できれば「共存」したいものではあるし。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする