退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「現状認識」について

2012-05-15 03:01:20 | Weblog
晴れのちくもり。今日も風が吹く。

本が切れたので古本屋へ。
浜井浩一・芹沢一也「犯罪不安社会 誰もが『不審者』?」を読む。

6年前の本ということで今となっては統計の数字がいささか古いのか。
とはいえやたらに「体感治安」が悪化している現在にも通用する「事実」は確かにある。

「特異な犯罪」に「時代を読みたがる」学者や評論家たちの群れ。
類似する事件を集中的に取り上げまるで「頻発」しているかのような「錯覚」を与えるマスコミ。

そうした動きに煽られ高まる「不安」に
「犯罪抑止」には効果のない「重罰化」を進めたがる国民。

以前にも書いたように
「セキュリティ」に気を使えば使うほどさらに「不安」は高まるのだけれど。

なぜなら「完璧なセキュリティ」など存在せず
あらゆる「隙間」に「不安のタネ」はあり続けるから。

「感覚」が優先され「統計」が無視される「事実無根」が
いたずらに「現実」を窮屈なものにして。

いずれ「未知」ならば「恐怖」だけでなく
「思いがけない楽しさ」を思い浮かべられないものか。

ある種の「想像力の貧困」がさらに「貧しい現実」を生み出すという「負の連鎖」よ。
とりあえずもっと「のんき」に暮らしたいものではある。

まずはそれぞれが出来るだけ「現実」を知ること。
自らが「新しいもの」や「未知のもの」に「恐怖」を感じやすい体質であることも同様に。

少なくとも「ゆがんだレンズ」から「世界」を覗くのがわれわれの「基本」。
ならば「自分の判断」にはもっと「謙虚」であっていいはず。

ここでよくある「勘違い」についてひとつ。

「わたしの知っている範囲」ではかくかくしかじかと言いながら
それがあたかも「すべて」であるように語ることがそれ。

「限定付き」ならあくまでその「限定」に忠実に。
そして「自分の言いたいこと」より「自分の言ったことに対する相手の意見」をよく吟味したいもの。

その上で認めるところと認められないところをきちんと「仕分け」し
さらには自分のした「仕分け」に問題はないか確かめよう。

誰もが簡単にできることではないことを重々承知の上で
通すべき「筋道」を挙げておく。

「開き直る」のは誰にもできることなので
敢えて「目指すべき場所」を忘れないように祈りつつ。
コメント
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