退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「環境あるいは幼稚さと美学」について

2016-06-19 02:37:29 | Weblog
晴れ。30度超えの暑さ。

今宵は研修で老舗バーはお休み。

「宿題」の木下惠介のDVDをまだひとつも観ていないので
とりあえず明日は観ることにしたい。

吉村仁「強い者は生き残れない 環境から考える新しい進化論」を読む。

人類はなぜ狩猟・採集生活をやめて農業を始めたのか。
獲物がとれなくなって穀物を育てるよりなかったから。

海で生まれたはずの生命はなぜ陸に上がったのか。
海が「安心して暮らせる環境」ではなくなったから。

「そうせざるを得ない状況=環境の変化」と
それに対する適応能力こそが「進化」のカギであるというのがポイント。

ある環境への「過剰適応」は「安定した環境」においては役立つものの
「変化の激しい環境」においてはむしろ「絶滅」を招くことなど。

よくよく考えてみれば「当然の結論」か。
なぜこの考え方がその世界で「主流」にならなかったのかが素人には疑問。

おそらく無意識のうちに動物や植物に「人間のような『主体性』」を見ていたせいではないか。
われわれ人間も結局のところ「環境」には適応するしかない「無力さ」を見逃すために。

深夜マル激を観る。

Nコメでは「舛添問題」の背後にある官僚の政治家に対する優位と「権力闘争」について。
「セコさ」だけを見る「幼稚さ」から脱しようという掛け声。

本編は「18歳選挙権」に反対する精神科医斎藤環を迎え
「試行錯誤」あるいは「弱者」に対するサポートもないまま「義務」を押し付ける「村人性」について。

身近な若者たちの「幼児性」にあきれることが多い身としては大いにうなずく。
もっともそう言う自分が「子ども」だったりするので厄介。

「ひきこもり」の実情を聞くにつけ
そういえば結構当てはまる部分があるなと再確認。

「重ねた年は伊達じゃない」と思いたいところではあるけれど。
こればっかりはどうしようもない。

「ひきこもりが『クソ社会』に復帰する意味はあるのか」という宮台真司に笑う。
その「正しさ」は「現実と多数決」に必ず負ける類いのものなので。

もっともその種の「勝ち負け」などどうでもよく
それでも主張するのがある種の「美学」なのだと受け止めておく。
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